獅子の揺籃、青き牝鹿の夢
石造りの回廊から現れたのは、現領主夫人、エティエンヌ・フォン・ヴァルデム。 銀髪を隙なく結い上げ、寒空の下でも微塵も揺るがぬ背筋。彼女は、今にも暴発しそうな息子を一瞥し、扇子をぴしゃりと閉じた。
「奥方様……! 」 ファロスが目をみはる。彼女が出てくるということで、マーレに続いて高揚しがちだった気持ちが、ひやりとした心持になる。それを一瞥しただけでエティエンヌは眉ひとつ動かさない。
「落ち着きなさい、マーレ。見苦しいわよ。……たかだか森の魔女一人が攫われた程度で、軍を動かして国境を侵すつもり? ベルンハルトとの間に、新たな火種を撒くのがあなたの『領主』としての初仕事かしら?」
マーレは馬を降り、手帳を叩きつけるように広げた。
『見捨てろと?』
「見捨てろとは言っていません。……ですが、あなたには数万の領民の命がかかっています。ただ一人の女を想う『男』として行動することは、このヴァルデムでは許されません。愛に溺れて国を危うくするなら、その座を今すぐ降りなさい。」
エティエンヌの言葉は、氷の刃のようにマーレの熱狂を削ぎ落とした。
そして、彼女は優雅な仕草で側近に指示を飛ばす。それは、彼女自身の派閥――領内の有力貴族や情報網を動かし、ラクスの「受け入れ先」と「奪還後の政治的根回し」を瞬時に構築する手際だった。
「準備は私たちが整えます。あなたは、領主として『正義』の旗を掲げなさい。……そして、マーレ。」
エティエンヌは一歩、息子に歩み寄り、その声を潜めた。
「上手くやりなさい。……そうすれば、あなたにはもう一人、大切な命を救えるチャンスが巡ってくるかもしれませんわ。」
『……もう一人?』
マーレの問いに、母は答えなかった。ただ、その瞳の奥には、領主夫人としての冷徹な仮面の下に、一人の友を想う悲痛な祈りが隠されていた。
二年前、泉の核――精霊世界への門が暴走したあの日。 先代魔女ソルが、自らを人柱としてその門を内側から閉ざしたことを、マーレは知らない。彼女が今も精霊の狭間で、終わることのない昏睡の中に囚われていることも。
ガリアスとエティエンヌにとって、ソルはかけがえのない親友であり、共犯者だった。 息子を救うために友を犠牲にしたという、親としての、そして統治者としての消えない罪悪感。
「……無策な暴走ではなく、ヴァルデムの主としての『征伐』を。」
エティエンヌに背を押され、マーレに冷静さが戻ってきた。怒りは消えていない。だが、その瞳には「守るべきもの」の重さが、確かな重圧となって宿っていた。
「出立する前に話があります。ファロス、あなたもよ。」そう言って彼女は踵を返す。睨まれたファロスの顔色は固い。マーレは初めて見るファロスの顔に訝しんだ。
「旦那、行きましょう。」ファロスが言う。静かだが否やを唱えさせない口調に、部下たちを待機させ、事情を聞くことにした。
エティエンヌが広場で息子を叱咤している頃、ガリアスは独り、城の喧騒を離れてヘルバの森の深部へと向かっていた。 彼が定期的にここを訪れるのは、領主としての巡回ではない。ただ一人の男として、愛する友の息吹を確かめるためだ。
凍てつく空気の中、立ち入りを禁じた「泉」の畔。ガリアスは無言で膝をつき、水面に指を浸した。
(……ソル、聞こえるか)
波紋が広がり、水底から淡い光がせり上がってくる。精霊たちが彼の指先に群がり、その微かな振動が、門の向こう側で眠り続けるソルの「鼓動」を伝えてくる。 二年前、暴走する門を鎮めるために人柱となった彼女。その犠牲の上に、今のヴァルデムの平穏はある。
「待っていてくれ、ソル。必ず……お前をその狭間から引きずり出してやる。ラクスも、マーレも、これ以上は失わせん。」
老獅子の瞳には、後悔を焼き尽くすほどの冷徹な決意が宿っていた。
一方、冷たい馬車に揺られ、魔力封じの腕輪に意識を削られているラクスの脳裏には、走馬灯のように過去が溢れていた。
夢の中の彼女は、まだ「魔女」という重責を知らない少女だった。 銀髪の美しい師匠、ソル。実の母よりも厳しく、けれど誰よりも温かかった彼女の弟子になれたことは、ラクスの唯一の誇りだった。
(……どうして、私を選んだの?)
鏡に映る自分の灰青色の髪は、重苦しくて嫌いだった。ソルのような銀髪に憧れ、背中を追いかけた日々。 そんな日常に、嵐のように踏み込んできたのが、あの生意気な領主の息子だった。
『お前、口がきけないのか』
初対面の無礼な物言いに腹が立ち、反射的に魔力で吹き飛ばした。けれど、その後に見せた彼の情けない顔を見て、ラクスは気づいてしまったのだ。 彼は、ただの「弱い子供」なのだと。自分の方がずっと強く、彼には守りが必要なのだと。
それからの彼は、呆れるほど頻繁に森へやってきた。 エティエンヌ様に激怒されただの、乳母のマリーを泣かせただの……。寄宿学校へ旅立つ日、何かを言いたげに立ち尽くしていた彼の背中を、ラクスは「世話の焼ける弟」を見送るような気持ちで眺めていた。
(隣の領のボンボンと仲良くなった?……ふうん、いいんじゃない。繋がりは大事よ)そんな適当な返事を手紙に書いて送っていた日々。魔女としての修行に明け暮れ、自分の領域を広げていたあの頃。 再会した彼は、ラクスの記憶を鮮やかに裏切った。
「誰……?」
思わず溢れた言葉。自分を超えた背丈、広くなった肩幅、そして、低く響くようになった声。 かつての悪ガキの面影は消え、そこには一人の「男」が立っていた。 必要最低限しか喋らない彼の沈黙が、いつしか心地よいリズムとなってラクスの生活に溶け込んでいく。
(……ああ。私は、この人を愛してしまったのだわ)
自覚した瞬間に引いた、境界線。 領主と魔女。交わればどちらかが壊れる、絶対の均衡。言葉遣いを変え、態度を変えた。 彼は不愉快そうに眉を寄せていたけれど、その沈黙の裏で、彼もまた同じ絶望を理解していたはずだ。
けれど、あの日。二年前の就任式。 ソルは「魔法協会に用がある」と言って、少し遅れて来るはずだった。 それは、マーレとラクスの立場を法的に守り、魔女が領主の傍らに立つための道筋を整えるための、下準備だったというのに。
(ソル様……。私、あの日からずっと……)
ガタりと馬車が大きく揺れ、ラクスの意識が現実へと引き戻される。 右腕の腕輪が、容赦なく彼女の精神を侵食していた。 夢の中の幸福な時間は終わり、残されたのは、かつて愛した人の声を奪い、師を失わせた、残酷な現実だけだった。




