沈黙の帰還、母の眼差し
エティエンヌが去った数時間後。 深夜の静寂を破り、部屋の扉が静かに開きく。入ってきたのは、鎧を脱ぎ捨て、疲れ果てた表情のマーレだった。 彼はベッドの傍らまで歩み寄ると、椅子を引き、少し離れた場所に座った。拒絶されたことを、彼はまだ自分の「無力さ」のせいだと思い、彼女の領域を侵さないよう、細心の注意を払っていた。
涙を流し尽くし、極限の緊張から解放されたラクスは、いつの間にか浅い眠りに落ちていた。
マーレは椅子をさらにベッドの近くへ寄せ、彼女の寝顔をじっと見つめていた。 月明かりに照らされた彼女の頬には、まだ乾ききらない涙の跡が、銀色の筋となって残っている。
(……代わってやりたかった)
マーレは、震える右手をゆっくりと伸ばした。 その涙の跡を指先で拭ってやりたい。赤く腫れた瞼を、その熱を吸い取るように愛撫したい。 だが、彼の指は彼女の肌に触れる数センチ手前で、まるで目に見えない壁があるかのように止まった。
もし、眠りの中でこの感触が「あの男たち」の暴力を思い出させてしまったら。 そう思うと、彼は自分の手が酷く無骨で、恐ろしい破壊の道具のように感じられたのだ。
マーレは、宙に浮いたままの自分の手を、自嘲気味に眺める。 二年前、声を失ったときと同じ無力感が胸を刺す。守りたかった。けれども守られていたこの二年。
彼は結局、触れることを諦め、代わりに彼女の指先に自分の小指だけを、触れさせた。 それだけが、今の彼に許された、精一杯の「所有」だった。
夜が深まり、窓の外の月が西へ傾く。 マーレは一睡もせず、ただ彼女の呼吸の音を数えていた。 時折、ラクスがうなされるように眉を寄せると、柔らかな魔力を掌から微かに放ち、彼女の周囲の空気を鎮めた。
やがて、空の端が白み始め、夜の闇が深い群青へと溶け始める。 ラクスがゆっくりと瞼を持ち上げたのは、ちょうどその「明け方」のことだった。
「……マーレ、様」
「――」
マーレは、自分の小指をそっと離し、穏やかな微笑みで彼女を迎えた。 朝の光の中で見る彼女の瞳は、夜の絶望を乗り越えた、澄んだ色をしていた。
マーレは手帳を膝に置き、ペンを走らせた。
『君が何を恐れているのか、私には分からない。だが、ラクス。君が生きていてくれるだけで、私の世界には価値がある。』
マーレの瞳には、憐れみではなく、ただ純粋な、狂おしいほどの情愛だけが宿っている。
『君が私を拒むなら、私は君が許してくれるまで、何度でも手を伸ばそう。……二年前、君が私の声を代わりに背負ってくれたように。今度は私が、君の痛みを分かち合いたい。』
「マーレ、様……」
その掠れた声が、ラクスの唇から零れ落ちた。 二年前、ガリアス様がふせていたから知らずにいた失われた彼の声、 今、彼は「声」を持たないまま、誰よりも雄弁に彼女の魂を救おうとしている。
ラクスの瞳から、堪えていた涙が溢れ出した。 地位も、魔女としての矜持も、襲われた屈辱も。 目の前で不器用に、けれど真っ直ぐに自分を見つめるこの男の前では、すべてが意味をなさなくなっていく。
ラクスは震える手を伸ばし、今度は自分から、彼の服の袖を弱々しく掴んだ。 マーレは一瞬、驚いたように目を見開いたが、すぐに愛おしそうに目を細めると、彼女の手を壊れ物を扱うような優しさで、包み込むように握り返した。
(ああ……温かい)
夜の闇の中で、二人は失われた過去ではなく、今、この瞬間にある「互いの鼓動」だけを再確認していた。
「…失礼します!」
ファロスが険しい表情で入室し、魔導通信機の受信を告げた。
発信源は、国境の砦で戦後処理に当たっているカイル・フォン・ベルンハルト。通信機の鏡面に映し出されたカイルの顔は、勝利の余韻など微塵もなく、氷のように冷え切っていた。
「……マーレ、聞こえるか。ヨアヒムの身柄は確保した。だが、あいつの私物から『とんでもない代物』が出てきやがった」
カイルの声が、通信機のノイズに混じって低く響く。
彼は手元の書面をこちらに見せるように掲げた。それは、ベルンハルト領の印ではなく、ヴァルデム城の「財務官」の署名が入った秘密の裏帳簿だった。
「二年前のあの日、精霊を暴走させるための『増幅触媒』を買い付けた資金の出どころだ。……驚くなよ。それは帝国の過激派からではなく、お前の城の、それも内政予算の中から捻出されている」
マーレの金の瞳が鋭く細まる。
隣で聞いていたラクスの顔からも、血の気が引いていく。
「つまり、ヨアヒムは単なる『協力者』に過ぎない。主犯は最初からお前の足元にいたんだ。……そしてもう一つ。ヨアヒムが吐きやがった。二年前、ソルの『用事』を魔法協会へ誘導し、彼女が不在になるよう仕向けたのは、城内の執筆官――セバス・クロムウェルだ。」
カイルは忌々しそうに、画面の向こうで卓を叩いた。
セバスはただの文官ではなかった。彼はガリアス先代領主が、かつて戦場から拾い上げ、最も信頼を置いていた影の片腕だ。これは単なる権力争いじゃない。身内の、それも最も深い場所からの裏切りであることがマーレの心の刺さる。
マーレの喉の傷が、これまでにないほど激しく疼き、脈打った。
自分の声を奪い、ラクスを孤独に追いやり、ソルを人柱へと追いやった元凶が、長年自分に恭しく頭を下げていた老文官であったという事実。
「……旦那」
ファロスの声が、かつてないほど鋭利な殺気を帯びる。
「セバスの奴、さっきから姿が見えねぇんです。おそらく、ヨアヒムの捕縛を知って、『泉の門』へ向かった可能性があります」
マーレは立ち上がった。
もはや一刻の猶予もない。裏切り者は、最後に残された「泉の核」を破壊し、証拠もろともヴァルデムを精霊の怒りに沈めるつもりかもしれない。
マーレはラクスを振り返った。
その瞳は、彼女を置いていくことを拒んでいたが、ラクスは力強く首を振ると、彼の大きな手に自分の手を重ねた。
(私も行きます。……ソルの弟子として、そして、あなたの隣に立つ者として)
言葉はなくとも、二人の想いは完全に重なっていた。
カイルとの通信を切り、マーレは帯剣を鳴らして部屋を飛び出した。
ヴァルデムの獅子と、灰青の魔女。二人の本当の反撃が、今、月明かりの城内で始まった。




