迷い児と、罠
「……おねえちゃん、たすけて。おともだちが、あっちでうごけなくなっちゃったの。」
夕闇が立ち込め始めたヘルバの森。結界の境界線で立ち尽くしていたのは、村で見かける顔ではないが、まだ十歳にも満たないであろう幼い少年だった。 泥にまみれた頬と、不安げに揺れる瞳。そこには一片の「毒」も、魔女の家を害そうとする「悪意」も感じられない。
だからこそ、ラクスは疑わなかった。
「大丈夫よ。案内してくれる?……怖くないわ、すぐに見つけてあげましょう。」
ラクスは少年に手を引かれ、森の端へと歩みを進めた。 本来、魔女は森の深部から出ることは稀だ。城へは転移ができるし(もちろん許可はいるが)職場が森と言っても過言ではない。だから魔女たちはほとんど森を出ない。たまに町の魔道具協会へ行き協力をしたり、薬剤協会に顔を出したり、たまに狩猟で来た迷い人を安全な場所まで送り届けるのも、古くから伝わる彼女たちの役目だった。
そういえば、いつも森の家に来るのはマーレの方で、ラクスは城へ行くことは無かった。
(会いに行く理由なんて、仕事以外に無いものね。)自嘲ぎみにふっと笑うと、視界の異変に気付く。
(……おかしいわ。こんなところに、子供だけで来るはずがない)いくら何でも遠すぎる。登山口はベルンハルト領からもあるが、それにしても子供だけで登れる道ではないはずだ。
国境付近、ベルンハルト領との境界が重なる岩場に差し掛かったとき、ラクスの背筋に冷たい予感が走った。
「坊や、お友達はどこに――」
「あいたっ!」
問いかけようとした瞬間、少年がわざとらしく足をもつれさせ、岩場に倒れ込んだ。
「……痛い、おねえちゃん、足が……!」 剥けた膝から血が滲んでいる。ラクスは反射的に膝をつき、彼の傷口に手をかざした。
「今、治すから、動かないで。」
慈愛に満ちた掌から、淡い光が溢れる。 その瞬間。 泣きじゃくっていたはずの少年の手が、ラクスの右手首を、蛇のような速さで掴んだ。
「――ごめんね、おねえちゃん。これ、おじさんに『つけたらお菓子をあげる』って言われたんだ」
カチリ、と冷酷な金属音が響く。 少年の小さな掌の中に隠されていたのは、古びた、けれど禍々しい彫金が施された銀の腕輪だった。 それがラクスの肌に触れた刹那、腕輪は生き物のように収縮し、彼女の手首に食い込んだ。
「ッ……!?」
叫ぼうとしたラクスの喉から、声が出ない。 腕輪に刻まれた紋章が赤黒く発光し、彼女の体内を巡る魔力の回路を、氷の杭を打ち込むように凍りつかせていく。
「……さすがは帝国の特注品だ。一瞬で『魔力』を封じ込めるとはな」
岩陰から現れたのは、ヴァルデムの騎士服ではない、薄汚れた灰色のマントを羽織った男たち。ヴォルフが残した、行き場のない残党たちだった。
ラクスは右腕を押さえ、荒い息をつきながら後退りする。 腕輪の呪縛により、精霊を呼ぶことも、護符を起動させることもできない。彼女の誇りであった青い魔力は、冷たい銀の輪の中に閉じ込められていた。
「この女を連れて行け。……ヴァルデムの領主が『声』と引き換えに守った宝だ。これさえあれば、あいつを跪かせるのは容易い」ラクスは布で猿轡をされ、麻布をかぶせられた。
「……う、うう……っ」
(だめだ、魔力が急激に失われたから…)体の防衛反応が貧血症状のように意識を奪っていく。
ラクスは逃げようとしたが、足元から力が抜け、その場に崩れ落ちた。
(マーレ様……。来ないで……。あなたは、来ちゃいけない……!)
薄れゆく意識の中、祈りも言葉も闇に溶けていく。 「悪意なき子供」に導かれた先で、魔女は静かにその光を奪われた。
ヴァルデム城の最上階。 かつての領主であり、誰よりも森と精霊の理を理解する男、ガリアス・フォン・ヴァルデムは、窓辺でふと足を止めた。
不自然な風が吹き抜け、城全体を震わせる。 それは耳で聞く音ではなく、魂の奥底を掻きむしるような、森の断末魔だった。
「……精霊が、泣いているだと?」
ガリアスの金の瞳が、鋭く輝く。 かつて息子を守るために精霊と契約を交わした彼には分かっていた。この「緊急信号」が意味するのは、たった一つ。 ヘルバの魔女、ラクスに「死」と同等の危機が迫っているということだ。
「ファロス! マーレを呼べ! ……森が、攫われたぞ!」
城門の広場には、ファロスが緊急招集した精鋭たちが殺気立って並んでいた。 マーレは馬に跨り、声の出ぬ喉を震わせるような激しい呼吸で、今にも森へ駆け出そうとしていた。その金の瞳は、怒りと焦燥で獣のように濁っている。そこへーーー
「――相変わらず、血の気の多いこと。ヴァルデムの男たちは、考えるより先に筋肉が動く病にでもかかっているのかしら?」
冷ややかな、けれど鈴の音のように透き通った声が広場に響いた。




