忠誠の歪み、賢者の誤算
森が静かに泣いていた。
鳥の声も聞こえず、空は暗雲が立ち込め、霧がかった山は人とは異なる世界のようだった。
山頂には風が吹きすさび、嵐の前触れを示していた。
泉の底、淡く光る石に刻まれた「泉の門」。
魔力の奔流が渦巻くその聖域で、二人の老人が対峙していた。
一人は、かつて獅子と謳われた先代領主ガリアス。そしてもう一人は、その影として生涯を捧げたはずの文官、セバス・クロムウェル。
「……いつからだ。セバス」
ガリアスの声は、怒りよりも深い悲哀に満ちていた。 セバスは、門を制御する魔導装置を手にしたまま、自嘲気味に口角を上げました。
「いつから、とお聞きですか? ……それは、我が領が帝国の影に怯え、薬草の香りに安んじていたあの日々、ずっとですよ。ガリアス様」
セバスの瞳には、温厚な彼には似つかわしくないひどく狂信的な光が宿っていた。
「ヴァルデムは美しい。だが、あまりに脆弱だ! 薬草だけのこの地が、精霊の気紛れな加護を失えば、帝国の軍靴に踏みにじられるのは時間の問題。……私は、ヴァルデムを『守る』ために、精霊の力を完全に支配し、兵器として再構築する必要があると考えた。そのための『事故』であり、そのための『人柱』だったのです!」
「……それが、私の息子から声を奪い、我が友を泉に沈めてまで成すべきことだったのか。」
「そうです! 犠牲なくして、小国が生き残る道などない!」
セバスは懐から、手垢のついた数枚の資料を取り出し、ガリアスに突きつけました。
「見てください! ノイデバルデ領の当主から極秘に届けられた、帝国軍の近代化予測データです。これを読めば、我が領の絶望は明らか。……私は、文官としてこの数字が嘘を吐かないことを、誰よりも理解してしまった!」
ガリアスはその資料を奪い取り、一瞥するなり吐き捨てるように言いました。
「……愚かな。セバス、お前はこの資料の裏側を、なぜ読もうとしなかった」
「……何だと?」
「この数字は、お前に危機感を抱かせ、暴走させるために『誂えられた』毒だ。帝国との均衡を保つために最も重要なのは、兵器の数ではない。精霊との共生による、この地の『不可侵性』なのだ。……お前が精霊の門を強引に開こうとしたことで、逆にその唯一の盾が壊れかけた。……お前を唆した者は、お前の『忠誠心』という名の傲慢さを利用し、内側からこの領を崩壊させようとしたのだ。」
セバスの顔から、血の気が引いていきました。
「……嘘だ。私の計算は、完璧だった……私は、ヴァルデムのために……」
「お前の『知性』が、お前の『心』を殺したのだな。」
ガリアスの言葉が、セバスの魂を打ち砕こうとしたその時――。
激しい魔力の風を切り裂き、二つの影が現れた。 マーレとラクスだ。二人は急ぎ城の緊急用転移陣を利用し泉まで来たのだった。
マーレの金の瞳は、目の前の裏切り者と、悲しみに暮れる父の姿を捉え、 ラクスはセバスが握りしめている魔導装置に気づく。
「……私の計算が、完璧だった、だと……?」セバスは二人が現れてもその姿が見えていないように資料を握りしめ、茫然としていた。
ガリアスの言葉に、セバスの完璧に構築されていた「正義」の世界が、足元から崩れ去っていく。マーレは射抜くような視線で見下ろした。 声は出ない。けれど、彼の全身から溢れる覇気は、セバスの犯した「偽りの正義」を真っ向から否定していた。
資料を握りしめた手が、小刻みに震えた。
「嘘だ……! 私は、ヴァルデムを愛していた! ガリアス様、あなたを……! なのに、なぜ……!」
セバスの瞳に、絶望を超えた「狂気」が宿る。
彼は懐から、他領主から資料と共に受け取っていた、もう一つの「代物」を取り出した。それは、精霊の魔力を強制的に逆流させる、禁忌の魔導石だった。
「完璧でなかったのなら……全て、やり直すまで! この泉を爆発させ、ヴァルデムを一度、死の灰に沈める! そうすれば、誰も帝国に怯えずに済む!」
「セバス、やめろ!」
ガリアスの叫びも虚しく、セバスは魔導石を「泉の門」へと投げつけようとした。
――その時だった。
セバスの影から、無機質な鉄の触手が伸び、彼の腕を、そして喉を、背後から貫いた。
「が、はっ……!?」
セバスの口から、血が溢れる。
禁忌の魔導石が、床に転がった。
影の中から現れたのは、ヨアヒムの下で動いていた帝国の隠密だった。
「……ヨアヒム卿からの、最期の伝言だ。『優秀な駒ほど、使い捨て甲斐がある』とな。貴様は、我らの理想のために、ここで死ぬのだ。」
セバスは、自分を利用し、唆した者たちが、最初から自分のことなど「守るべき対象」として見ていなかったことを、最期に理解した。
「……ガリアス、様……。私は……」
賢者は、自らの優秀さに溺れ、真の裏切り者に足元を掬われたまま、絶望の中で息絶えた。
隠密はニヤリと笑うと、転がった魔導石を拾い上げ、今度こそ「泉の門」へと投げ入れた。
「――これで、ヴァルデムは終わりだ!」
ズゥゥゥォォォォンッ!!
魔導石が泉に沈んだ瞬間、精霊世界への門が、黒い亀裂となって暴走を始めた。
泉の水が沸騰し、黒い蔦のような呪力が、森を侵食し始める。
二年前を凌駕する、精霊の「断末魔」が、ヴァルデム全体を震わせた。
(……来るッ!)
マーレがラクスを庇うように前に出る。
ガリアスも剣を抜き、隠密へ向かおうとしたが、暴走する魔力の奔流に、近づくことすらできない。
その時、ラクスの青灰色の髪が、重力に逆らうように舞い上がった。
彼女の濃紺の瞳に、かつてないほど強い光が宿る。
(……私は、ソルの弟子。この森の、魔女!)
ラクスはマーレの制止を振り切り、黒い蔦が渦巻く泉の畔へと駆け出した。
彼女の中の魔力が、精霊の怒りと共鳴する。
彼女は、自分の中に眠る、あの「冷涼で懐かしい香り」の記憶を呼び覚ました。それは、ソルが彼女に遺した、最期の教え。
「……精霊たちよ。怒りを沈めて。……彼女の、ソルの声を、思い出して!」
ラクスが両手を泉にかざすと、彼女の体から、淡く、けれど透き通るような青い光が溢れ出した。
その光は、黒い呪力を優しく包み込み、泉の奥底へと押し返していく。
「……バ、カな! 魔力封じの腕輪は、外れていないはずだぞ!?」隠密が愕然と叫ぶ。ラクスの右手首には、まだあの銀の輪が食い込んでいた。
けれど、今のラクスの魔力は、腕輪の呪縛を遥かに超え、精霊世界そのものと直接繋がっていたのだ。
「……ラクス……!」
マーレが目を見開いた。
暴走する門の向こう側で、眠り続けていたソルの「鼓動」が、ラクスの光に呼応するように、強く、確かなリズムで刻まれ始めた。
ラクスの光は、黒い亀裂を、ゆっくりと、けれど確実に閉じていく。
それは、魔女としての真の覚醒。
そして、二年前の事件を、本当の意味で終わらせるための、彼女自身の「声」だった。




