死なない③
二年H組の教室、後ろ側の扉から入室するミキホとマメオ。すでにクラスメイトは八割方登校しており、自席で授業の予習に励んでいる。シゲミも、教卓の前の席で左手に握ったシャープペンシルを忙しなく動かしていた。
朝のホームルームが始まるまで、あと七分。シゲミにクマムシの暗殺を依頼するのに充分な時間とはいえない。しかし、「昼休みに屋上に来い」とだけ伝え、会って話す約束を取り付けるだけなら余りある。
ミキホは、大きく口を開けて大量の空気を吸い込むと、思い切り吐き出した。その息吹は、アマガエル程度なら軽々吹き飛ばせそうなほどの勢いがあり、ミキホが感じている緊張の強さ物語っている。
シゲミに話しかけようとすると、好意から生まれた緊張に襲われるのは以前からのこと。しかし、今のミキホが感じている緊張は、過去のものと比べ物にならないほど強い。先日、股間をガトリング砲に魔改造した殺し屋に襲われたところを助けてもらったことで、シゲミに対するミキホの感情が大きく変化した。単純な好意だけではなく、尊敬が色濃くブレンドされている。いや、尊敬なんて言葉では不十分。「崇拝」という言葉が適切だろう。ミキホの中で、シゲミは神に等しい存在にまで昇華していた。
人間は心の底から敬っている存在に対面すると、自然と跪き、頭を垂れ、言葉を失う。ミキホが今、シゲミと向き合おうものなら話すどころか視線を合わせることさえ難しい。クマムシの暗殺を依頼するために超えるべきハードルは、成層圏を突破しそうなほどに高まっていた。
それでもシゲミへ近づこうと、ミキホは前に一歩踏み出した、その右足は、生まれたての子鹿のように震えている。もう一歩前へ進もうとしたとき、背後からマメオがミキホの左肩を掴んで止めた。
「組長、シゲミに話しかけろと言っておいてなんですが、ヤツはまた罠を張っている可能性が高い。近づく人間の命を奪うための罠を」
「た、たしかにな」
「俺が先行して、罠があるかどうか確かめます。もし俺が罠に掛かったら、その隙に組長はシゲミに依頼を」
「だがそれじゃお前が」
「心配無用です。過去に俺はシゲミの罠に掛かりましたが、こうして生きています。俺のタフさを舐めないでください。ヤツの罠がいかに危険でも、俺の命を奪うには及びません」
マメオは右の拳でドンッと胸を叩くと、ミキホより前に出てシゲミの方へと歩き始めた。生徒たちが座る席の間を縫って、一歩、また一歩と近づいていく。そして「シゲミぃぃぃっ!」と、教室中に響き渡るほど大きな声で呼びかけた。
座ったまま振り向くシゲミ。後ろから肩を揺らして近づいてくるマメオをその視界に捉えると、ニヤリと微笑む。その瞬間、マメオが立っていた床が抜け落ちた。落とし穴。マメオが予想したとおり、シゲミは罠を仕掛けていたのだ。
抜けた床の淵を右手で掴むマメオ。間一髪、下の階へ転落するのは避けられた。しかし、腕一本で全体重を支えるのは負担が大きい。表情を歪ませながら「うぐぅおおぉぉぉ」と唸る。
騒然となる教室内。驚愕する生徒たちをよそに、シゲミは椅子から立ち上がると、ぶら下がるマメオの手を両足で跨いだ。
「H組一番のガチムチ体系で、体重が九十キロを超えているのはマメオくん、アナタだけ。九十キロ以上の人間が乗ったときのみ床が抜け落ちる罠を仕掛けておいたわ。その穴は下の階にも、その下の階にも、さらにその下の地中にも続いてる。手を離せば、地下四十メートルまで真っ逆さまよ」
淡々と口にするシゲミ。彼女の言葉から、マメオはこの落とし穴が自身をピンポイントに狙ったものだということを察する。しかし理由がわからない。なぜシゲミはマメオだけが掛かる罠を用意していたのか。
マメオは腕の力を緩めないよう歯を食いしばりながら、「どうして俺を狙った?」と言葉を絞り出す。
「アナタ、この前私に絡んできたでしょ? だからムカつくの」
そう言うとシゲミは、床を掴んでいたマメオの右手を軽く蹴る。指先が床の淵から離れ、マメオは「あぁぁぁぁぁぁぁぁっ」と叫び声を上げながら、下階の床をぶち抜いて真っ暗な地下へと落ちていった。
マメオが罠に掛かったら、その隙にシゲミに依頼をする。手筈どおり行動しようと思っていたミキホだが、予想以上に大規模な罠が仕掛けられていたことに驚き、すっかり足が止まっていた。
落とし穴越しに、ミキホとシゲミの視線が合う。同級生を奈落の底に落としてもなお涼しげな瞳が、ミキホの心を鷲掴みにした。一瞬にして顔を赤く染めたミキホは、片膝を突き、視線を外すようにつむじをシゲミへ向ける。
「ミキホちゃん、私に用があるの? 何?」
抑揚のないシゲミの声が、ミキホの鼓膜を小さく揺らす。心臓が胸の中で炸裂しそうなほど鼓動し、全身の汗腺から汗が吹き出る。その汗でミキホは、土砂降りに打たれているかのようにずぶ濡れになった。
シゲミの問いに答えるべく言葉を捻り出そうとするが、口からは「はぁ、はぁ」と息が漏れるだけ。マメオの代わりに自分が穴に落ちたほうがましだったとさえ思えるほど、ミキホの精神は追い詰められていた。
だが、ここで何もせず引き下がるわけにはいかない。腹心の部下が、おそらく命を犠牲にして作ってくれたこのチャンスを無駄にしては、浜栗組組長の名折れ。地獄に落ちたマメオにも、他の組員たちにも顔向けできない。
「シシシシシシシシシシゲミッ!」
咽頭を震わせ、何とか声を出す。「様」をつけるべきだったかと迷ったが、シゲミが神なのはミキホの心の中だけのこと。現実ではただの同級生に過ぎないのだから、敬称をつける必要はないと思い直す。
「ひ、ひひっひひひ昼休みぃぃぃにぃぃぃっ! おおおっおおおっおお屋上で話したいことがぁぁあるんだけどぉぉぉぉぉぉ時間あるかなぁぁぁ〜?」
ホームルームが始まる一分前。今の時間でシゲミに伝えるべきことを、ミキホはしっかりと口にした。月に届きそうなくらい高くなっていた心理的ハードルを飛び越えた。あとはシゲミの返事次第。断られることも充分に考えられる。断られるだけならまだしも、ミキホもマメオのように罠で排除されてしまう可能性さえある。
頭を上げ、キョロキョロと辺りを見回すミキホ。天井から巨大な丸太が落ちてこないか、背後から巨大な丸太が迫ってきていないか、床下から巨大な丸太で突き上げられないか、警戒する。
「わかった。昼休みに屋上ね。いいわよ」
シゲミはさらりと答えると、自席に座った。ミキホを排除するための罠が起動する気配はない。
シゲミと言葉を交わすことすらできないのではないか。頼みを聞いてくれないのではないか。罠で攻撃されるのではないか……そういったミキホの心配は、全て杞憂に終わった。
安堵感から、ミキホの体に力が入らなくなる。三時限目の授業が終わるまで床に跪いたまま、動くことができなかった。
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屋上を囲む金網にもたれかかり、シゲミを待つミキホ。その左隣で、地下深くへ落ちたはずのマメオがタバコを吸っている。マメオは生徒が呼んだ救急隊により救助され、保健室に運ばれた。しかし両足を複雑骨折しており、骨の一部が足の筋肉を突き破って露出。その場で緊急手術することになった。結果、太ももの付け根から下を切断し、現在は両足とも義足になっている。
「おいマメオ、お前大丈夫なのか? いや大丈夫じゃないだろ。家に帰れ」
ミキホの不安を吹き飛ばすように、マメオは大きな笑顔を作って左手でサムズアップする。
「言ったでしょ? 俺はタフだって。それと、保健の桐山先生の技術、マジすげーっすよ! たった二時間で俺の両足を義足に変えてくれました! 今までの何倍も速く走れますし、いくつか武器を仕込んであるので、組長を守るのにもピッタリです!」
マメオはタバコを咥えながら、チタン合金の右足を手でパチンと叩いた。どういう反応すれば良いのかわからないミキホは、苦笑いをして話すのをやめる。
三分後、屋上にシゲミが現れた。足音を一切立てず、二人に近寄る。マメオはシゲミを見るやいなや、ミキホを自身の背後に隠した。
「安心してください、組長。俺の左膝には、二十ミリ口径の機関銃が搭載されています。もしシゲミが何かしてきたら、蜂の巣にしてやりますから」
「……お前の膝がすごいことはわかった。だが、やめろ。シゲミとは平和的に話がしたい」
二人から三メートルほど離れたところで立ち止まるシゲミ。そして「何の用?」と口にする。マメオの背後から体を出して要件を伝えようとするミキホだが、やはりシゲミと目が合わせられない。口も思うように動かず、膝が勝手に折れ曲がろうとする。「神」を前に、崇拝の意思を示そうとする自身の肉体を、どうしても制御できない。
このままではシゲミを呼び出した苦労が水の泡。何としてでもクマムシの暗殺を依頼しなればならない。その方法を、頭を高速回転させて考えるミキホ。はっと何かを思い付き、体を完全にマメオの背に隠す。そして背後からマメオに耳打ちした。
「……わかりました。シゲミ、組長は訳あって今は上手く声が出せねぇ。代わりに俺が話す。まるで腹話術人形みたいにな」
マメオの言葉を聞き、シゲミは眉間に深いシワを寄せる。人生経験の浅い幼稚園児でも気づくであろう激しい嫌悪。マメオに対するシゲミの好感度は、ゼロを大幅に下回っている。ミキホが自分の口で話せば、シゲミは不快感なく会話ができるだろう。だが当のミキホは、朝の僅かな時間に話しかけるだけで限界を迎えている。マメオを腹話術人形にしてシゲミと会話すること。それが、今のミキホにできるシゲミとの唯一のコミュニケーション方法なのだ。
マメオはミキホの心情と意図を汲み取っていた。この場は腹話術人形に徹することが、組長への最大の貢献だと理解する。シゲミも不服そうではあるが、「わかったわ」と承諾した。
再びミキホは、コソコソとマメオに耳打ちする。そしてマメオが代弁を始めた。
「我が神・シゲミよ、貴台に依頼したいことがある。『クマムシ』と呼ばれる男を暗殺してもらいたい。かつて私の父が浜栗組から破門した残虐な殺し屋で、刑務所を出てどこかに潜んでいるそうなのだ。クマムシは浜栗組に強い恨みを持っている。間違いなく、組員に報復しに来るだろう」
ミキホの言葉を一言一句そのままシゲミに伝えるマメオ。
「ミキホちゃんも狙われているの?」
シゲミの問いを聞き、ミキホは答えをマメオに代弁させる。
「まだわからない。が、クマムシが浜栗組そのものに恨みを持っているならば、現在の組長である私も殺そうとするだろう」
「わかったわ。クマムシって人の外見的な特徴と居場所を教えて。それさえ分かれば、あとは私一人で片付けておく。要件はそれだけ? なら教室に戻るわ。『スタンド・バイ・ミー』を読んでいた途中なの」
すんなりと許諾したシゲミ。ミキホの口から「えっ」と漏れ出る。感情のない人形になりきっていたマメオも、ポカンと口を開けた。
二人に背を向けて立ち去ろうとするシゲミを、「待ってくれ」と、ミキホが自分の言葉で止める。
「なんで……なんで引き受けてくれるんだ!? 疑問に思わないのか!? 報酬とかは!?」
ミキホはマメオを介すことなく、シゲミに語りかけていた。振り向くシゲミ。
「守秘義務があるから、何も言えない。ただ……アナタたちの親組織、鮮魚会の会長さんなら何か知ってるかもね」
そう言い残し、シゲミは屋上から校舎内へと戻っていった。




