【第1章 第5話:愛の始まり、違和感の芽吹き】
嬰児として生を受けてから、澪は一度も哭かなかった。
そして今も、笑わなかった。
“あの日”に見せたあの一度きりの微笑を除いては――
それは、式典のための作られた笑みではなかった。
ただ、反射的な筋肉の動きだったのかもしれない。
だが、人々はそれを「愛されるための表情」だと錯覚した。
それ以降、澪の周囲には、“愛”が集まるようになった。
誰もが彼女を崇め、触れたがり、声をかけ、与えようとした。
何も欲していない澪に、惜しみなく愛情を注いだ。
――与え続けるという狂気。
澪は、徐々にそれに“薄い拒否感”を抱くようになっていた。
*
ある夜。
彼女が生まれて半年、言葉もままならない頃。
澪は乳母に抱かれながら、寝室の窓から月を見ていた。
赤と白、二つの月が夜空に浮かぶこの国の夜は、常にどこか非現実的だ。
「……澪さまは、本当にお美しい……」
「神の加護が、ずっと降っておられますね……」
乳母の手が震えていた。
愛していた。恐れていた。崇拝していた。
澪はその全てを、抱かれながら“肌で感じていた”。
澪はそのとき、はじめて“言葉”を話す。
「……なぜ……?」
それは問いだった。
愛の理由を問う、初めての“言葉”だった。
乳母は驚きのあまり、言葉を失い、そして――泣き崩れた。
「……澪さま……! お言葉を……お言葉を……!」
澪は、その光景をじっと見つめていた。
そこに愛はあった。だが、そこに“理解”はなかった。
その夜、澪は夢を見た。
赫刃の映像。
血塗れの世界。
名を持たぬ者たちが、自分の前にひれ伏し、消えていく。
その夢の中で、澪は初めて“名前を持たぬ誰か”に問いかけていた。
「私を、なぜ、好きになるの?」
返事はなかった。
だが、赫刃が静かに光を発した。
それは、彼女が“刃”として愛されている証だった。
――それは、違う。
――私は、誰かのために斬るために、生まれてきたのではない。
次の日、澪は父と母の前で、静かにこう言った。
「愛されるのは、疲れるの」
それは、年端もいかぬ少女の言葉ではなかった。
けれど、確かに“彼女”の言葉だった。
両親は微笑んで頷いた。
「それでも、私たちは愛しているよ」と。
澪は、何も返さなかった。
ただ、赫刃の鞘に小さな手を触れ、こう呟いた。
「いつか、全部、斬らなきゃいけない日がくる」
それが、彼女の中に生まれた最初の“確信”だった。