【第1章 第2話:無垢なる異質】
――あの子は、笑わなかった。
そして、哭かなかった。
だがそれでも、全ての者は“涙を流した”。
*
「嬰児は、元気です。……ですが……」
公爵ロジオン=クローデルの前で、医師は言葉を詰まらせた。
彼は、誰よりも論理的で、誰よりも冷静な男だった。
戦場でも政争でも、“誤算”を許さないその目が、今だけは揺れていた。
「……だが、何だ?」
「彼女は……彼女の周囲の空気が、妙なのです。魔力反応でも、気圧でも、ない。
“意味”がねじれているとでも申しましょうか……言葉で説明できるものでは……」
「意味が、ねじれている……?」
ロジオンは窓の外を見やった。
夜が明けるその瞬間、空に浮かんでいたのは、紅く染まった二つの月だった。
通常あり得ない、天文現象。
それは彼にひとつの予感を与えた。
“我が家に生まれた娘は、この世界の定義そのものを歪める存在になる”
そして――
ロジオンは静かに口元をほころばせた。
「……ならば面白い。世界がねじれるなら、それをねじ伏せればいい。
我が娘が“異物”と呼ばれようと、私は誇るだろう。この家の、唯一無二の令嬢としてな」
その夜、クローデル家では盛大な祝賀が行われた。
各地の貴族たち、魔導院の代表、さらには王家の使者までが招かれた。
だが、客人の誰もが彼女を前にして口を閉ざす。
黒き髪。赤き瞳。
まるで“世界の終わり”が笑っているかのような――静けさ。
嬰児は、誰にも泣き声を聞かせないまま、ただ目を開いて、世界を見ていた。
見るだけで、“見られた者の心”がざわつく。
まるで己の罪を見透かされたような、不快と畏れが入り混じる沈黙。
それでも、母リアーネだけは、彼女を抱きしめながら微笑んだ。
「澪……この子の名を、澪にしましょう。
流れの中に咲く、小さな花のように。静かで、美しく、凛として」
その瞬間、赫刃が“かすかに震えた”。
名前。
定義。
言葉。
それらを斬るために生まれた刃が、“名づけ”に反応したのだ。
澪――
彼女はこの名を受け入れたわけではなかった。
だが、それでも。
瞳の奥で、ほんのわずかに何かが揺れた。
感情か、記憶か、あるいは“遠い過去”の残響か。
何もかもがわからないまま、ただその夜、ひとつだけ確かなことがあった。
――その場にいた全員が、彼女を“忘れられなくなった”ということだ。
彼女の姿は、声は、氣配は――何一つ変哲のない嬰児のはずなのに。
瞳に焼きついた“赫ノ嬰児”の姿だけが、いつまでも脳裏を離れなかった。
「……愛さずには、いられない」
そう、誰もが口にした。
けれど。
その愛こそが、澪を蝕んでいくのだと――
このとき、まだ誰も知らなかった。