良いヤクザなんていない
二カ月半前、中学校の卒業式を終え、帰宅した少年・居間井 シンペイは、父から新しいメガネをプレゼントされた。
「あの名門・市目鯖高校に受かったお前は、この三年間、勉強をよく頑張った。お父さんの給料じゃ大したプレゼントはしてやれないが、これは気持ちだ」
メガネをかけるシンペイ。それは、受験勉強ですっかり下がってしまった視力をピッタリと補ってくれ、久しぶりに父親の顔をはっきりと見せてくれた。
−−−−−−−−−−
そのメガネが、校舎裏で地面に横たわるシンペイを取り囲む、三人の男子生徒の一人に踏み砕かれた。
高校に進学した彼を待っていたのは、同級生によるイジメ。中学時代は部活もせず、友達も作らず、ずっと勉強に打ち込んできた。試験では毎回学年ナンバーワン。「勉強ができる」という、ただそれ一点のみではあるが、同級生たちから一目置かれ続けた。肩身の狭さは感じてはいたものの、イジメの標的にされることはなかった。
しかし、市目鯖高校ではそうもいかない。周りは皆、自身と同じか、それ以上に勉強ができる秀才たち。その上、ほとんどの生徒が部活に入ってスポーツや芸術と学業を両立している。シンペイにとって唯一自分が目立てる武器であった学力が通用しなくなってしまった。人並み以下の成績に、クラスでの存在感のなさ。それらが相まって、入学からあっという間にイジメの的になってしまったのである。
「ありがとうな、サンドバッグになってくれて。おかげでストレス発散できて、勉強が捗る……ぜっ!」
男子生徒の一人が、シンペイの顔面にサッカーボールキックを喰らわせる。鼻血が吹き出し、前歯が一本折れた。意識が飛びそうになるシンペイを横目に、男子生徒たちは笑いながらその場を後にする。シンペイの顔面は血と涙でぐしゃぐしゃになっていた。
−−−−−−−−−−
窓から橙色の光が差し込む、二年H組の教室。最後列の席で、ミキホが日本史Bの教科書を読んでいる。中間試験まで十日を切っていた。ミキホは一年生の頃から中間・期末試験の成績で学年五位より下になったことがない。授業の予習と復習は毎日欠かさず、試験が迫ると学校に残って自主勉強を数時間行うようにしている。
浜栗組の頂点に立つミキホは、どんなことでもトップでないと気が済まない。もちろん学業も。入学時の偏差値が七十を超える進学校の市目鯖高校で成績トップに位置することは、彼女にこの上ない満足感をもたらすのだ。
ミキホの脳が、室町時代に「能」が武士階級を中心に広まったことをインプットした直後、右耳の鼓膜を「浜栗 ミキホさん」という男の声が揺らした。声がしたほうに顔を向けるミキホ。砂利で汚れたワイシャツ姿のシンペイが、教室の後ろ側の扉から入ってきた。シンペイは小走りで一直線にミキホへ近寄る。
ミキホは右手をスカートのポケットの中に入れ、バタフライナイフを握る。自身に近寄ってきている男は、年齢や身なりからして市目鯖高校の生徒であると予想はついた。しかし最近、ミキホを狙う殺し屋が増えている。いつ、どこで、誰が、どんな手段で命を狙ってくるかわからない以上、生徒であっても見知らぬ人間には警戒心が働いてしまう。
ミキホがナイフを取り出そうとした瞬間、シンペイは膝と腰を折り曲げ、床に額をつけて土下座をした。
「浜栗 ミキホさんですよね? ウワサは聞いております。浜栗組を統率する若き組長」
小さく、弱々しく固まる目の前の男子生徒からは、一切の殺気を感じない。ミキホはポケットから右手を引き抜いた。
「そうだが、お前さんは誰だ?」
「一年D組、出席番号二番、居間井 シンペイと申します。浜栗さんにお願いがあって来ました……浜栗組は、プロの殺し屋を何人も抱えていると聞きました。だから……どうきゅ……同級生を……殺してほしいんです」
浜栗組は、所属する鮮魚会全体の汚れ仕事を請け負っている。組員の手が足りないときは、ミキホ自身が仕事を行うこともある。そのため、殺しの依頼をされることは慣れっ子だ。しかし、同じ高校の下級生から依頼されるとは思っておらず、「はぁ?」と疑問の声が漏れ出る。
顔を上げるシンペイ。ミキホの訝しげな表情が目に入ったが、お構いなしに続ける。
「同じD組の神山 タケル、野口 タイガ、柴田 ユウジ……この三人を殺してください!」
「ちょっと待て! いきなり何だよ!?」
「入学してからずっと、イジメられてきました……もう耐えられないんです。アイツらを殺してやりたい……でも僕には力がありません。アイツらに立ち向かったところで、ボコボコにされるだけです……だから浜栗さんに……」
両目に涙を滲ませるシンペイの顔や体をまじまじと見るミキホ。顔は腫れ上がり、ワイシャツの汚れには砂だけでなく血も混じっている。ついさっき袋叩きにされたのであろうことは、一目瞭然だった。
「市目鯖にイジメなんかやる生徒がいるんだな。草食系を通り越して、植物性プランクトンみたいなヤツしかいないと思っていたが」
ヤクザの組長であるミキホなら、あらゆる力を働かせて、カタギ同士のイジメを解決することなど容易い。しかし、赤の他人であるシンペイを善意だけで助けてやる義理はない。依頼を受けるかどうかは、シンペイがいかに誠意を見せるか次第である。
シンペイはズボンの左ポケットに手を突っ込み、ガサゴソと漁った。そして、しわくちゃになった紙幣を数枚取り出し、ミキホに差し出す。
「これ……依頼料です……タダでやってくれなんて言いません。四万円あります……これで、どうか……アイツらを」
シンペイの誠意を受け取ったミキホ。紙幣の枚数を数える。たしかに四万円あった。
「ウチの組は、『安く確実に殺します』がモットー。だが、殺す相手がカタギでも一人あたり五万はもらうようにしてる。これじゃ三人どころか、一人分にもなりゃしねぇ」
ミキホが口にした殺しの依頼料を聞き、シンペイはポカンと口を開ける。
「一人五万……」
「三人で十五万だ。高校生が用意するには、ちょいとハードルは高めだが」
「……いいえ、もう少しアルバイトを頑張れば十分届きそうです。そんなに安く殺してくれるんですか?」
「ターゲットが一般人ならな。こんなもんだぜ、命の価値は」
「そうですか……でも、今すぐ用意できるのは、四万円だけなんです……もうこれ以上、イジメに耐え続けるのは無理……そのお金でできるところまで、やってもらえませんか!?」
ミキホは椅子の背もたれに体重をかけ、天井を見上げるように考え込む。およそ二秒後、シンペイのほうに顔を向け、口を開いた。
「いいだろう。四万円分の仕事をしてやる。明日の午後五時に、体育館の倉庫に一人で来い。お前をイジメてた連中を殺すのは、金額的に割に合わないからやらないが……お前の溜飲を下げることくらいはしてやれるだろうよ」
グジュグジュだったシンペイの顔が、大きな笑みへと変わる。
「あ、ありがとうございます! お願いします!」
再び頭を下げるシンペイ。視線を床に向けたまま、続ける。
「僕、正直、浜栗さんのところに行くのも怖かったんです。ヤクザがイジメの報復になんて協力してくれないんじゃないかと。怒鳴られて跳ね除けられるんじゃないかと」
「ウチの組と市目鯖は蜜月関係にある。学校の治安を著しく乱すヤツがいれば、始末するのも私たちの役目だ」
「本当に、感謝しかありません。浜栗さんみたいな、良いヤクザも世の中にはいるんですね」
シンペイが口にした「良いヤクザ」という言葉を聞き、ミキホの右眉がピクリと動く。
「シンペイっつったな? 残念だが、良いヤクザなんていない。極悪人どもの集合体をヤクザと呼ぶんだ。私も例外ではない。それがどういうことか……明日、教えてやる」
怪しげなミキホの発言も、復讐できる喜びでいっぱいのシンペイには届いていない。シンペイは頭を下げ、感謝の言葉を口にし続ける。そんな二人のやり取りを、教室の外の廊下でシゲミが密かに聞いていた。
−−−−−−−−−−
翌日。顔にガーゼと絆創膏を貼ったシンペイは、ミキホに指定されたとおり、午後五時に体育館へやって来た。試験前で部活動はすべて活動停止となっており、普段はバスケ部やバレー部が活動しているであろう放課後の体育館は無人である。
最奥にある倉庫の、金属製の重い扉を開けて中に入るシンペイ。中央にミキホが立っていた。その足元には、白いタオルで猿ぐつわをされ、両手両足をロープで縛られ横たわる、神山 タケル、野口 タイガ、柴田 ユウジの三人。三人とも瞼や頬が赤く腫れている。意識はあるが芋虫のように体をくねらせるだけで、まともに動くことも、声を出すこともできない。
シンペイのほうに目をやり「来たか」とつぶやくミキホ。そして、神山 タケルの頭を右足で踏みつける。
「拉致る。これで二万円分だ。初回の依頼ってことで、サービスとして私がボコっといた」
昨日までの自分と立場が逆転していることに愉悦し、シンペイは「ははは」と小さく笑う。満足げなシンペイを見て、ミキホも両の口角を吊り上げた。
「残り二万円分の働きは、死体の始末だ。殺しで一番大変なのは後始末。これにはテクニックとコネが要る。シンペイ、お前には無理だろ? だから私がやってやる」
シンペイは首を傾げる。昨日、ミキホは「四万円で殺すのは割に合わないからやらない」と言っていた。しかし今、間違いなく「死体の始末」と口にした。三人をこの場で殺すつもりなのだろう。どうして心変わりしたのか、疑念が湧く。
「あの、浜栗さん……コイツら、殺さないんじゃ……?」
「私はな。殺すのはお前だよ」
そう言うとミキホは、スカートの右ポケットからバタフライナイフを取り出し、刃を露出させた。そして刃のほうを掴み、反対側の持ち手をシンペイに向ける。
「コイツらを殺さないと、本当の意味で満足できないだろ? イジメられた恨みってのは、それくらい深いってことくらい私にもわかる。だからお前に殺らせてやろうってんだ。ありがたく思いな」
「でも」
「三人とも殺せとは言わねぇ。誰か一人だけでいい。残り二人には、友達が死ぬ瞬間を見せ、その光景を記憶させたまま生かす。もちろん、このことを公にすれば殺す。私にとってもリスクになるからな。ずっとヤクザに命を狙われ続ける……いっそ死んだほうが楽だろう。でも、そのくらいの苦痛を与えたいだろ? なぁ? シンペイ」
ミキホの提案に、シンペイは言葉を失う。横たわる三人のイジメっ子たちは、自身の命が危険にさらされていることを察し、「んーっ! んーっ!」と言葉にならない命乞いをし始めた。
ミキホは邪悪な笑みを浮かべなら、シンペイに選択を迫る。
「さぁ、どいつを殺す? やり方は簡単だ。首を一刺しした後に、胸を三回刺せ。力一杯な。上手くすれば動脈や心臓を傷つけて、即死させられる。できなくても出血さえさせられれば、三十分も放置しときゃ死ぬだろう」
シンペイの唇が、小刻みに震える。
「安心しろ。殺せた暁には、お前を浜栗組で匿ってやる。殺しが明るみになることはない。そして、そのままウチの組に入れ。ためらいなく殺しができる人材は貴重だ。ウチに舞い込んでくる殺しの仕事をやってもらいてぇ」
ナイフをシンペイに近づけるミキホ。シンペイは震える右手で、ナイフを握った。思うように力が入らず、落としそうになる。しかし、頭によぎるイジメられた過去が、握力を蘇らせた。
シンペイの足は、三人のうちリーダー格だった神山 タケルへと向かう。体は、神山を殺す準備が整いつつあった。だが、その目と鼻からは大量の水が溢れる。殺しを決意した者の表情ではない。
シンペイの背後から、ミキホがささやく。
「自分が殺しをやらされるなんて、思わなかったか? 言っただろ? 良いヤクザなんていないんだよ」
一度は止まったはずのシンペイの手の震えが、再び呼び起こされる。手からナイフが床に落ちた。
「すみません浜栗さん……僕には……できません……僕が……間違ってました……」
泣き崩れるシンペイ。ミキホはナイフを拾い上げると、スカートの左ポケットから二枚の一万円札を取り出し、シンペイの左手に握らせた。
「なら仕事はここまでだ。残りの金は返すぜ。ただ、もしまたイジメられたとしても私に泣きつくんじゃねぇぞ。自分で解決しろ」
シンペイの肩を叩いたミキホは、涙を流して失禁する三人のほうへ視線を送る。
「良かったな、死なずに済んで。コイツに感謝して、これからは仲良くするんだぜ」
ミキホの声が、倉庫の外へと漏れ出る。扉にもたれかかりながらその声を聞いたシゲミは微笑むと、体育館を後にした。




