継承の儀、獅子の咆哮
「死ね、魔女の娘!」逆上した隠密が、毒を塗った短剣をラクスの無防備な背中へと突き出した。魔力の行使に全神経を注ぐラクスに、回避の余地はない。
――だが、その刃が彼女に届くことはなかった。
重厚な金属音が響き、短剣が火花を散らして弾き飛ばされる。ラクスの背後には、抜き放たれた剣を構え、不動の壁となったマーレが立っていた。
マーレは振り返らない。ただ、その背中が「私を信じて前へ行け」と語っていた。ラクスもまた、彼を見ない。視線を交わすまでもなく、二人の心は今、一つの鼓動を刻んでいる。
(……ありがとう、マーレ様)
ラクスは一歩、荒れ狂う泉の中へと足を踏み入れた。意識が肉体を離れ、精霊世界の境界線へと溶け込んでいく。
光と闇が混ざり合う無音の領域。 そこには、二年前のあの日のまま、穏やかに微笑むソルの姿があった。
「……ようやく、辿り着いたわね。ラクス。」
「ソル様……!」
駆け寄ろうとするラクスを、ソルは優しい眼差しで制した。ソルの体は、泉の核を繋ぎ止めるための光の糸に包まれ、透き通っている。
「私の自慢の弟子。あなたはもう、私が守らなければならない『子供』ではないわ。……領主の盾となり、森の声を聴く、ヘルバの真の主。私の魔力、そしてこの森の未来を、すべてあなたに託します。」
ソルがラクスの手首に触れると、食い込んでいた銀の腕輪が、春の雪のように儚く崩れ落ちた。
「ラクス、これは『制約』ではなく『約束』よ。……そして、マーレに伝えて。二年前、私が彼の声を奪ったのは、呪いから彼を救うための『仮初めの封印』だったと。……今、その封印を解く鍵は、あなたの元にあるわ。」
ソルはラクスの頬を愛おしそうに撫で、光の向こう側へと溶けていく。
「さあ、行きなさい。……あなたの『声』で、彼を呼び戻して。」
現実世界。ラクスの体から、黄金にも似た青い魔力が爆発的に溢れ出した。 暴走していた門が、その圧倒的な慈愛の前に平伏するように、静かに閉じていく。
「バ、カな……精霊の怒りが、消えていく……!?」
愕然とする隠密を、マーレの剣が一閃のもとに沈めた。 静寂が戻り始めた泉の畔で、ラクスはゆっくりと目を開ける。
彼女は、自分の中に満ちる、ソルから受け継いだ「万物の声」を感じていた。 そして、隣に立つマーレを見つめる。
(……マーレ様。もう、沈黙という牢獄は必要ありません)
ラクスはマーレの喉に、そっと掌を当てた。 ソルの想い、ラクスの愛、そして二人が歩んできた苦難の記憶。そのすべてを魔力に変えて、二年前の封印を解き放つ。
「……マーレ…」
ラクスが初めて、彼の名を呼んだ。 その瞬間、マーレの喉の傷から、黒い蔦のような呪詛が光の塵となって霧散した。
マーレは大きく息を吸い込んだ。 二年間、肺の奥に溜まっていた重苦しい澱みが、一気に消え去る。
「……ラクス…」
掠れているが、深く、温かい、かつての彼よりもずっと力強い声が、石造りの地下室に響き渡った。 マーレは自分の喉に手を当て、信じられないというように目を見開き、やがて目の前の少女を、今度こそ力一杯、抱きしめた。
「ラクス……! 私の声は、お前のためにある。……愛している。もう二度と、離さない」
ガリアスは、その光景を涙を浮かべて見守っていた。 泉の核は安定し、その奥底ではソルが、いつか目覚めるその時を待つように、安らかな眠りについていた。




