爆音が耳から離れない
東京都立市目鯖高校。合格者の平均偏差値が七十を超える名門校で、ほとんどの生徒が「真面目」を絵に描いた優等生である。
そんな市目鯖高校の二年生で学力トップなのが、浜栗 ミキホだ。 テストで全教科満点は日常茶飯事。その上、長い金髪をなびかせる端整な顔立ちをした色白の美人で、スタイル抜群。才色兼備な彼女の前では、生徒も先生も誰も頭が上がらない……のは事実だが、それには別の理由がある。皆、彼女の裏の顔を恐れているのだ。
ミキホは亡き父の後を継いだ、指定暴力団・鮮魚会浜栗組の組長。十七歳にして百人近い荒くれ者を束ね上げ、裏社会で着々と知名度を上げている。彼女が牛耳る浜栗組は市目鯖高校とも深く結びついており、ミキホは高校の実質的な支配者と言っても過言ではない。学校で問題を起こすということは、ミキホたち浜栗組に楯突くことと同義なのである。
この日も、浜栗組と市目鯖高校のつながりを知らず問題行動をとり、制裁を食らう生徒が一人。
PM 5:36
三年B組教室
前に突き出たリーゼントヘアで、黒いスーツを着た体格の良い男が、ブレザーを着た茶髪の男性生徒の顔面を殴る。男子生徒は、誰もいない教室の床を、机や椅子を倒しながら滑った。鼻と口から血が、両目からは涙が流れる。股間が濡れ、失禁もしていた。
スーツの男の名前はマメオ。浜栗組の構成員であり、ミキホが学校にいる間のボディーガードを務めている。年齢は二十四歳だが、ミキホと同じ二年H組に籍を置く。市目鯖高校の二年生に進学して以来、七年間も留年し続けているのだ。
マメオの背後で教卓にもたれかかっていたミキホが、顔面をぐしょぐしょにしながら横たわる男子生徒に近づき、傍らにしゃがみ込んだ。
「購買部の焼きそばパンを万引きするとは、良い度胸じゃねぇかよ。購買はウチの組のシノギなんだ。万引きなんてされちゃ、商売上がったりだぜ」
「し、知らなかったんだ……浜栗組がバックについてるなんて……マヌケ面したおばちゃんが一人で経営してるものだと……」
「テメェ、おばちゃんのことをマヌケ面っつったか? 万引きするよりも許せねぇな。おばちゃんはウチの組員だ。彼女をバカにするってことは、私の家族をコケにするのと同じこと」
ミキホはスカートの右ポケットに手を入れる。そして自動式拳銃を取り出すと、銃口を男子生徒の眉間に突きつけた。「ひいぃっ!」と情けない声を出す男子生徒。再び失禁し、教室内に漂っていたアンモニア臭が強まる。
「組長、学校で殺しはマズいですよ」
マメオが動揺しながら止めようとするが、ミキホは拳銃を仕舞わない。
「マメオよぉ、知ってるか? こいつ、ヤンキーぶって『市目鯖の裏番長』とか吹聴してたそうだ。子分もいるみたいだが、どいつもこいつも、人をぶん殴ったことすらねぇ、温室育ちの優等生お坊ちゃん。万引きすりゃ悪ぶれると思ってる世間知らずな腰抜けどもだ」
「そ、そうかもしれませんが……」
「だったら教えてやろうじゃねぇか。本物の悪がどういうものかを。この鉛玉に乗せてよぉ」
引き金に指をかけるミキホ。マメオが「組長!」と大きな声を出すが、ミキホの指は止まらない。男子生徒は死が目の前に迫っていることを感じ、さらに放尿する。
ミキホの指が引き金を引き切った。しかし銃口から弾丸は飛び出さず、代わりにカチッという軽い音が鳴る。
「たわけ者が。学校に実弾入りの銃を持ってくるわけねぇだろ。空だよ空」
ミキホは銃口を男性生徒の眉間から離して天井に向け、引き金を三回引く。カチカチカチという音しかでなかった。
助かったと安堵しながらも、死の恐怖を痛感し奥歯をガチガチと鳴らす男性生徒。ミキホは「よっこらしょ」と言いながら立ち上がる。
「わかったら二度と悪さをするな。真面目に学校に通い、おとなしく授業を受けてろ。そうすりゃ、私らは何もしねぇからよ」
高らかに笑うミキホ。男性生徒は泣きながら、四つん這いで教室の後ろ側の扉から出て行った。
ミキホは男性生徒が小便を漏らした床を指さし、マメオに「掃除しとけ」と一言。「ヘイッ」と返事をしたマメオは、雑巾を取りに教室の外へと駆け出す。
西部劇のガンマンのように拳銃を指でクルクルと回し、ポケットに仕舞ったミキホ。直後、背後から強い殺気を感じた。背中に冷たいものが走る。仕舞った拳銃をすぐさま取り出し、振り向いて構えた。
教室の後方、ブレザーを着た女子学生が机の上に直立していた。黒髪のショートボブで左肩にスクールバッグを下げている。顔は整っているが、「美人」というより「童顔」という評価が似合うタイプ。
ミキホには、彼女に見覚えがあった。爆弾魔 シゲミ。同じ二年H組のクラスメイトだが、会話をしたことは一度もない。マメオという舎弟を常に侍らせ、学校の中心的な人物であるミキホと対照的に、シゲミは誰とも会話をせず、休み時間はいつも一人で本を読んでいる。
これから卒業まで会話をするどころか、二人だけで同じ空間にいることすらないであろうミキホとシゲミ。だがシゲミのほうから、なぜかミキホに接触してきた。強い殺気を放って。
「何の用だ? 爆弾魔 シゲミ」
背中に冷や汗をかきながら尋ねるミキホに向かって、シゲミは微笑む。
「その銃、空なんでしょ? なら脅しの道具にすらならないわ」
ミキホを挑発するように言い放つシゲミ。その言葉には、臆する気配が微塵も混ざっていない。ミキホの経験上、カタギの人間は空の銃だろうが、向ければ萎縮する。弾が入っていないとわかっていても、日本で暮らしていてはまず体験することはないであろう「銃を向けられる」という行動自体にビビるものだ。しかしシゲミには、その様子が一切ない。
「面白いものを見せてもらったわ。さっきのがミキホちゃんの、組長としての仕事?」
薄ら笑いを浮かべながら質問するシゲミに、不気味さを感じざるを得ないミキホ。空の銃であっても、目の前のカタギの人間に「攻撃する」という意思を示し続けなければ、自分が殺されてしまうかもしれないという感覚に襲われていた。
「……そうだ。組にケンカ売ったバカにケジメをつける。組長として《《一番簡単な仕事》》だよ。《《もっと難しい仕事》》もあるが……見学するか? 今日から一週間はメシが食えなくなる覚悟があるならだけどな」
ミキホは負けじと煽る。シゲミは「遠慮しておくわ。ご飯は美味しく食べたいから」と言うと、机から飛び降り、教室を出ようとした。「待て」と呼び止めるミキホ。
「先公にチクりに行く気か? 無駄だぜ。先公どもも浜栗組の恐ろしさはよくわかってる」
「でしょうね。それに、アナタの仕事を邪魔する気はない。《《お互い様》》だから」
そう言い残し、シゲミは教室を後にした。入れ替わるようにマメオが戻ってくる。「どうしました?」と問いかけるマメオに、「何でもねぇ」とぶっきらぼうに答えるミキホだった。
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PM 6:22
校舎から出て、正門に向かって中庭を歩くミキホとマメオ。空は薄暗くなり、敷地内に生徒はほとんどいない。教員が僅かに残っているのだろう。校舎内で灯りが点いているのは職員室のみ。
二人が正門に差し掛かったそのとき、すぐ目の前の路上にヒョウ柄のワイシャツを着た若い男が現れ、立ちふさがった。
男は声を震わせながら「浜栗……ミキホだな?」と口にする。「そうだが」とミキホが答えた瞬間、男は黒いズボンの尻ポケットから回転式拳銃を取り出し、ミキホに向けて両手で構えた。
咄嗟にスカートの右ポケットに手を入れ、応戦しようとするミキホ。だが、気づく。拳銃には弾が入っていないことに。
マメオが「組長!」と叫びながら、男とミキホの間に割って入った。拳銃から放たれた弾丸はマメオの左肩を貫通する。血を流し、その場に倒れるマメオ。地面に血だまりが広がる。
「三下に用はねぇんだよぉ!」
男は口からよだれを垂らしながら絶叫。薬物をやっているのか、明らかに正常ではない。
倒れたマメオの肩を揺さぶり、起こそうとするミキホだが完全に気を失っていた。「打たれ弱っ! ほんまにボディガードかコイツ!?」という言葉がつい口から漏れたが、拳銃で撃たれれば気絶もするだろうと、頭の中で訂正する。
男はブルブルと震える手で、無防備になったミキホの顔に照準を合わせた。
「死ねやぁぁぁっ!」
男の人差し指が引き金を後ろに押す。ミキホは死を覚悟し、両目をぎゅっと閉じる。
カランッカランッ
暗闇の中、金属音が二回響いた。間髪入れずに、爆発音が鼓膜を大きく震わせる。
一体何が起きたのか。状況が飲み込めないまま、ミキホは目を開いた。天高く登る噴煙。ミキホを銃撃しようとした男が立っていた位置から立ちこめている。そしてミキホの眼前には、背を向けて立つ学生が一人。先ほど三年B組の教室であった女子、爆弾魔 シゲミだ。
風が噴煙を空の彼方へと攫う。男は仰向けに倒れていた。右腕と右足が胴体から千切れ、男の五メートルほど後方に落ちている。
「大丈夫?」
と、振り向きながら言うシゲミ。爆音のせいか、ミキホの耳にはシゲミの声と、自身の心臓の鼓動しか聞こえなくなっていた。正門前の車道を走るバイクのエンジン音も、マメオの呼吸音も聞こえない。
「マメオくんは急所を外れたみたいね。すぐに病院に連れて行って。この男の人の死体は、私のほうで始末するから」
シゲミはジャケットの左ポケットからスマートフォンを取り出した。誰かに電話をかけようとしている。
うるさいほど鼓動する心臓。その音を遮り、シゲミが電話をかけるのを邪魔するように、「あのぉ!」と、ミキホは大きな声で口にした。
「ば、爆弾魔 シゲミ……お前は一体……」
「これが私の《《仕事》》。先生や他の生徒には内緒ね。お互いに」
そう言うとシゲミは、スマートフォンを左耳に当てた。ついにミキホの耳には、シゲミの声も聞こえなくなる。ただ心臓だけが、これまでにないほど爆音でビートを刻み続けた。