獅子の盾、鷲の爪
砦の正面、荒野の先に広がる地平線。そこから、ヴァルデム領主の軍旗が風にたなびきながら姿を現した。
ヨアヒムは砦の銃眼からその光景を眺め、口角を歪めた。 「……やはり来たか。愚かな。恋に狂った若造が、領地の未来を切り売りしてまで女を追うとは。」
だが、ヨアヒムの予想に反し、マーレが率いる軍勢はその場でぴたりと動きを止めた。 突撃の号令も、怒号もない。ただ整然と、国境線ギリギリの地点に強固な陣を敷いたのである。
マーレは馬上で、金の瞳を冷徹に砦へと向けていた。 その隣には、本来ヴァルデムにはいないはずの男――ベルンハルト領の伝令官が並び、高らかに声を上げた。
「――通告する! 我らベルンハルト正規軍は、国境付近にて暗躍する賊軍、および帝国の反逆者ヨアヒム・フォン・ベルンハルトの掃討を開始する! ヴァルデム軍はこれに協力し、退路を完全に遮断せよ!」拡声器魔道具を使っての宣言、同時にヨアヒムに向け通信を行う。
ヨアヒムの顔から余裕が消え、葉巻が床に落ちた。
「……何だと? カイル……あの小僧、いつの間に……!」
マーレは一言も発さなかった。 だが、その沈黙はかつての「無力な若造」のものではない。 ヨアヒムが期待した「暴走する男」の姿を演出しつつ、実際には母エティエンヌがカイルと結んだ密約に基づき、ヨアヒムを「国際的な犯罪者」として袋のネズミに追い込むための、冷酷な盤上の駒としての沈黙だった。
マーレは喉の傷をそっと押さえる。 熱い。喉が、焼けつくように熱い。 今すぐ馬を飛ばし、石壁を砕いて、彼女を抱きしめたいという衝動。それが全身の筋肉を震わせている。 だが、母の言葉が、そしてラクスが守り抜いてきた「領地」の重みが、彼の手綱を引き留めていた。
(……君を救う。けれど、君が守りたかった私自身を、私は汚さない)
マーレは右手を高く掲げた。 それが、潜伏していたファロスたちへの「潜入開始」の合図だった。 同時に、砦の背後――ベルンハルト領側から、カイルが率いる「若獅子」の本体が、ヨアヒムの私兵を蹴散らしながら雷鳴のような咆哮を上げて突撃を開始した。
「全軍、前へ!!」
マーレは声にならない号令を、魂で叫んだ。 ヴァルデムの騎士たちが一斉に動き出す。 それは救出劇ではない。ヨアヒムという「毒」を、二つの領地の力で完全に排除するための、共同処刑の始まりだった。
砦の門が内側から爆破され、鉄錆と石塵が舞い上がる。
「おのれ、小癪な真似を……! 防げ! ヴァルデムの軍勢を一人たりとも中へ入れるな!」 ヨアヒムが狂ったように叫ぶが、彼の私兵たちは混乱の極みにあった。正面には不動のヴァルデム軍、そして背後からは、逃げ場を断つベルンハルトの正規軍が肉薄している。
「――遅いよ、叔父上。盤面は既に詰んでいる。」
背後から響いたのは、凛烈なカイルの声だった。 カイルは愛馬を駆り、風を切って戦場を横切る。その手には、ベルンハルト家に代々伝わる細身の長剣。 彼は「蒼鷲」の如き鋭い眼光で敵の急所を見抜き、無駄のない動きで私兵たちの指揮官を次々に無力化していく。
「マーレ! 雑魚は私が引き受けよう。君は、その『咆哮』を奴に叩きつけてやれ!」
カイルの援護を受け、マーレが愛馬と共に砦の広場へと躍り出た。 ヨアヒムが隠し持っていた魔導銃をマーレに向けて放つ。だが、マーレは避けない。 彼は盾を掲げ、直撃を真っ向から受け止めた。衝撃で腕の筋肉が悲鳴を上げるが、その足取りは一歩も引かない。
(……退かない。私は、ヴァルデムの盾だ)
マーレの金の瞳が、絶望に顔を歪ませるヨアヒムを射抜いた。 声は出ずとも、彼が剣を振り上げるその動作ひとつひとつに、奪われた歳月と、ラクスを傷つけられた激昂が宿っている。
ヨアヒムは恐怖に震え、剣を抜こうとした。だが、その腕は既にカイルが放った投げナイフによって正確に封じられている。
「……あ、が……っ!」
逃げ場を失い、石壁に追い詰められたヨアヒムの眼前に、獅子の如き重圧を纏ったマーレが立ち塞がる。 マーレは剣を振るう直前、あえて剣先を下げ、左手で自らの喉を強く押さえた。 呪いの傷が真っ赤に光り、皮膚を焼く。 彼は声にならない絶叫を、全身の覇気オーラに変えて放った。
――ゴォッ!!
物理的な衝撃波が空気を震わせ、ヨアヒムを吹き飛ばす。 それは、言葉を奪われた男が放つ、怒りと拒絶の「音」だった。
「見事だ、マーレ」 カイルが馬を並べ、冷ややかに横たわるヨアヒムを見下ろした。
「叔父上、貴方の負けだ。……さあ、地獄への手続きを始めようか」
マーレはカイルに短く頷くと、すぐさま地下へと続く階段へ視線を向けた。 戦いは終わった。だが、彼にとっての本当の目的――ラクスの元へ、彼は今、地響きを立てて駆け出した。




