第一話 はじまりはテーピング
森田宗一は十歳でバスケの才能をすぐに発揮した。
シュートが一発で決まったときは、感動して尿を漏らすかと思った。
体育館にリバウンドしたバスケットボールをつかんだ瞬間、バスケ選手になるという夢が展開した。
小学五年生の体育の授業のことだった。
森田はクラスメイトに誘われて地域のバスケットボールチームに入り、すぐにスタメンになった。
高校はバスケの強い高校に推薦入学できて、バカだけど高校に入れてよかったと森田の母は泣いて喜んだ。バスケ部では即戦力になったが、留年ギリギリで二年に進級した。
森田は授業内容がさっぱりわからないから、つい遊んでしまう。
ガチャで「また被った、いらないからあげる」と言われてみんながくれるガチャガチャのフィギュアを“お道具箱”に集め、授業中はそれを机の下で戦わせて遊んでいる。
「森田、高校生がやることか」
教師に見つかって、フィギュアは没収された。クラスのみんなが「また森田か」と笑っている。へへへ、と森田も笑って、教師にはさらに「ヘラヘラするな」と叱られた。
授業中の眠気と退屈さを我慢して、ようやく部活の時間になると森田の心は弾む。
「んじゃーね、また明日ー」
森田はクラスメイトに手を振って部室まで急ぐ。誰よりも早くロッカールームに行き、パンイチで先輩に「あざっす!」とペコペコ頭を下げる。
「森田、今日は赤いパンツかよ」
先輩が笑う。みんなが笑うのが森田は嬉しいので、奇行を思いついたらすぐやる。
パンイチのときもあれば、下にハーフパンツを履いて姉のルーズソックスを首に巻いて「あざっす!」
ハーフパンツに上は裸で姉の制服のリボンをつけ、ルーズソックスを履いて「あざっす!」
常に面白いことを考え続けている。
先輩は後輩に優しく、部長の時川はかなりの人格者だ。怒らずに叱る。注意も丁寧でわかりやすく、指導もうまい。
副部長の村本はちょっと怖い顔だが、話をよく聞いてくれる。
一年も気持ちの真面目で、いい奴らだ。
体育館にバスケットボールが床に当たる「バンバン」という心地よい音と、シューズの「キュッ」という音が鳴る。
最近買ってもらったばかりのアシックスのミッドカットのシューズを、森田は気に入っている。
いつものようにドリブル練習をしていると――
「森田!」
と急に名前を呼ばれた。
男子マネージャーの青谷悟だ。最近、彼は微妙な六月というこの時期に転校してきた。彼はいつもせわしなく体育館を歩き回っており、話したことがあまりない。
青谷は眉間に皺を寄せて、怒った顔をしている。
「森田、そんな足で練習するな。足首、痛めてるだろ」
青谷が言う。森田は首を傾げて、左足首を動かしてみた。確かに少し痛い……ような気がする。森田は痛みに鈍感なのだ。
「そのまま練習を続けたらケガするぞ。病院、行くぞ。時川部長、森田を病院に連れて行きます」
「いや、病院行くほどでは……」
森田が言うと、青谷に睨まれた。
「自分の体を大事にするのも、強い選手になることに不可欠だ」
青谷の言葉に逆らえないな、と感じて、森田は財布と携帯を持って近くの接骨院に行った。待っている間、青谷はスマホに高速で文章を打ち込んでいた。
「何してんの?」
「ChatGPTで練習メニュー組んでる」
青谷はスマホを見たまま答える。
「ああ、あのAI。暇だからかわいい猫の絵でも作ってもらってよ」
「無理、時間ない。画像生成って結構時間かかるから」
「じゃあTikTok見よ」
「ここ病院だぞ。うるさい」
青谷はツンケンしてるな、と森田は思う。こいつだけは自分の面白さが通じないかも、悲しき……と思っていると、森田は診察室に呼ばれた。
軽い捻挫で湿布を処方された。
診察代を払おうとすると、財布の中に二百円しかなかった。
そうだ、昼にシュークリーム食べたんだ。すると青谷が黙って支払いを済ませてくれた。
「ごめんな、すぐ返すよ」
「いつでもいいよ。軽い捻挫でよかったな。部室で湿布貼って、テーピングしよう」
「すまないな、青谷。面倒見てもらって」
「なんで謝る? 才能あるおまえみたいな選手をサポートするのが、俺の仕事だから」
青谷はキリッとして答える。自分の肩の位置にある青谷は顔がとても小さくて、丸い目をしている。態度や話し方は大人っぽいけれど、意外にも童顔だと気づいた。
ロッカールームのベンチに座ると、青谷が森田の左足首にそっと湿布を貼ってくれた。ツンとする涼やかな匂いがして、足がひんやりする。
「この上から、このアンダーラップを巻く。湿布がずれないように、軽く押さえて」
青谷が湿布の上に薄い布を覆う。
「それから、テーピング。湿布の上からテーピングするときは、こうすること。覚えておいて。帰りにガーゼとか買っとけよ。痛くないからって湿布貼るの忘れるな」
青谷のテーピングは丁寧かつ、きっちりと足が固定されていくのがわかった。
「青谷って、なんでバスケのマネージャーやろうと思ったの?」
「……中学の時、アキレス腱断裂してな。バスケはもう無理って言われた。それでも大好きなバスケに関わりたくて、アスレティックトレーナーを目指すことにしたんだ。まあ、痛い目にはあったけど、今ここでマネージャーやってんのも楽しいよ」
青谷が少し目を伏せる。長いまつ毛に、過去の痛みと今の楽しさ、どちらも乗っかっているような複雑な表情だ。
「念のため、右足首もテーピングしといてやるよ。痛めた足をかばって、片方の足もダメージあるからな」
森田は右足のソックスを脱いだ。
「いいか、テーピングは少し足に違和感があったらすぐにやったほうがいい。しっかりとな。ちゃんと見てろよ、まずこうしてくるぶしから……」
青谷がテープを鮮やかな手捌きで動かすのを見ていたが、つい彼の顔に視線がいってしまう。
少しうなじにかかった髪はさらっとしていそうで、つむじがきれいに真ん中にある。ジャージを腕まくりしていて、白い腕に青白い血管が浮いている。顔は童顔だが、手は無骨だ。
そういえば、青谷はさらっと森田のことを「才能ある選手」と言ってくれていた。
「おい、聞いてんの?」
「ごめん。別のこと考えてた」
「はぁ? こっちは丁寧に教えてやってんのに。何考えてたんだよ」
「えー、んー、今日見たTikTokでさぁ、猫がドアの前で“あかなーい”って、もう鳴き声っていうか喋ってるやん、っていう動画で」
森田が言うと、青谷はため息をついた。
「アホか、おまえは。いいか、ちゃんと自分の体のメンテナンスできてこそプロなんだぞ。もっと真面目にしろ」
「すいません……」
「まったく、おまえってほんとふざけてばっかだな……でもそれ、その動画ちょっと観たい。見せて」
森田はスマホで猫の「あかなーい動画」を見せた。
「ん、言ってる。あかないって、これ完全に喋ってる。ふっ、あっはははは!」
青谷が文字通り腹を抱えて笑い出した。
満面の笑みの青谷は、かわいい。
こいつ、黒目がちで笑って口角上がるとかわいい。
青谷はしばらく笑い続けて、「あー、面白かった」と息を吐いた。
「じゃあ、今日のところは帰って休めよ。風呂上がりにちゃんと湿布貼ってな。テーピングのやり方はちゃんと覚えてもらうぞ」
「好きだ、青谷」
森田は言った。
青谷がきょとんとした顔になる。
「俺、青谷のこと好きだ。今の笑ってる顔見て、惚れた」
森田は一直線に言う。
青谷はジャージのポケットに両手をつっこんで、うつむいて黙り込んだ。
どうしよう、勢いで告白してしまった……と森田の心臓は張り裂けそうに痛くなり、カッと顔が熱くなる。
「んー……俺の方は、もしかしたらおまえのこと、好きになるかも」
青谷は顎を引いて上目遣いで言うと、にっと笑った。
「じゃあな、また明日」
青谷は部室を出て行った。
「なん、それ。チャンスありってことか」
森田の心臓は、バウンドした。