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冷たい使者

森の雨の匂いと、彼の(ひと)——魔女の薬草の香りは、城の重厚な石造りの廊下までついてきた。


執務室に戻ったマーレは、窓の外を眺める。森は遠く、黒い塊となって雨に沈んでいる。森のさらに上の山、中腹くらいだろうか、彼女のーラクスの家があるのは。霧がかって見通しの悪いそれを、一瞬だけ強く見る。




コンコン、と控えめな、だが拒絶を許さないノックの音が響いた。




「マーレ、入るぜ。例の『お客様』がお待ちかねだ」




ファロスの声に、領主ーマーレは表情を消す。ファロスも表情には出ていないがどことなく乗り気ではないのがよく見える。


しばらくして入ってきたのは、豪奢な毛皮を羽織り、口元に傲慢な笑みを浮かべた男。隣国・ガルダ帝国の使者、ヴォルフだ。


「これはこれは、若き領主殿。お声が出せぬというのは不便なものですな。……おや、妙に野草の臭いがする」


ヴォルフは鼻を鳴らし、わざとらしく顔をしかめた。


ラクスが転移魔法で城まで転送してくれたので着替えているが、後半は嫌味だろう。


「よもや、あの忌まわしい『ヘルバの森』に足を踏み入れたのではあるまいな? あそこは呪われた土地だ。我が国との国境を整理するためにも、早々に焼き払い、道を切り開くべきだと……陛下も仰せでしてな。」


マーレは無言のまま、ヴォルフを射抜くように見つめた。


感情を排した金の瞳が、深淵のような冷徹さを放つ。


彼は机の上の手帳に、鋭い筆致で一言だけ書き殴り、それをファロスへと滑らせた。


ファロスがその内容を一瞥し、冷ややかな笑みをヴォルフに向ける。


「……我が主はこう仰せだ。『森に手を出すことは、この私を敵に回すことと同義だ。――分かったら、余計な真似はするな』とな」高貴なる主人の筆跡などこのような下種な男に見せる必要はない。いつものひょうひょうとした姿とは別に、冷徹な右腕と言われる表情と態度である。


ヴォルフは忌々しそうにファロスを見てから、マーレに視線を戻し、


「……ほう。声を失い、精霊の加護も失ったと噂される貴殿に、何ができるとおっしゃる?」


部屋の空気が一瞬で氷点下まで下がる。


マーレの脳裏に、先ほど見たラクスの、強張った背中がよぎった。




(彼女の領域を、これ以上汚させはしない)




記憶は霧の向こう側にある。だが、彼女は守らねばならないという意志だけが、彼の胸の奥で熱く脈打っていた。






パタン、と重厚なオークの扉が閉まった。


ヴォルフが放っていた香水の嫌な匂いが、部屋の隅に澱おりのように残っている。ヴォルフの傲慢な足音が廊下に消えると、それまで張り詰めていた空気がふっと緩み、代わりに雨の湿り気が戻ってくる。


「……反吐が出るぜ、あいつら。森を焼いて道を拓くだと? どの口が言ってやがる。カイン様に聞かせてやりたいぜ。」ファロスは隣接するベルンハルト領の若き当主、カイル・フォン・ベルンハルトを思い出して呟く。カインはガルダ帝国の貴族ではあるが、先祖代々ヴァルデム家とは「森を共に管理する仲間」という意識が強い。帝国でも穏健派ー中寄りの家なのだ。


ファロスは吐き捨てるように言うと、窓を少し開けて雨の空気を取り込んだ。マーレは椅子に深く腰掛け、組んだ指の上に顎を乗せている。その淡い金の瞳は、机の端に置かれたままの、あの小さな「魔女の部屋」の記憶を反芻しているようだった。


「旦那。あいつら、薬草の乱獲どころか、本気で森の結界を壊しにかかってる。」ファロスは振り返り、主人の顔を覗き込んだ。


「それより……魔女殿だ。」


マーレの指先が、ぴくりと跳ねた。


「ラクス、だっけか。あんた、あの子の顔を見た途端、呼吸が止まってたぜ。……本当に、何も思い出せないのか?」マーレは無言のまま、手元にあった手帳を引き寄せた。筆圧は強く、紙に深く刻まれる。




『……分からない。だが、あの部屋の匂いを嗅いだ瞬間、懐かしいと感じた。』




彼はペンを止め、自分の喉元にそっと触れた。


呪いで失われた声。あの時、誰を呼ぼうとして、誰を庇って、この声を失ったのか。




『彼女は、私を嫌っている。……あるいは、恐れている。』




マーレは不思議そうに首をかしげる。彼女とは初対面のはずーいや、就任式で会っているはずだが、思い出せない。


「そりゃ、あんなに睨まれりゃ誰だってそう思うさ。」


ファロスは苦笑して肩をすくめた。


「でもよ、あの子、あんたが『声が出ない』と知った時の顔見たか?嫌ってる奴が、あんな顔をするもんかね。」実際はそれほど大きく取り乱したりしていないのだが、女性経験豊富なファロスにしてみれば、手に取るようにわかった。あの魔女がうちの領主に気持ちがあるということを。だが領主と契約を結ぶ魔女として扱わなければならない。しかも何故だかうちの主がご執心のようだ。


マーレは答えなかった。ただ、手帳の端をなぞる。彼女の領域を荒らす者は許さないと言った、あの強い瞳。




『調査は、三日後だ。……それまでに、体を整えておく。』




「承知した。年若い魔女だからって、惑わされるなよ?主殿。 」


ファロスが茶化すように言うと、マーレはわずかに視線を逸らした。


冷徹な領主の仮面の下で、一人の男としての戸惑いが、静かに揺れていた。






ファロスが出ていくと、マーレは緩めていたネクタイに指をかけ、苛立ちを逃がすようにそれを引き抜いた。窓の外では雨足が強まり、冷えたガラスが彼の熱を帯びた額を拒絶するように撥ね返している。


椅子に深く背を預け、マーレは苛立ちを逃がすようにネクタイを引き抜くと、シャツのボタンを二つ、三つと外した。


露わになった鎖骨から胸元にかけて、そこには悍おぞましい「呪い」の痕跡が、青白い血管のように浮き出ている。


指先でなぞれば、そこだけが異様に熱く、彼の命を削り取るように脈打っていた。


(……思い出せない。だが、この痛みだけが真実だ)


鏡に映る呪いの痕は、まるで誰かに刻まれた消えない口づけのようでもあった。


目を閉じれば、意識は深い闇の底へと沈んでいく。


「……っ」


不意に、喉の奥が焼けるように熱くなる。


声にならない悲鳴が、せり上がっては消えていく。


彼は自らの喉を、指が白くなるほど強く、愛惜を込めるように抑え込んだ。


失われたのは声だけではない。代々の領主は精霊と魔女との契約により精霊の声が聞こえる。それが聞こえないため、業務の一部を未だ先代の領主であるガリアスに肩代わりしてもらっている状態だ。早く呪いを解かねばならない。記憶の断片が、鋭い刃となって胸の奥を抉る。


(ラクス……)


心の中でその名を呼ぶだけで、喉の傷跡が激しく疼き、甘い痺れが全身を駆け抜ける。

彼女は自分を「覚えている」。だからこそ、あのような絶望に満ちた瞳をしたのだ。

彼女が背負っている罪の正体を、言葉を持たぬ領主は暗闇の中で、独り、熱を持った傷跡をなぞりながら追い求めていた。

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