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蹂躙と、氷の怒り

「……っ、やめ、て……!」


魔力を封じられ、ただの少女として組み伏せられたラクスの叫びは、冷たい石壁に虚しく吸い込まれていく。見張りの男が下卑た笑いと共にラクスにのしかかる。男の濁った脂の臭い。乱暴に肌を弄る無機質な手。 屈辱と恐怖で全身が震え、涙が頬を伝う。 師であるソルが守り抜いた誇りも、マーレへの秘めた想いも、すべてが泥に塗れていくような絶望に、ラクスは奥歯を噛み締めて目を閉じた。


その時だった。


――ズドォォォォォンッ!!


鉄の扉が、蝶番ごと引き千切られるような轟音と共に吹き飛んだ。


「!? なんだあッ!」 男が慌てて身を起し、背後の入り口を振り返る。 そこへ、大きな「塊」が投げ込まれた。


「ぎ、いっ……!?」


それは、さっきまで外で軽口を叩き合っていた相棒の姿だった。 だが、その顔面は原型を留めぬほどに陥没し、壁に激突して動かなくなった。人の拳が成せるわざとは到底思えない、暴力の結晶。


「なーにやってくれてんだ、この野郎……!」


砂塵の向こうから現れたのは、ファロスだった。 普段の軽薄な笑みは微塵もなく、その瞳は夜よりも深く、暗い「殺意」に染まっている。 彼が手にしていたのは、愛用の小刀ではなく、地下の入り口を守っていた傭兵から奪い取ったであろう、血塗れの鉄槌メイスだった。


「ひっ、お、前、いつの間に……!」


「俺の仲間が、上でお前らの雇い主を踊らせてる間に……俺は一番『汚いネズミ』を掃除しに来たんだよ、まぁいるいる。三文小説じゃねぇんだから。」


ファロスは一歩、また一歩と、男へ歩み寄る。 男が腰の剣を抜こうとした瞬間、ファロスの姿が掻き消えた。


「――その汚い手で、触れたんだな?」


男の視界が反転した。 ファロスの蹴りが男の鳩尾を貫き、壁際まで吹き飛ばす。 絶叫を上げる暇も与えず、ファロスは男の右腕を床に踏みつけると、容赦なく鉄槌を振り下ろした。


ボキリ、と嫌な音が独房に響き渡る。


「あがぁぁぁぁぁぁっ!!」


「騒ぐなよ。……マーレの旦那がここに来る前に、せめて原形くらいは留めておいてやる。……それが俺の、精一杯の慈悲だ。」


ファロスは男を冷たく見下ろすと、震える手で服を整えようとしているラクスに、自分の上着を投げかけた。 その視線は、彼女の傷ついた心に配慮し、決して直接肌を見ようとはしない。


「……遅くなって、すまない。魔女殿。でもって、旦那じゃなくて悪いな。」


ラクスの震えが止まらない。


「…あ・・」お礼を言いたいのに、先に出てきたのは安堵の涙だった。静かに涙を流しながら、ラクスは徐々に自分を取り戻して行った。






冷たい石造りの独房に、ようやくマーレが辿り着いたとき、そこにはファロスの上着を深く羽織り、壁にもたれて座り込むラクスの姿があった。


マーレは馬を飛ばし、血路を拓いてきたその足で、迷うことなく彼女を抱きしめようと腕を伸ばす。しかし、ラクスはその腕を、震える手で拒絶するように押し返した。


(……触れないで。今の私は、汚らわしい)


未遂であったとはいえ、男たちの卑劣な言葉と暴力的な感触が、彼女の肌に、そして魂にこびりついて離れない。 声の出ないマーレは、差し伸べた手を空中で止め、苦しげに喉を震わせる。その金の瞳には、彼女を救えた安堵よりも、彼女を拒絶させてしまった自分への、そして敵への、底知れぬ怒りと悲しみが溢れていた。


「旦那、事後処理はカイル様と俺でやります。……今は、彼女を。エティエンヌ様がお待ちです。」


ファロスの低い声に、マーレは断腸の思いで頷いた。彼は一言も発さず、けれどその背中で語るように、ラクスを城へと運ぶ馬車の警護を厳重に命じ、自身は戦後処理という「領主の義務」を果たすべく、カイルの待つ陣営へと戻って行った。






深夜、ヴァルデム城に戻ったラクスに与えられた客室を訪れたのは、冷徹な軍師の顔を解いたエティエンヌだった。 深夜の静寂に包まれた客室。 湯浴みを終えたラクスの髪からは、エティエンヌが用意させた心身を鎮める薬草の香りが微かに漂っていた。信頼の置ける年嵩の侍女による、母親のような温かな手つきでの清めは、ラクスの強張った心を物理的に解きほぐしていた。


エティエンヌは、ベッドの脇の小卓サイドテーブルに置かれた、手付かずの小さな銀の器に目をやった。中には、万が一のために用意させた、苦みの強い避妊の煎じ薬が入っている。


「……それを飲まずに済んだことが、せめてもの救いね」


エティエンヌの静かな声に、ラクスはビクリと肩を揺らし、深く俯いた。


「侍女からは報告を受けました。……身体は、汚されてはいないと。ですが、ラクス。あなたの心に刻まれた泥は、お湯で流せるほど簡単なものではないでしょう?」


エティエンヌは、ラクスの細い手首に残る無惨なあざを、自身の白い指先でそっとなぞった。


「マーレは、カイル様との事後処理を終えれば、すぐにでもここへ飛んでくるでしょう。……あの子の性格なら、あなたの受けた傷を自分の無力のせいだと責め、地を這うような顔で許しを乞うはずだわ。」その言葉にラクスははっとなり、顔を上げる。


「……マーレ様は、悪くありません。」


「ええ、あの子は悪くない。……そして、あなたも悪くないわ。けれど、ラクス。一つだけ聞きなさい。あなたは、その傷を理由に、マーレの隣に立つことを諦めるつもり?」


エティエンヌの言葉は、氷の刃のように核心を突いた。


「今のままでは、あなたは一生、彼に触れられるたびにあの夜の男の手触りを思い出し、彼を拒み続けるでしょう。それはマーレにとって、喉を焼かれる以上の残酷な仕打ちよ。……マーレの隣に立つということは、彼の愛も、彼の苦しみも、そしてあなた自身の過去も、すべてを引き受けて共に歩むということ。今のあなたに、その覚悟がある?」


「………」ラクスには答えられなかった。喉の呪いを負わせてしまった負い目をずっと引きずってきた。隣に立つことを願わなかったと言ったら嘘になる。けれど、自らが魔女である矜持も捨てられずにいる。


「……ラクス、あなたは、あのソルが認めた唯一の弟子よ。そして、我が息子が声を捨ててまで守ろうとした女だわ。自分を貶めることは、あなたを愛する者たちへの裏切りだと知りなさい。」


エティエンヌは立ち上がり、扉の方へと歩みを進めた。


「一晩、考えなさい。夜は長くて、残酷だけれど……答えを見つけるには十分な時間よ。……明日の朝、あなたが彼を『領主』としてではなく、ただの『一人の男』として抱きしめられるようになっていることを、私は願っています」


エティエンヌが去った後の部屋に、冷たい月光が差し込む。 ラクスは、飲まずに済んだ銀の器を見つめ、初めて声を上げて泣いた。 それは悲しみの涙ではなく、自分の中に巣食う恐怖と、エティエンヌによって突きつけられた「覚悟」への葛藤だった。

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