神成村の内定通知
閉鎖的な村で行われる、異常な「面接」。
逃げ出した先に待っていたのは——
※後味の悪い話が苦手な方はご注意ください。
◇◇◇ 都内カフェテリア
カフェのテーブル越しに、女は微笑んでいた。
同い年くらいだろうか。艶やかな黒髪に、穏やかな目元。白いブラウスが、清楚な印象を際立たせている。
浩介のバイト先の人だと名乗った。
「瑞希さん、お待たせしてしまってごめんなさい」
運ばれてきた紅茶に、女は角砂糖をひとつ落とした。
その仕草を見ながら、私は警戒心を緩めなかった。
呼び出されたのは昨夜のことだった。
知らない番号からのメッセージ。『お話があります。明日の午後、お時間いただけますか? 浩介君のバイト先の美鈴と申します』
浩介の、バイト先の人。
その一文がなければ、無視していただろう。
「単刀直入に言うわね」
女はカップを置いた。
「瑞希さん、お仕事を探しているでしょう?」
心臓が跳ねた。
なぜ、それを。
「就活、うまくいっていないって、浩介君から聞いたの」
浩介が、私の話を?
胸の奥で、何かが弾けるように温かくなる。
見ていてくれている。
気にかけてくれている。
それだけで、この三ヶ月の孤独が報われる気がした。
「私の知り合いの地元にね、求人があるの」
女は鞄から一枚の紙を取り出した。
『神成村地域おこし協力隊 募集要項』
「神成……村?」
「ええ。小さな村だけど、とても良いところよ」
私は紙面を見つめた。勤務地は県境の山間部。片道五時間。
正直、興味はなかった。
けれど——
「浩介君はね」
女は、まるで秘密を打ち明けるように声を潜めた。
「自立した女性が好きなの」
私の指が、紙を握りしめた。
「彼、言っていたわ。『瑞希は依存的すぎる』って。でもね、もし瑞希さんがこの試験に受かって、自分の力で仕事を見つけられたら——きっと、彼も見直すと思うの」
依存的。
その言葉が、錐のように胸に刺さった。
浩介は、私をそう見ていたのか。
同じ講義を取り、同じ時間に図書館へ通い、同じ電車で帰る——それは愛情であって、依存なんかじゃない。
彼を想うからこそ、近くにいたかっただけ。
でも。
彼がそう思うなら。
変わらなければ。
変わって、彼に認められなければ。
「面接は来週の木曜日。日帰りは難しいから、村の交流センターに一泊する手配もしてあるわ」
平日か。講義を休むことになる。
でも、浩介のためなら。
女は優しく笑った。
「これは愛の試練よ、瑞希さん」
試練。
そうだ、これは浩介からの試練なんだ。
彼が私に課した、愛を証明するための最後のテスト。
だったら、受けて立つ。
必ず合格して、彼の元へ帰る。
「……行きます」
私は顔を上げた。
女は満足そうに頷いた。
その瞳の奥に、一瞬、何か別の色が過ったような気がした。
けれど私は、見なかったことにした。
◇◇◇ 神成村
神成村への道のりは、果てしなく長かった。
まず新幹線で二時間。
窓の外を流れる景色は、見慣れた都市部から次第に緑が増えていく。
終点の駅で降り、在来線に乗り換えた。
単線のローカル線は、一時間に一本しかない。
古びた車両に揺られながら、また一時間半。
乗客は途中で次々と降りていき、終点に着く頃には、私一人になっていた。
そこからさらに、ローカルバスに乗り継ぐ。
バス停には時刻表が貼られていたが、一日に三本しか便がない。
運転手は無愛想な老人で、私が乗り込んでも何も言わなかった。
バスの窓から、景色が変わっていく。
田畑が山林になり、やがて深い杉林に飲み込まれていった。
トンネルを抜けるたびに、携帯の電波が途切れる。
一時間を過ぎた頃には、圏外の表示が当たり前になっていた。
不安はあった。
けれど、浩介の顔を思い浮かべると、それも消えた。
帰ったら、何を話そう。
面接でこんなことを聞かれた、村はこんな場所だった、私頑張ったよ——そう報告したら、彼はどんな顔をするだろう。
笑ってくれるだろうか。
少しは、認めてくれるだろうか。
バスが終点に着いたのは、十四時を回った頃だった。
降りたのは私だけ。
運転手は無言でドアを閉め、バスは来た道を戻っていった。
停留所には古びたベンチがひとつ。
その隣に、手書きの時刻表が貼られていた。
——最終便、十五時三十分。
一時間半しかない。
面接は十五時から約一時間と聞いている。
つまり、終わる頃には——
「お待ちしておりました」
背後から声がした。
振り返ると、紺色の作業着を着た中年の男性が立っていた。
穏やかな笑顔。
けれど、その目が笑っていない。
「役場の者です。面接会場までご案内しますね」
男性の後について歩いた。
舗装はされているが、ひび割れとでこぼこだらけの道。
両側を杉林に挟まれた細い道。
時折、木立の向こうから視線を感じる。
振り返っても、誰もいない。
十分ほど歩いただろうか。
役場は、村の中心部にある古い木造の建物だった。
案内された部屋には、長机がひとつ。
その向こうに、三人の面接官が座っていた。
中央の女性が、にこやかに口を開いた。
「ようこそ、神成村へ」
面接は、最初は普通だった。
「志望動機を聞かせていただけますか」
「はい。私は地方創生に関心があり、大学では地域経済について学んでいます。過疎化が進む地域で、自分の力を試してみたいと思いました」
嘘だった。
本当の理由は、浩介に認められたいから。ただそれだけ。
「これまでに何か、地域活動の経験はありますか?」
「大学のボランティアサークルで、月に一度、近隣の高齢者施設を訪問していました。お話し相手をしたり、簡単なレクリエーションを企画したり」
これも、半分は嘘だった。三回参加して、辞めた。浩介が参加していないと分かったから。
「将来的には、どのような仕事に就きたいですか?」
「誰かの役に立てる仕事がしたいです。特に、人と人をつなぐような……」
私の言葉を、面接官たちは熱心にメモしていた。
けれど、三十分を過ぎた頃から、空気が変わった。
「では、具体的な条件についてご説明しますね」
中央の女性が、一枚の紙を差し出した。
そこには、こう書かれていた。
『採用条件:即時の移住、村内男性との婚姻、三年以内の出産、全財産の寄託』
私は目を疑った。
「……これは、どういう意味ですか」
「そのままの意味よ」
女性は微笑んだ。
「あなたには、この村の一員になっていただくの」
「お断りします」
即答した。
こんなものは求人じゃない。
人身売買だ。
「帰らせてください」
立ち上がろうとした。
けれど、両隣の面接官が静かに立ち塞がった。
「まぁまぁまぁ、そう急がないで」
中央の女性は、少しも慌てた様子を見せなかった。
「皆さん、最初はそうおっしゃるのよ。でもね、一晩考えると、気持ちが変わるものなの」
皆さん。
その言葉が引っかかった。
「今まで何人もの方が、あなたと同じ反応をされたわ」
女性は指を組み、懐かしむような顔をした。
「でもね、結局はみんな、ここで幸せになっているの。だから心配しないで」
何人も。
この村は、これを何度も繰り返している。
慣れているのだ。
私の抵抗など、想定内なのだ。
「今日は遅いから、ゆっくり考えて。明日の朝、また話しましょう」
時計を見た。
十六時十五分。
最終バスは、もうない。
「村を散歩でもしてらっしゃい。きっと、この村のことを好きになるわ」
女性は、満面の笑みで言った。
◇◇◇ 神成村
外に出ると、冬の夕暮れが村を覆い始めていた。
逃げなければ。
けれど、どこへ?
最寄りの駅まで、歩けば四時間以上。山道を、夜に、一人で。
それは現実的ではなかった。
とにかく、朝まで持ちこたえる。
始発のバスに乗って、この村を出る。
それだけを考えよう。
交流センターに向かう途中、畑仕事をしていた老婆と目が合った。
老婆は作業の手を止め、じっとこちらを見つめていた。
「——あの子、今日来たばかりなのに」
その呟きが、風に乗って聞こえた。
「——もう馴染んだみたいね」
馴染んだ?
馴染んでなどいない。
今すぐ逃げ出したいのに。
振り返ると、老婆は何事もなかったように鍬を振り下ろしていた。
交流センターは、役場から徒歩五分ほどの場所にあった。
古い民家を改装したような建物。
玄関を開けると、管理人らしき老人が出迎えた。
「お部屋はこちらです」
通された部屋は、八畳ほどの和室だった。
障子窓の向こうに、暮れなずむ山並みが見える。
布団は既に敷かれていた。
「夕食は十八時にお持ちします。何かあれば、呼んでくださいね」
老人は静かに去っていった。
鍵を確認した。
内側から閉められる。
少しだけ、安心した。
——それは、間違いだった。
夜が更けていく。
夕食は手をつけられなかった。
味噌汁の具が何か分からなくて、怖くなったのだ。
二十時。
廊下を歩く足音が聞こえた。
すぐ近くで止まり、また遠ざかる。
二十一時。
障子の隙間から、視線を感じた。
振り返ると、誰もいない。
けれど、外の気配が消えない。
二十二時。
窓の外で、ひそひそと囁き声がした。
「——今夜は静かにね」
「——明日になれば分かるから」
私は布団に潜り込んだ。
目を閉じても、眠れない。
絶え間なく続く足音。
時折聞こえる、低い笑い声。
障子に映る、人影。
——浩介。
助けて。
助けに来て。
お願い、迎えに来て——
そう心の中で叫び続けた。
けれど、夜は明けなかった。
永遠に続くかと思われた闘いの果てに、ようやく東の空が白み始めた時、私は決心した。
今すぐ逃げる。
始発のバスまで、あともう少し。
準備を急いで、走れば間に合う。
荷物をまとめ、音を立てないように玄関へ向かった。
鍵を開ける。
外は霧に包まれていた。
白い息を吐きながら、バス停への道を急いだ。
足音が聞こえた。
振り返ると、三台の自転車が霧の中から現れた。
乗っているのは、中学生くらいの子供たち。
三人とも、笑顔だった。
「おはようございます」
「どこへ行くんですか」
「一緒に行きましょうか」
私は走った。
全速力で。
息が切れ、足がもつれ、それでも走り続けた。
背後から、自転車のチェーンの音がずっとついてくる。
脇道に逸れても、いつの間にか追いついてくる。
笑い声が聞こえる。
楽しそうな、無邪気な、子供の笑い声。
バス停が見えた。
始発のバスが、ちょうど到着するところだった。
「待ってください!」
叫びながら走り込み、ステップに飛び乗った。
扉が閉まる。
振り返った。
三人の中学生が、バスの横に並んでいた。
満面の笑顔で、ちぎれんばかりに手を振っている。
「またね」
「また会おうね」
「待ってるからね」
その声が、ガラス越しに聞こえた。
『また会える』。
その確信に満ちた笑顔が、呪いのように網膜に焼きついた。
バスが走り出しても、私は震えが止まらなかった。
◇◇◇ 都内
東京に戻っても、視線は消えなかった。
最初は気のせいだと思った。
あの村での恐怖が、神経を過敏にさせているのだと。
けれど、違った。
大学の講義中、窓の外に人影が見えた。
作業着を着た中年の男が、こちらを見上げていた。
目が合った瞬間、男は穏やかに微笑んだ。
——あの村の、役場の人間だ。
翌日、最寄り駅の改札を出ると、ベンチに老婆が座っていた。
畑仕事をしていた、あの老婆。
私を見つけると、にっこりと笑い、小さく手を振った。
その翌日も、その次の日も。
コンビニで買い物をしていると、棚卸しをしている店員の後ろから、知らない顔が覗いている。
アパートの向かいに、見慣れない車が停まっている。
図書館で本を探していると、棚の向こうから視線を感じる。
振り返ると、いつも同じ——満面の笑み。
誰も何も言わない。
ただ、見ている。
私がどこにいても、何をしていても。
静かに、穏やかに、見ている。
『待ってるからね』
あの中学生たちの声が、耳の奥で響いていた。
——そんな日々が、一週間ほど続いた頃だった。
アパートの郵便受けに、小さな封筒が入っていた。
開けると、私が今一番欲しい『もの』が入っていた。
なんというタイミングだろう。
これは運命だ。
神様が、私に浩介の元へ行けと言っている。
あの村の恐怖を、彼に伝えなければ。
彼の腕の中で、震えながら泣きたい。
守ってほしい。
もう二度と、あんな怖い思いはしたくない。
私は、浩介の元へ向かった。
◇◇◇ 浩介のマンション
浩介のマンション。
私鉄沿線の、静かな住宅街にある。
エントランスの前で、深呼吸をした。
彼が引っ越してから、一度も来たことがない——というのは嘘だ。
何度も来た。
彼が出かけるのを見送り、彼が帰ってくるのを見届け。
でも今日は違う。
今日は、中に入る。
封筒から取り出したものを、ポケットの中で握りしめた。
銀色の、冷たい金属。
——鍵。
二週間前、浩介がカフェで席を外した隙に撮影した写真—彼の鍵束に刻印されていたシリアルナンバー。それを元にネットで注文した、純正の合鍵。
鍵を挿し込む。
回る。
扉が開いた。
一人暮らしにしては広い1LDK。
きれいに片付いている。
——でも、気になるものがあった。
棚の上に飾られた写真立て。
美鈴と浩介が、並んで微笑んでいる。
なぜ、あの女がここに。
胸の奥で、黒い炎が燃え上がった。
私は写真立てを手に取り、キッチンへ向かった。
生ゴミ用の袋を開け、その中に押し込んだ。
ぐちゃぐちゃの野菜くずと、魚の骨の間に。
これでいい。
私がいるべき場所に、あの女がいる必要はない。
冷蔵庫を開けた。
じゃがいも、にんじん、玉ねぎ、牛肉——材料は揃っている。
カレーがいいかな? 肉じゃがを作ろう。
浩介の好きな、甘めの味付けで。
料理をしながら、幸せな気持ちになった。
これが本来の私の姿だ。
彼の帰りを待ち、温かい食事を用意する。
そんな日常を、ずっと夢見ていた。
肉じゃがが完成した頃、玄関のドアが開く音がした。
——帰ってきた。
「おかえりなさい」
エプロン姿で出迎えた。
浩介が、玄関で固まっていた。
表情が、凍りついている。
「……なんで、お前が」
「待ってたの。ずっと」
私は微笑んだ。
「村から帰ってきたの。怖かったよ、すごく怖かった。だから——」
「どうやって入った」
浩介の声は低く、震えていた。
「合鍵。作ったの」
私はポケットから鍵を取り出して見せた。
「二週間前、あなたがカフェでトイレに立った時に、鍵のシリアルナンバーを撮らせてもらったの。純正キーって、番号さえ分かればネットで注文できるのよ」
浩介の顔から、血の気が引いていくのが分かった。
「二週間前……? カフェ……」
「ねえ、肉じゃが作ったの。一緒に食べよう?」
「ふざけるな!」
浩介は一歩後退った。
「お前とは、同じ講義を取ってただけだ。話したことなんて、ほとんどない」
「嘘。だって私たち、毎日一緒に帰ってたじゃない」
「一緒に? お前が勝手についてきてただけだろ。俺がどれだけ怖かったか分かるか? 電車を降りても、家の近くまでずっと後ろにいて——」
「愛してるから、近くにいたかっただけよ」
「愛してない! お前のことなんか、何とも思ってない!」
その言葉が、鋭利な刃物のように胸を抉った。
嘘だ。
嘘に決まっている。
だって、あの村のことを——
「美鈴さんに紹介されたあの村、怖かった」
私は彼に縋りついた。
「助けて、浩介。あの人たち、おかしいの。私を逃がしてくれなくて——」
「……知ってる」
浩介が、私の腕を振り払った。
「俺が頼んだんだから……」
時間が、止まった。
「バイト先の美鈴さんに相談したんだよ。お前を俺の目の届かない場所に連れて行ってくれって。そしたら美鈴さんの知り合いの村の採用の話しを教えてくれたんだ」
美鈴さん。
あの女。
あの、カフェで微笑んでいた——
「お前がどれだけ気持ち悪いか、分かってないだろ」
浩介の目は、冷たかった。
「同じ講義を取られて、図書館でずっと見られて、毎日後をつけられて。俺がどれだけ怖かったか。引っ越しても、すぐに住所を突き止めて。二週間前にカフェで会った時も、偶然じゃなかっただろ。後をつけてきたんだろ」
「違う……私は、あなたを愛して……」
「それはストーキングって言うんだよ」
ストーカー。
その言葉が、頭の中で弾けた。
違う。
私は、ただ——
「今すぐ出て行け。警察呼ばれたくなければ」
その時、インターホンが鳴った。
静寂——
浩介がモニターを確認し、苦笑した。
「——迎えが来たみたいだぞ」
扉が開いた。
そこに立っていたのは、村の面接官だった三人。
満面の笑みを浮かべている。
「お迎えに上がりました」
「さあ、帰りましょう」
「村で、みんな待っていますよ」
私は叫んだ。
激しく抵抗した。
けれど、誰も助けてくれなかった。
浩介はずっと黙っていた。
最後に見た彼の顔には、安堵の表情が浮かんでいた。
◇◇◇ 浩介のマンション
——三年後。
浩介は、ポストから届いた葉書を手に取った。
差出人は「神成村」。
裏返すと、写真が印刷されていた。
集落の広場で撮られた、記念写真。
中央に、男と女が座っている。
女の髪は乱れ、頬はこけ、瞳からは光が消えている。
けれど、唇だけは笑っていた。
ぎこちなく、引きつったように。
瑞希だ、と浩介は思った。
その膝には、幼い子供が乗っている。
周囲を、村人たちが囲んでいる。
全員が、満面の笑みを浮かべて。
浩介は葉書をテーブルに置いた。
隣で、婚約者の美鈴が微笑んだ。
「なあに、それ?」
「ああ、何でもない。知り合いからの近況報告みたいなもの」
「ふうん」
美鈴はそれ以上追及しなかった。
「——ねえ、浩介さん」
彼女は浩介の腕に手を絡めた。
「結婚式のこと、考えてくれた?」
「ああ、どこがいい? お前の希望に合わせるよ」
「私の親戚が住んでる村があるの。小さいところだけど、自然が綺麗で、とても良いところなのよ」
「へえ、いいじゃないか」
「本当? 嬉しい」
美鈴は浩介の頬にキスをした。
「家族にも紹介するわね。きっと、みんな喜ぶわ」
浩介は頷いた。
「ああ、お茶、淹れてくるよ」
葉書をテーブルに置いたまま、浩介はキッチンへ向かった。
やかんに水を入れ、火にかける。
棚から茶葉を取り出しながら、ふと考えた。
瑞希のことは、もう終わったことだ。
あの女は、今頃あの村で——
湯気が立ち上る。
浩介はティーポットにお湯を注いだ。
リビングに戻ると、美鈴がテーブルの葉書を手に取っていた。
写真をじっと見つめている。
その横顔に、浮かんでいたのは——
微笑み。
懐かしいものを見るような、穏やかな微笑み。
「美鈴?」
声をかけると、彼女は顔を上げた。
「ああ、ごめんなさい。『素敵な家族写真』ね」
葉書をテーブルに戻す。
浩介は気づかなかった。
瑞希の後ろ、木陰に立つ女。
白いワンピース。艶やかな黒髪。穏やかな目元。
満面の笑みの美鈴。
「——お茶、冷めちゃうわよ」
美鈴が微笑んだ。
その笑顔を見つめながら、浩介は幸せそうにティーポットを傾けた。
温かい紅茶の香りが、二人の間を漂っていた。
【完】
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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