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静寂と、呪い

ラクスは踵を返し歩き始める。赤毛の男はあわててそれについて行こうとし、数歩歩いたところで、視界が突然変わったことに気づく。




「!?」森の中にいたのに、足元は木の床、雨風も防ぐ室内に変わっていた。頬を打っていた雨の冷たさが消え、代わりに鼻腔を突いたのは、幾重にも重なる薬草の乾いた匂いだった。あわてて、赤毛の男が後ろを振り返ると、大柄のこげ茶色の髪の男もわずかに目を見開いている。


「転移か!」赤毛の男は声を荒らげ、腰の剣に手をかけようとして止まった。ここは魔女の懐だ。下手に動けば、次の瞬間に自分がどこへ飛ばされるか分かったものではない。






ラクスは彼らの動揺を背中で感じながら、ラクスは外套を脱ぎ、壁に掛けると、振り返って促す。


「……どうぞ、濡れたものを。」


促されるまま、大柄な男がゆっくりと指先をマントの留め金にかけた。


カチリ、と金属の鳴る音が静かな部屋に響く。


重厚な布地が肩から滑り落ち、床に置かれたその時、隠されていた「今」の彼が露わになった。うす金色の瞳。短く整えられたこげ茶色の髪は緩くカールを描いている。二年前よりもさらに逞しく、隙のないほどに鍛え上げられた肩幅。そして、かつての少年の面影を脱ぎ捨て、峻厳(しゅんげん)な主君としての威厳を纏った顔立ち。


(……マーレ様)


ラクスの息が止まる。


記憶の中の彼よりも少しだけやつれた様子だ。けれど、自分を見つめるその金の瞳に宿る熱だけは、あの日のままで――いや、より深く、逃れられないほどの執着を()らんで彼女を射抜いていた。


マーレもまた、立ち尽くしたままラクスを凝視していた。


一つにまとめられた灰青の髪。大人の女性としての柔らかな曲線を描く身体つき。そして、賢明で、どこか悲しげな濃紺の瞳。思い出せないのに既視感がある。


「……」


彼は一歩、ラクスとの距離を詰めた。


ラクスは逃げることもできず、自分を見下ろす彼の圧倒的な存在感に、ただ身をすくませる。


マーレはゆっくりと、手袋を脱いだ右手を差し出した。


大きな、熱を帯びた手がラクスの指先に触れ、そのまま彼女の掌を、強引に、けれど壊れ物を扱うような繊細さで引き寄せる。


「……再会を喜んでくださっているのかしら、それとも、私への恨み言かしら。」


ラクスが震える声で精一杯の冗談を口にすると、マーレは少しだけ眉を下げ、切なく目を細めた。


そこで、咳払いが聞こえる。


「…いい感じのところ悪いんですが本題に入らせていただいても?」赤毛の男が居心地悪いように苦笑いをしていた。






「……どうぞ。座り心地の保証はいたしません。」そう告げると、彼女は反対側の椅子に腰かけ、指先を棚に向ける。棚が勝手に開き、陶器が浮いて出てきてテーブルの上に並ぶ。


マーレの視線は、作業台に置かれたすり鉢や、吊るされた薬草に向けられていた。


「それで。領主様が、何用でしょうか?」いかにも固い歓迎されていないその声に、赤毛の男は「やれやれ」と肩をすくめると、遠慮なくスツールを引き寄せて座り込んだ。


「・・・森の『小さい魔女』が、これほどの転移術の使い手とはね。俺はファロス。見ての通り、領主サマの世話焼き係――まあ、側近ってやつだ。魔女殿は覚えてないだろうが子供の頃一度お目にかかったことがある。まぁ覚えてないだろうが。」ファロスはラクスを観察する。ラクスは答えず、乾燥させたカモミールと少しの苦味がある薬草をポットに放り込んだ。熱い湯を注ぐと、独特の香りが部屋に広がる。ラクスはマーレを見つめる。こうして目の前にいるのは実に二年ぶりなのに、その歳月さえ無かったかのように彼はこの家に馴染んでいる。


彼は、怒る風でもなく静かにラクスを見つめ返した。薄い金色の瞳には、不思議な親しみの色があった。


彼は無言のまま、懐から一冊の革装の手帳とペンを取り出した。


さらさらと、淀みのない動作でペンが走る。


ファロスが横から覗き込み、ニヤリと笑った。


「旦那は、あんたにしか頼めないことがあるんだとさ。」


ファロスは机に置かれた薬草茶を一口すすると、少し真剣な顔をして切り出した。


「実は、麓の町から通告があったんだ。『ヘルバの森の薬草が、根こそぎ奪われている。それも、まるで素人が力任せに刈り取ったような、乱暴な跡がある』とな。」


ラクスはカップを持つ手を止めた。


「……薬草が? 精霊たちが騒いでいたのは、そのせいですか?」


「おそらくね。ただの盗人か、それとも何か別の意図があるのか……。旦那は、この目で確かめたいと言って聞かなかった。領地の異変は、早めに摘んでおかなくちゃならないからな。」


ファロスはそう言いながら、隣の領主に目配せをする。


マーレは手帳を、ラクスへと差し出した。そこには、整った、だがどこか切実な筆致でこう記されていた。




『私には精霊の声は聞こえないが、乱獲された薬草の周辺で、かつて聞いたことがあるような不吉なざわめきを感じた』




(精霊の声が聞こえないーーー?)ラクスは心臓が脈打った。この地の領主はこの森を守る役割も持つ。森の守り手である魔女と領主は互いに協力関係に代々あるのだ。だから、領主が精霊の声が聞こえない、ということはあり得ない。仮に、魔力を持たない領主だとしても、魔女から魔道具を契約してそれを媒介に精霊の声を聴く。しかし、そんな魔道具の依頼は今日まで無かった。さらに彼が倒れてから回復した後、事件の事後処理と原因解明のためにほとんどの通信を先代領主が代りに行っていて、ラクスには依頼の手紙すらこの2年来なかった。責務から仕方がないとは思っていたが、ラクスはラクスで町や魔法協会の依頼もあって忙しくしていたので、彼と会うのは2年ぶりであった。


それに、先ほどから彼は一言も話さず、そして、筆談。まさかーーー




「領主様、声が出せないのですか?」ラクスは自然と固くなる自分の声をまるで他人のように聞いた。


ラクスが放った問いは、古い薬草の匂いが満ちる部屋に重く落ちた。いつもは軽やかな香りのそれが、雨の匂いとともに深く浸透していく。


ファロスの口元の笑みが、ふっと消える。ただ静かに、隣に座る主人の横顔を見つめた。


マーレは、驚く風でもなく、ただゆっくりと瞬きをした。


否定することも、肯定することもしない。ただ、その淡い金の瞳に宿る静かな光が、彼女の推測が正しいことを無言で告げていた。


彼は再びペンを取り、さらさらと紙を滑らせる。


そこには、自嘲のような、どこか潔い一文が記された。




『声だけではない。あの日以来、私の中で何かが欠けてしまったようだ。』




(欠けてしまった……?)


ラクスは、差し出された手帳を握る指先に力が入る。


「あの日」――彼女が覚えている、精霊が荒れ狂い、呪いの気配が渦巻いた、あの就任式の日。 代々この森を守るべきヴァルデムの領主が、精霊の声を失い、自らの声さえ奪われている。




(そして、これは――)


ラクスは確信した。 彼は、私を覚えていない。




「……調査の日は私も同行します。契約ですから。ヘルバの魔女とヴァルデム領主の。」小さな胸の痛みを隠すように立ち上がると、窓の外、雨に煙る森へと視線を投げた。


窓に映る自分の顔が、ひどく強張っている。


背後で、領主が小さく頷く気配がした。


彼女の背中に漂う微かな震えを、彼は――記憶を持たぬはずの主君は、ただじっと、射抜くような視線で見つめ続けていた。

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