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赫刃  作者: あああ
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第3章 第18話(仮題): 『名を奪う者、名を贈られぬ者』

第一節:語られざる“刃の余韻”



――夜が明けた。だが、光はまだ届いていない。


王都レグリアに吹く風は静かで、

構文庁中枢塔の塔身を撫でるようにして滑っていく。


澪は、赫刃を背負ったまま、

ただそこに“いるだけ”の存在として、石畳の階に立っていた。


虚の精霊はその影にとけ、まるで“影そのものが語る者”のように、

彼女の内側にゆっくりと潜り込む。


「斬らなかっただけで、誰かを救えたと思ってはいけません」


「……分かってる。斬らなかったことが、“名を生んでしまった”」


「新たな存在が、赫刃ではなく、“赫刃を拒絶された空間”から芽吹いた」


「それも、私のせい」


「――それを“責任”と呼ぶなら、あなたはもう斬らないという意志を“構文化”しなければならない」


「斬らず、語らず、そして“定義しない”ことで、世界に踏み込んだ責任……」


「そのすべてを“赫刃以外の方法”で背負う覚悟が、問われます」


沈黙。


そしてその沈黙を、別の足音が破る。



“名を持たぬ者”が、再び澪の前に姿を現す。


それはヴァシュではなかった。

模倣赫刃ではない。

赫刃に斬られたことも、模したこともない――


**“何者にも定義されないまま、生まれた存在”**だった。


少女の姿をしている。

だが年齢や性別すら、記録に刻まれていない。


彼女は、澪に向かって言葉ではなく“存在の波動”で語りかける。


「あなたは“斬らない”と決めた。

だから私は、“語らないことによって存在する”」


それは赫刃が拒んだ結果、世界の片隅で“発芽”した語られざる構文体。

名を持たず、目的もなく、ただ“斬られなかった”という記憶だけを持つ。


「私の存在は、“赫刃の沈黙”そのもの。

だから、あなたに触れて確かめたい。

赫刃の沈黙は――私を消すのか、それとも存在として認めてくれるのか」


澪は、その言葉にならぬ呼びかけに対し、

ただ静かに言った。


「……あなたに名はない。

けれど、“私が名を与えることもない”」


「なぜ?」


「名を与えることは、“斬ること”と同じ。

あなたが“名の外にいる者”として存在し続けるなら、私はそれを、ただ見届ける」


少女は、少しだけ笑った。


その微笑は、どこか澪に似ていた。


少女の微笑は短く、それは“言葉”にならなかった。

ただ、赫刃を持たぬ澪と、赫刃の余韻に生まれた少女――

ふたりの“無言”が重なることで、構文的に成立してしまう奇妙な静寂だけがあった。


「あなたの沈黙が、私に意味を与える」

少女の声なき声が、そう告げる。


「違う。私の沈黙は、“あなたの存在に意味を与えないこと”」

澪は断言するように言う。


「だからこそ、“意味が残ったままでも、斬られずに在る”ことができる。

私がそれを定義した時点で、あなたは“誰か”になってしまう。

でも私は――“誰でもないあなた”のまま、共に立ちたい」


少女の影が揺れる。

まるでその言葉を“承認”として受け取ったように、影が構文の形を変えた。


そのとき。


虚の精霊が澪の足元で反応する。

そして澪の右手に、一枚の“白い構文封”がふわりと浮かび上がった。



【構文庁上層局より通達】

【対象:澪=クローデル】

【召喚理由:構文安定協力依頼(表面)】

【内実:第六観測圏における非定義震動体の出所調査】

【付記:無応答時は強制照応の可能性あり】



澪はそれを見つめ、かすかに息を吐く。


「……来たか。

名を与えないで守ることが、こうして“監視対象になる”」


少女は何も言わなかった。

けれどその眼差しには、“行くのか”という問いが確かに宿っていた。


澪は頷いた。


「私が守ろうとしているのは、あなたじゃない。

“名の外に存在しようとする自由”そのもの。

だから私は行く。構文庁の中枢に、その選択を突きつけに」


少女は、もう一度笑った。

今度は、前より少し、確かに温かい微笑だった。


そして、彼女の影は澪の影に一瞬だけ重なり――

何も言わず、どこかへと消えていった。



【第一節:完】


第二節


召喚の回廊、語られぬ構文権限



静かだった。

静かすぎるほどだった。


王立魔導学府から伸びる“封鎖通路”――

構文庁中央塔へと至る回廊の一角に、澪はひとり立っていた。


周囲には、誰もいない。


見張りすら置かれず、ただ構文封鎖術式だけが空気を鎖す。

音も霊素も、ここでは通らない。

言葉すら、呼吸すら、存在を明示しない限り記録されない“死の回廊”。


だが澪は、怖じなかった。


ただ足元に落ちた影だけを確かめるように、一歩、一歩――

自らの意志で進んでいった。



虚の精霊が、声を持たぬままささやく。


「この場所は、“選別の間”……構文庁が正式な対話に値すると認めた者しか通過できない」


「……対話、か。

都合よく“許可”された定義しか、許されないのだろうけど」


澪の言葉は冷たくもなく、ただ静かだった。


赫刃を帯びている。

だが、抜かない。

彼女は赫刃を抜かないまま、

“構文庁という、世界記録を管理する組織”と向き合おうとしている。


構文封鎖術式の流れを、肌で感じる。

無数の定義線が、彼女の周囲を擦過していく。


――“澪=クローデル”

――“赫刃の保持者”

――“世界構文の危険因子”


空間が、彼女をそう分類しようとする。

だが澪は、微動だにしない。


「分類されること自体が、もう無意味」


小さく呟いたその言葉さえ、構文庁の記録には乗らなかった。


斬らない者。

定義しない者。

沈黙する者。


今、澪は――

“存在そのものを、記録不能に変え始めていた”。



やがて、回廊の先に“扉”が見えた。


それは重厚な魔術門ではなかった。

ただ銀糸で編まれた、透明な薄膜。


「“語られない権限者”だけが、この先に進める」


虚の精霊が、影のなかで告げる。


澪は躊躇わなかった。

一歩踏み出す。

その瞬間、扉が――音もなく消えた。



【召喚の間】


そこは、空間そのものが“意味”でできている場所だった。


天井も、壁もない。

ただ存在しているだけの、透明な座標。


中央には、四人。


・構文庁長官――カイゼル=ローヴェル

・禁構文対策局局長――サフィール=エンヴィル

・記録照応局局長――ミリエル=エスティン

・独立監察官――レオノーラ=ブライヴ


いずれも、“澪に直接触れることを許された権限持ち”だった。


その視線が、澪一人に集まる。


だが澪は、怯まなかった。


虚の精霊が、彼女の背に影のように滲む。


「斬らない者よ。

我々は、あなたに問うためにここに在る」


カイゼル長官が、言葉を紡いだ。


その声は柔らかく、だが冷徹だった。


カイゼル長官の声は、空間に響くのではない。

澪の存在圧そのものに触れるようにして、じわりと滲んだ。


「斬らぬ者よ。

なぜ、斬らぬ?」


その問いに、形式も礼儀もなかった。

ただ、“構文の核”から直撃するような重みだった。


澪は静かに答える。


「――斬らないことが、世界にとって最も残酷だとしても。

私は、それを選ぶ」


声は小さかった。

だが、その小さな声が、構文空間に深く浸透していく。


サフィール局長が続ける。


「斬らぬことは、未定義領域を拡張する。

未定義領域の拡張は、構文崩壊を招く。

ならば、なぜ?」


澪は、目を閉じた。


虚が、彼女の背で静かに寄り添う。


そして、澪は答えた。


「……私が斬れば、すべてが“形”になってしまうから。

意味が与えられ、記録に組み込まれ、誰かの所有物になってしまう。

私は、それを許さない」


ミリエル局長の表情がわずかに動く。


だが彼女は何も言わなかった。

代わりに、透明な構文記録球を浮かべた。


そこには、膨大な未定義構文震動――

澪が斬らなかったために生まれた、“無名の震え”が映し出されていた。


レオノーラ監察官が囁くように言う。


「これをどうするつもりだ?」


「放っておく」


「放っておけば、いずれ誰かが“斬る”ぞ」


「なら、私が――斬らないまま、見届ける」


澪の言葉に、構文空間がわずかに震えた。


定義しないという選択。

斬らないという覚悟。

語らないという意志。


それらすべてが、

澪をただの“赫刃の保持者”ではなく――


“赫刃を斬らずに抱く者”


へと変え始めていた。



カイゼル長官は、しばし沈黙した。


その沈黙は、ただの間ではなかった。

構文庁全体を統括する存在として、

“世界の記録管理権限”を持つ者として――

彼は本当に考えていた。


この少女を、どう扱うべきか。


この赫刃を、どう封じるべきか。


いや――

この“斬らない赫刃”を、どう許容するべきか。


そして彼は、極めて短く、だが決定的な言葉を口にした。


「……よかろう。

斬らず、語らず、ただ在れ。

ただし、“存在を誇示しない限り”においてだ」


澪は、わずかに頷いた。


「私は、私で在る。

誇る必要も、否定する必要もない」


カイゼルはそれ以上言わなかった。

だが、その背後にあるすべての構文庁の意思が、

澪を――

そして澪が背負う赫刃を――

“危険であるが故に、観測し続ける対象”として認識した瞬間だった。



そして、

召喚の間に一枚の構文紋章が浮かぶ。


【暫定的観測対象:澪=クローデル】

【定義:未確定/構文照応不可】

【監視優先順位:第一階層】


澪は、それを無言で受け取った。


彼女が何も言わなかったからこそ、

その場の誰よりも、澪の存在は重かった。


赫刃は眠ったまま。

だが、赫刃の本質は、

ますます強く、世界の構文核へと浸透していった。



【第二節:中盤完了】


第三節


構文に刻まれぬ者たち(第一部:夜明けに生まれた震え)



夜が、まだ完全には明けきっていなかった。


東の空にはかすかな白みが漂い始めている。

だが、王都の石畳には、まだ夜の名残が濃く貼り付いていた。


澪は、静かにその中を歩いていた。


召喚の間を退出し、構文庁中央塔を後にして、

彼女はただ――

「まだ斬らぬ者」として、

自らの影と対話しながら歩いていた。


影は長く、薄く、剥がれかけた構文膜に沿って伸びていた。


虚の精霊は、形を持たないまま、

澪の背に寄り添っている。


沈黙は、言葉よりも重かった。



澪は考えていた。


なぜ、自分は斬らないのか。

なぜ、赫刃を抜かないのか。

なぜ、世界の側はそれを恐れながら、許したのか。


それらの問いは、澪の内部で何度も形を変え、

答えになりかけては、霧散していった。


それは単なる意思ではなかった。


世界が、“斬らぬ赫刃”という存在を認めた瞬間から、

澪自身もまた、世界構文の一部ではなくなりつつあったのだ。



道端に咲く一輪の花。

名もない小さな白花。


誰にも名づけられず、誰にも見向きされず、

ただ存在するだけのそれが、

澪には、自分と同じに思えた。


澪は足を止める。

しゃがみ込むことなく、ただ、立ったまま、花を見下ろす。


「君も、名を持たない」


小さく呟いたその言葉に、虚の精霊が静かに応じる。


「存在するだけで、十分。

名がなくても、意味がなくても、それはそれだけで“在る”のです」


「……それでも」


澪は目を伏せる。


「人は、名を求める。

名を与えられることで、存在を確かめようとする」


「だからこそ、赫刃が恐れられるのです。

名を斬ることで、“存在の手綱”を断ち切ってしまうから」


赫刃は今、眠っている。

だが、それでも世界は、

澪が赫刃を抜くことを――斬ることを――密かに期待している。


澪の意志を、誰も信じてはいない。


斬らないと誓った澪すら、

いつか“存在の重みに押し潰されて”斬ってしまうのではないか――

それを、恐れているのだ。


そしてそれは、

澪自身もまた、密かに恐れていることだった。


第二部:世界の揺れ始めた構文



澪が一歩進むたびに、

空気がわずかにきしんだ。


それは音ではない。

霊素の擦過でもない。

目に見える現象ではない。


だが、確かに世界の“記録面”が震えていた。


――存在圧の波。


澪が存在するだけで、

澪が赫刃を抜かないまま在るだけで、

世界構文は微細に“座標のズレ”を起こす。


本来、存在とは座標によって保持されるものだ。

「どこにいる」「誰である」「何を成すか」という定義。


だが澪は、いまそのどれにも“座標を与えられていない”。


だから、澪が在るだけで――

世界の座標網に、極めて小さな“未定義震動”が発生する。



構文庁第七観測局――


若き術士たちが、記録端末を見つめながら息を呑んだ。


「また……座標線にズレが」


「対象は……澪=クローデル、で間違いないか?」


「間違いない。……だが、以前のような単なる赫刃震動ではない。

存在そのものが、構文座標から半歩だけずれている……」


震えた声で、主任術士が呟く。


「……これは、“定義されない存在”への移行兆候だ」


局内が凍りつく。


定義されない存在――

それは、かつて禁構文封印局が何度も試み、

そして失敗し続けた“禁断の現象”だった。


存在は定義されなければ、座標を持てない。

座標を持たない存在は、記録されない。

記録されない存在は、観測できず、制御できず、

やがて世界構文そのものを“歪ませる”。


澪は今――

知らぬ間に、存在そのものが、世界の構文核から半歩ずれ始めていた。


それは、斬らぬ赫刃が、

ただの武器ではなく、

ただの封印でもなく、

“存在の概念そのものを問う存在”に変わりつつある証だった。



澪は、知らなかった。


自分の歩みが、

自分の在り方が、

これほど世界に波紋を投げかけていることを。


ただ、彼女は歩き続けていた。


名を与えない。

斬らない。

定義しない。


その三つだけを胸に、

澪は、誰にも届かぬ赫色の静寂を纏いながら、

まだ夜の名残を踏みしめていた。


澪が歩みを進めるたびに、

目には見えない“重さ”が世界に生まれた。


それは誰の手によるものでもない。

世界そのものが、彼女に焦点を合わせ始めていた。


澪が呼び寄せたのではない。

澪が求めたのでもない。


ただ、“存在を定義しない”という、

極めて静かな反逆――

その選択そのものが、周囲に小さな波紋を広げ続けた。



構文庁観測局 第四解析室。


術士たちは、黙々とデータを確認していた。


「対象は、未定義震動体ではない。

あくまで“定義保留存在”だ」


主任術士の声は冷静だったが、

その背中には、隠しきれない緊張が滲んでいた。


「だが、問題はその範囲だ。

座標震動が、観測可能領域を越え始めている」


「つまり?」


「つまり、“澪=クローデル”の存在圧に共鳴して、

周囲の未定義震動が連鎖している可能性がある」


局内に、ざわめきが広がる。


もし、それが本当なら――


澪は、赫刃を抜かずとも、

ただ在るだけで、世界に“名の外側”を拡張してしまう。


それは、“言葉にならぬ暴走”。

誰も意図せず、誰も望まず、

ただ存在するだけで“秩序の境界”を溶かしていく現象。


そして、何よりも恐ろしいのは――

その中心にいる澪自身が、それに気づいていないことだった。



王都地下区、記録監察棟。


独立監察官レオノーラ=ブライヴは、

沈黙のまま、澪の観測ログを見つめていた。


「このままでは、遅かれ早かれ――」


隣に立つ補佐官が、口を開きかけた瞬間、

レオノーラは静かに手を挙げた。


「……まだ、動くな」


「しかし……!」


「今、あの少女に“名”を与えれば、

それは赫刃が斬るよりも残酷な“強制定義”になる」


「なら、どうするんですか……?」


レオノーラは、淡い銀色の瞳を細めた。


「――観るだけだ。

赫刃が斬らなかったように、

私たちも、“定義せずに見届ける”しかない」


補佐官は、震える指先を握りしめた。


世界が震え始めている。

澪が意図せずに踏み出した一歩が、

誰も止められない連鎖を呼び起こしている。


だが、

それでも彼女は、何も変わらない。


赫刃を抜かず、

ただ“斬らずに在る”という選択を、

誰に知られることもなく、静かに貫こうとしていた。



澪は、空を見上げた。


曇りかけた東の空。

そこに、朝日はまだ差し込まない。


けれど、薄明のなかで、

微かに“赫色”のような光が滲んでいる。


澪は、そっと目を細めた。


「……まだ、斬らない」


自らに言い聞かせるように、

あるいは、赫刃に誓うように。


「名を与えず、語らず、ただ在る。

それが、今の私にできる、唯一の……」


言葉を紡ぎかけて、澪は黙った。


言葉すら、

今は不要だった。


ただ、存在するだけでいい。


赫刃を抜かずに、

赫刃を使わずに、

それでも、赫刃と共に――


世界に、赫色の静寂を、

たったひとりで、

刻み続けるだけだった。



【第二部:完】


第三部:構文に刻まれぬ者たちの目覚め



静寂だった。


それでも、世界の深部――

誰も踏み入れたことのない層では、確かに波紋が広がり始めていた。


澪が斬らずに在った。

そのただ一点の事実だけが、

記録されぬまま、構文の裏層に“芽吹き”をもたらしていた。


名を与えられなかった者たち。

名を奪われた者たち。

名を拒んだ者たち。


彼らが、世界の各地で、静かに目を覚まし始める。



【ザレク帝国・第七封印区域】


闇のなか。

かつて禁構文実験の失敗によって生まれた、定義不能区域。


そこに、少年がいた。


裸足。

服も名前もない。

記録にも存在しない。


彼は、赫刃の震えを知らない。

澪の存在も知らない。


けれど――

澪が赫刃を抜かなかった、その選択だけが、

この少年に奇跡的な“存在の座標”を与えた。


誰にも観測されず、誰にも定義されず、

それでも彼は、生きている。


震える手を空へ伸ばす。


「……まだ、ここに……在る」


か細い声が、霧に溶けた。


彼の存在を証明する者は、誰もいない。

だが、それでも確かに、

この世界に“名を持たぬ者”として存在している。


赫刃が斬らなかったことで生まれた、新たな“未定義の光”。



【旧神聖連邦・第四外縁地帯】


かつて宗教国家連合が支配していた廃墟。


その瓦礫のなかで、

少女がひとり、座っていた。


名を持たない。

教団に捨てられ、誰にも記録されなかった子。


彼女は、赫刃を知らない。

澪の存在も知らない。


だが、

澪が「斬らない」ことを選んだその夜――


彼女の心のなかに、微かに“在りたい”という光が灯った。


名前ではない。

立場でもない。


ただ、「ここにいたい」という――

存在の、最も素朴な祈り。


少女は、静かに立ち上がった。


足元には、誰にも見えない赫色の影。


澪が選んだ赫刃の静寂が、

彼女に“立ち上がる自由”を与えていた。



【フォルシア商会連合領・第六孤島】


貿易都市群の裏側。

捨てられた孤児たちの隠れ里。


そこに、青年がいた。


彼は一度、名を与えられた。

だが、その名を否定され、奪われた。


今、彼には名がない。

生きる理由すらない。


それでも。


彼の胸の奥で、微かに震える赫色の感覚。


誰にも斬られず、誰にも定義されず、

それでも世界に“触れたい”と願う心だけが、

かすかな熱となって彼を支えていた。


「……名は、要らない。

ただ、生きる」


彼は、赫刃のことなど知らない。

だが、澪が斬らなかったことで、

世界が許した“存在の余白”のなかで、

彼は静かに生まれ直していた。



そして――


澪は、まだ知らなかった。


自分が、

斬らなかっただけで、

語らなかっただけで、


どれほどの者たちに、

「存在してもいい」という希望を与えてしまったのかを。


彼女が踏み出す一歩一歩の裏で、

世界のあちこちで、

名を持たぬ光たちが、

そっと、目を開き始めていた。


まだ弱く、まだ脆い、

だが確かに“赫色に似た命”たちが。



【第三部:完】


第四部:赫刃、斬らぬ未来の輪郭



夜明けは、まだ来ない。


いや――

澪の世界には、もう「夜明け」という概念すら曖昧になりつつあった。


歩き続ける。

名を与えず、語らず、斬らず。

ただ存在だけを手にして。


その道は、誰にも祝福されない。

誰にも称えられない。

むしろ、誤解され、恐れられ、排除される未来しかないかもしれない。


それでも――


赫刃を抜かず、

赫刃を使わず、

赫刃と共に、“存在を定義しない”という選択を抱きしめた。


その意味を、澪は静かに噛み締めていた。



風が吹く。


かすかな、世界の底から這い上がるような風。


霊素ではない。

構文の揺れでもない。


それは、

澪に触れようとする、

無数の“名なき存在たち”の無言の波だった。


彼らは澪を知らない。

赫刃を知らない。

ただ、澪が「斬らなかった」ことだけが、

確かに彼らに“在る自由”を与えた。


澪は、それを知ってしまった。


歩みを止めない。

赫刃に触れない。


ただ、自分自身の存在を、

そのまま世界に溶かしていく。



虚の精霊が、影からそっと囁いた。


「斬らないことは、存在の責任を無限に拡張すること。

あなたはこれから、斬る者以上に重いものを背負うでしょう」


「……分かってる」


澪は呟いた。


「私は、“定義を斬る者”ではない。

私は、“存在を許す者”でもない」


「私は、ただ――」


赫刃を見下ろす。


赫色の光は、まだ沈黙している。

だが、その沈黙こそが、赫刃の新たな在り方だった。


「――斬らずに、ここに在る」


赫刃は、応えなかった。


だが、その無言の沈黙が、

澪の選択を、そっと肯定しているように思えた。



澪は、静かに拳を握る。


赫刃を抜くためではない。

誰かを斬るためでもない。


ただ、自分自身が、

この世界に名を持たずに存在し続けるために。


そして、

誰かが名を持たずに生きていける未来を、

誰にも斬らせないために。


赫刃は、眠ったままだった。


だが、赫刃の核の深層では、

新たな構文震動が、かすかに生まれつつあった。


それは、斬るためのものではない。

奪うためでもない。


――存在を許すための赫色。


澪は、未来を見たわけではない。


けれど、確かに感じていた。


まだ誰にも語られていない未来。

まだ誰にも斬られていない未来。

まだ誰にも定義されていない未来。


それが、自分たちのすぐ傍にあることを。



赫刃を抜かない。

斬らない。

語らない。


それでもなお、

赫刃と共に、澪は歩き続ける。


名を持たぬ光たちと共に、

語られぬ未来を生きるために。


そして、

誰よりも静かに、誰よりも確かに、

この世界に“赫色の未来”を刻み続けるために。



【第三節:完】


第四節


赫色の祈り、誰にも触れず



夜明けは、まだ遠い。


けれど、

それでも、世界のあちこちで、

小さな光が生まれ始めていた。


それは、誰にも知られない祈り。


それは、誰にも触れられない誓い。


それは、赫色の静寂のなかで、

密やかに灯る、名を持たぬ希望だった。



【ザレク帝国・辺境第七区】


倒壊した構文塔の影。

名を持たぬ少年が、空を見上げていた。


彼は何も知らない。

赫刃の名も、澪の名も。

それでも、

世界のどこかで、自分が許されていることを、

肌で感じていた。


言葉はない。

祈りもない。


ただ、存在するだけ。


だが、それだけで――

彼のなかには、赫色に似た小さな光が生まれていた。


「……ありがとう」


かすかな声が、風に溶けた。


誰にも届かない。

だが、それでよかった。


それは、赫刃にも、澪にも、直接届かなくてよかった。


ただ、在る。

ただ、生きる。


それこそが、赫色の祈りだった。



【旧神聖連邦・崩れた聖堂跡】


少女が、壊れた石柱に凭れ、目を閉じていた。


かつて、彼女は“救い”を求めた。

名を与えられることで、自分が何者かになれると信じて。


だが、今は違った。


誰にも名を与えられず、

誰にも定義されず、

ただこの世界の片隅で、

静かに息をしているだけでいい。


少女はそっと、胸に手を当てた。


赫刃を知らない。

澪を知らない。


それでも、

世界のどこかで“斬らぬ選択”がなされたことだけを、

心の奥で確かに感じ取っていた。


「ありがとう」


誰にともなく、呟く。


それは祈りではなかった。

それは願いでもなかった。


それはただ、

存在することを許された者だけが持つ、

密やかな感謝だった。



【王都レグリア・路地裏】


名を失った青年が、

朽ちた壁にもたれかかりながら、

夜空を見上げていた。


街の灯りは遠い。

誰も彼を見つけない。

誰も彼に気づかない。


だが、彼のなかで、

赫色の光が微かに揺れていた。


彼は知っている。


この世界に、まだ“斬らない者”がいることを。


この世界に、まだ“名を与えない選択”があることを。


だから、彼は立ち上がる。


声を上げることなく。

名を叫ぶことなく。


ただ、自分自身を肯定するために。


ただ、生きるために。


そして、

誰にも触れられない赫色の祈りを、

そっと心に灯しながら。



澪は、知らなかった。


彼女が選び取った“斬らぬ未来”が、

これほど多くの名もなき者たちに、

小さな命の火を灯していることを。


赫刃は、まだ眠っている。

澪も、まだ語らない。


だが、世界はもう、

静かに、確かに、変わり始めていた。


名を持たない光たちが、

赫色の祈りを胸に、

誰にも触れられることなく、

誰にも奪われることなく――


それでも、確かに生きようとしていた。



赫刃は、何も語らない。


澪も、何も斬らない。


だが、

語らぬ祈りは、確かに赫色に染まりながら、

世界の深奥へと、そっと、静かに滲み渡っていく。


誰にも触れず。

誰にも壊されず。


ただ、赫色の未来を――

まだ名づけられぬ未来を――

静かに、育てながら。



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