エピローグ後日談 比翼の旋律、君だけの声
ヘルバの森、頂上『泉の門』での死闘から数か月。
ヴァルデム城は、迫りくる冬の準備と新たな試みに追われていた。
深夜。マーレは、終わりのない会議を抜け出し、吸い寄せられるようにラクスの部屋へと向かった。
扉をノックすると、中から「どうぞ」と、以前よりも少し低く、落ち着いた声が響く。部屋に入ると、ラクスは暖炉の前の寝椅子に横たわり、古びた魔導書をめくっていた。
湯浴みを終えたばかりなのだろう。灰青色の髪は緩くまとめられ、纏っているのは薄手の寝衣の上に、ソルの遺品である漆黒のローブを羽織っただけ。
暖炉の火に照らされた彼女の肌は、硝子細工のように滑らかで、微かに薬草と蜂蜜の甘い香りが立ち上っていた。
「……随分と、お疲れのようですね。我が領主様。」
ラクスは魔導書から目を離さず、口角だけを微かに上げた。その声音には、以前のような怯えや初々しさはなく、すべてを受け入れるような深みがある。
マーレは無言で近づくと、彼女の足元、寝椅子の端に腰を下ろした。
鎧を脱ぎ捨てた彼は、ただの疲れ果てた青年の顔をしていた。彼はラクスのローブの裾を掴み、そこに自分の顔を埋める。
「――」
声は出なくとも、その動作は「甘え」そのものだった。
二年前、声を失った夜から、彼はラクスにだけは、この「弱さ」を見せることができた。
ラクスは、ようやく魔導書を閉じると、ローブを掴む彼の大きな手に、自分の白い手を重ねた。
そして、ニヤリと、少し意地悪く、けれど妖艶に微笑む。
「……あら。声を失っていた頃は、手帳に『君が生きていてくれるだけでいい』なんて、殊勝なことを書いていたのに。……声が戻ったら、今度は態度で『構ってほしい』と訴えるのですか?」
マーレがびくりと肩を揺らし、顔を上げる。その金の瞳は、少年のように戸惑っていた。
「……ラクス。お前、以前と随分……」
「随分、何ですか? マーレ。あなたは忘れているかもしれないけれど、私は二年間、……あなたが口に出せない、意地汚いほどの独占欲も、私への想いも。そのすべてを、私は自分の心で、感じ続けてきたわ。隠しても無駄よ。精霊の声が聞こえなくなっても精霊とあなたは繋がっていたんだから。魔女に隠し事はできません。」くすくすと笑う。本人を前に、聞こうとしなければ聞こえないのだが、精霊が聞けとうるさいのでどうしてもマーレの気持ちは筒抜けだった。声があるときも、そして声を失ってからも。ただ人が精霊と契約することはそんなリスクもある。
ラクスは寝椅子から身を起こすと、マーレの喉元、あの呪いの傷跡に、そっと掌を当てた。そのまま、彼のネクタイを指先でゆっくりと解き、シャツのボタンを一つ、二つと外していく。
「……っ、ラクス、何を……」マーレの声が、期待と緊張で掠れる。
ラクスは、彼の喉元から鎖骨、そしてはだけた胸元へと、視線を這わせた。その瞳は、獲物を定める魔女のそれであり、同時に、愛しいものを愛でる女のそれだった。
「……声が戻ったからといって、すべてが以前通りになると思ったら大間違いよ。……二年間、あなたが溜め込んできた『想い』。……それを、今度は私が、この身体で、一枚ずつ暴いてあげる。」
ラクスは、彼のシャツの隙間に滑り込ませた手を、彼の背中へと回した。
そして、彼を自分の胸元へと引き寄せる。
「……覚悟はいい? ……私の、可愛い獅子さん」
ラクスの唇が、彼の耳元に触れる。
その瞬間、マーレの中の理性が、心地よい音を立てて崩れ去った。
彼はラクスを寝椅子に押し倒すと、今度は自分から、彼女の白い首筋に、飢えた獣のように唇を寄せた。
深夜の寝室。言葉は不要だった。
二人は、失われた二年間を埋めるように、互いの肌と、響き合う鼓動だけで、新しい愛の旋律を奏で始めた。
馬車は心地よい揺れと共に、新設された学校を後にしていた。 車内では、マーレが座席に深く腰掛け、その足の間にラクスを座らせる形で、後ろからすっぽりと包み込むように抱きしめていた。ラクスの背中はマーレの分厚い胸板にぴたりと預けられ、彼女の細い体躯は、彼の逞しい腕の中に完全に収まっている。
「……あの子、一生懸命にペンを握っていましたね」
ラクスは窓の外を眺めながら、意識して落ち着いた声を出す。背後から伝わるマーレの力強い鼓動が、自分の背中にまで響いてくるのが分かった。
「ああ。……ラクス、あんな提案をしてくれてありがとう。お前は本当に、俺に足りないものを教えてくれる」
マーレの声が、耳元で低く響く。震動が直接肌に伝わり、ラクスは微かに身悶えた。
「……私はただ、もう二度とあの子が、あんな銀色の輪を誰かにはめなくて済むように、って思っただけです。あの子の手、あの日、すごく震えていたから」貧困からの犯罪を減らすためにも学校は必要だった。その優先順位が上がっただけだ。
すると、ラクスの腰に回されていたマーレの腕が、少しだけ力を増した。彼はラクスの手首を取り、あざの消えた真っ白な肌を、愛おしそうに親指でなぞる。
「……優しいな、お前は。……だが、俺はまだ、あの子を完全には許していないんだぞ。」
「えっ……? でも、学校に入れることも許可してくださったのに。」
ラクスが首を捻って後ろを振り返ると、そこには至近距離で彼女を見下ろす、悪戯っぽく、けれど独占欲の滲む金の瞳があった。
「あの日、お前のその肌に、俺以外の『男』が触れた。……それが例え子供だろうと、俺にとっては万死に値する嫉妬の対象だ。」
「なっ……! ま、マーレ様、あの子はまだ十歳にもならないんですよ!?」
顔を真っ赤にするラクスを見て、マーレは喉の奥で低く笑った。彼はラクスの首筋に顔を埋め、鼻先でその柔らかな肌を愛撫するように辿る。
「だから、これはお前への『罰』だ。あの子を許してやった代わりに、お前は俺の嫉妬を甘んじて受け入れろ。」
そう言うなり、マーレはラクスの手首を引き寄せ、あざのあった場所に、熱く、深い痕を残すような口づけを落とした。
「っ……あ……」
不意の刺激に、ラクスの口から小さな吐息が漏れる。彼女は慌てて自分の口を抑えた。すぐ外には御者がいるのだ。
「……どうした? まだ慣れないか? それとも、昨夜あんなに大胆だった魔女様は、どこへ行った?」
マーレはラクスの耳たぶを軽く噛み、熱い息を吹きかける。後ろから抱き込まれているせいで、逃げ場はどこにもない。ラクスは彼の腕の中で、落ち着きを取り戻そうと深く息を吐いた。
「……ズルいです。……声が。」
(声が良すぎる)
ラクスは少しだけ意地悪く、彼の腕の中に身を沈めながら、後ろ手に彼の首筋へ手を回した。
「君だけの声だ。」
マーレはラクスの首筋に唇を寄せたまま、独占を誇示するようにその細い身体をさらに強く、けれど壊れ物を扱うような慈しみを持って抱きしめ直した。
馬車の窓の外には、凍てつくような群青の寒空が広がり、時折、乾いた冬の風が車体を激しく叩いていた。けれど、遮光されたカーテンの内側は、外の酷寒が嘘のように、熾火おきびを囲んでいるような静かな熱に満たされていた。
マーレの広い胸板から伝わる、力強く規則正しい鼓動とラクスの髪から立ち上る、甘く温かい蜂蜜の香り。
二人の吐息が混じり合い、わずかに白く煙っては、重なり合う肌の熱に溶けて消えていく。
それは、「凍てつく世界に取り残された二人だけの、小さな聖域」。
外が冬へと向かい、景色が色彩を失っていくほどに、この閉ざされた空間にある互いの体温だけが、鮮やかに、そして愛おしく響き合っていた。




