死なない①
雲一つない青空の下、刑務所の正門を通り抜ける中年男が一人。坊主頭で薄ピンクのワイシャツを着て、ベージュのチノパンを履いている。かっちりとした服装ではあるが、ワイシャツにもチノパンにもシワが入り、どこか社会に適合していない雰囲気が漂う。両腕に入った龍の鱗を思わせる和彫りと、げっそり痩せこけた頬も、それを助長しているかのようだ。
男は門の前に立つ守衛に向かって軽く頭を下げると、刑務所の塀に沿って伸びる歩道をのそのそと歩く。行く当てはない。ただ刑務所から出て行くよう言われたから出所し、離れる。太陽の光が鬱陶しいほど降り注ぐ歩道と対照的に、男の人生という道は暗闇へと続いていた。
横断歩道を渡り、細い路地へ入る。ネズミやムカデが這い回る、どこに続いているかもわからない薄暗い道。今の男が居るべき場所としては、ピッタリに思えた。
男の行く手を遮るように、別の男が現れる。無造作な黒髪のウルフカット、紺色のワイシャツの上から黒いスーツを着こなす、スラッとした体型の若者。二十代前半といったところだろう。整った目鼻立ちには、古代ギリシャ彫刻のような美しさすら感じる。
若い男は、薄く微笑みながら口を開いた。
「初めまして。アナタを待っていました。元浜栗組の構成員で、異名は『クマムシ』でしたよね?」
若者の問いかけに、クマムシと呼ばれた男が応える。
「そう呼ばれていた時期もあったな。しばらく番号で呼ばれていたもんで、忘れていたよ。で、キミは誰かな?」
「申し遅れました。僕は鮟西ミナト。 死軍鶏組という暴力団の組長をしています。そしてアナタのファンです」
鮟西と名乗った若者の顔からつま先まで、視線を動かすクマムシ。ヤクザの組長にしては若すぎる。大学を卒業したての社会人といった様相だ。しかし、瞳の奥からは微かに殺気が漏れ出ている。人間の命を何度も奪ってきた者ならではの気配。
鮟西がヤクザの頭領であるという確証こそ得られないものの、クマムシと同類であると確信することはできた。
鮟西は笑顔を浮かべたまま、続ける。
「刃物で心臓を刺されても、拳銃で頭を撃ち抜かれても、二十分間火だるまになっても死なない……そんな偉業から、不死身の生物と同じ『クマムシ』という名前を与えられた男。十五年も刑務所に入っていて、すっかり社会から切り離されたアナタですが、裏社会には僕みたいな根強いファンがたくさんいるんですよ」
「大きな事件を起こして顔が世に出回ると、刑務所に差し入れが届いたり、面会に来るヤツがいたりすると聞く。けど、俺にはそういった話が全くなくてね。ブサイクだからファンがつかないんだと思っていたが」
「容姿は関係ありません。アナタの場合、やったことが問題なんですよ。信用金庫に立て籠もり、突入してきたSAT隊員をナイフ一本で九人殺害。その間、自動小銃で二百発もの弾丸を撃ち込まれたのに死ななかった」
「……いま振り返ると、自分でもドン引きだな。あのときは血気盛んで、殺しをしたくて仕方なかったんだ。無力な一般人じゃなくて、殺し甲斐のある人間をな」
「その上、絞首刑が執行されたのに首の骨が折れず、窒息死もせず出所……まさに不死身の化物だ。不気味がって、誰もアナタに近寄ろうとすらしないでしょう。僕みたいな物好きを除いて」
鮟西の顔から笑顔が消え、殺気が強まる。その変化を、クマムシは見逃さなかった。
「お坊ちゃんよぉ、俺のファンだって言うなら、服役中も会いに来てくれてよかったんじゃねぇかな? それに、せっかく出てきた俺を今にも殺そうって目つきだぜ? それがファンの態度かねぇ?」
「これから僕は、アナタのファンではなく上司になる。クマムシさん、死軍鶏組に入ってください。不死身の肉体、殺人に対する強い欲望……殺し屋として、これほどの逸材はいません」
「……スカウトか。だったらなおさら、俺に殺意を向ける意味がわからないんだが」
腰に右手を回し、ジャケットの裏からサバイバルナイフを取り出す鮟西。そして、ナイフを放り投げる。鮟西とクマムシの間の地面で二回バウンドした。
「組に入ってもらう前に、クマムシさんが僕の求める基準に達しているか確かめさせてください。アナタには十五年ものブランクがある。その間に殺しの腕が鈍っていて、『雇ったけれど、結局仕事をこなせませんでした』では困るので」
クマムシはナイフを拾い上げる。路地裏に差し込むわずかな光が、刃に反射した。
「年食ったベテランは、即戦力にならないと再就職は難しいらしいな。で、こんなお坊ちゃんにテストされなきゃならないのか。プライドもへったくれもねぇな」
「最近、失敗続きでしてね。慎重になっているんです」
鮟西は左手で、懐からもう一本のサバイバルナイフを取り出す。説明など要らない。鮟西がクマムシに課すテストとは、ナイフでの殺し合いだ。
右足を一歩踏み出し、クマムシとの距離を詰めようとする鮟西。その直後、クマムシは「待った」と口にした。
「俺は、お坊ちゃんのスカウトを受けるなんて一言も言ってない。組に入るメリットがねぇと、テストを受ける気にすらなれないぜ」
鮟西は足を止め、再び口を開く。
「アナタの衣食住をすべて保証します。もちろん、働きに応じた対価もお支払いする。ボーナスは年二回」
「裏社会には俺のファンがたくさんいるんだろ? その程度の条件なら、お坊ちゃんの組を選ぶ理由にはならんな」
「……クマムシさんに依頼したい仕事は、浜栗組の組長と構成員どもの殺害です。ゆくゆくは、浜栗組の親組織である鮮魚会の壊滅にも協力してもらいます」
クマムシは訝しげに目を細めるが、鮟西は意に介さず続ける。
「クマムシさん、アナタはかつて殺し屋として仕事をこなし、浜栗組に充分な恩恵をもたらした。しかし、素行に問題ありとみなされ破門。行き場を失った。あまりに冷たい対応だ。そしてアナタは今も、そのことを恨んでいる。ですよね?」
「……ああ。よく知ってるな。出所してから何をしようか迷っていたが、組長の浜栗 ドンゾウに挨拶しに行くことだけは決めてたよ」
「残念ながら、浜栗 ドンゾウはすでにこの世にいません。今は娘のミキホが組を継いでいます」
「マジか」
「ですが、鮮魚会における浜栗組の立場、機能、構成員の面々などは、クマムシさんが破門された当初からさほど変わっていません。あの組は今も、浜栗 ドンゾウの意思を継承し続けているんです。アナタが浜栗 ドンゾウへの復讐を望むなら、浜栗組そのものがターゲットになる。違いますか?」
「……まぁ、そうなるか。あの組には、ドンゾウ以外にも殺したいヤツが何人もいるしな」
クマムシの言葉を聞き、鮟西は左右の口角を小さく上げた。
「僕は浜栗組を、ひいては鮮魚会そのものを潰したいと考えています。東日本で最大級の勢力を誇る鮮魚会に、真っ向から仕掛けようとする組織が他にあるでしょうか?」
「……ねぇな。馬鹿げてる」
「ええ。そんな馬鹿げたことを成し遂げるべく、僕は死軍鶏組を立ち上げた。もちろん、勝ち目のない戦いをするつもりはありません。勝つための計画を練り、人員を集めている。その足掛りが鮮魚会きっての武闘派組織である浜栗組です。浜栗組を潰せれば、鮮魚会の戦力は大幅に下がるでしょう。そのために、アナタの力を借りたいと思っている」
かつて浜栗組に身を置いていたクマムシにとって、鮟西の言っていることは子供の妄想に思えた。浜栗組は、構成員百人ほどの小規模な組織。しかし裏社会で名の知れた殺し屋が大勢所属している。そしてそのバックには、数千人のヤクザを抱える鮮魚会。浜栗組を滅ぼせたとしても、鮮魚会が報復に乗り出せば無事でいられるわけがない。死軍鶏組などという、若造が率いる新興組織が喧嘩を売っていい相手でないことは明らかだ。
あまりに無謀な目標。頭ではそうわかっている。なのに、鮟西の目に宿る殺意とは別の熱意に、クマムシの心は思わぬ方向へ突き動かされそうになっていた。破門され、長い刑務所生活を送り、以前と考え方が変わったことも影響しているのかもしれない。だがそれ以上に、鮟西という若者が秘める未知のエネルギーに、クマムシは惹かれ始めていた。
ナイフを逆手に握り、胸の前に持ってくるクマムシ。
「……いいだろう、お坊ちゃん。テストを受けてやる。そしてもし合格できたら、なぜ鮮魚会に楯突こうとしているのか、その理由を聞かせてくれ」
クマムシの言葉に、返事をしない鮟西。代わりに腰を落とし、左手で握ったナイフの切先をクマムシに向けることで、テストの開始を告げた。




