【第1章 第1話:赫刃の声、赫ノ嬰児】
――すべての始まりは、哭き声すらも拒んだ誕生からだった。
王都セレフェリカから西に三十里、貴族領〈リグ=クローデル〉の城にて、深紅の月が空を照らす夜。
一人の嬰児がこの世に生を受けた。
だが、その産声は――なかった。
「……哭かない……?」
助産婦が凍りついたように手を止める。
産声のない赤子は不吉とされるこの世界で、それは“死産”か“異端”かのどちらかを意味していた。
だが、嬰児は生きていた。
むしろ、しっかりと目を開け――母親の顔を、じっと見つめていた。
「なんて……澄んだ瞳……」
母リアーネは、その瞳に何か“理解されている”ような感覚を覚え、震える指で娘を抱き寄せる。
だが同時に、部屋の空気が微かに歪んでいたことに誰も気づかなかった。
産声の代わりに響いたのは、“金属のような音”。
――ギィン、と、地の底から鳴ったような、異様な共鳴。
それは嬰児と共に生まれた“異物”――
母胎から引き出された際、血に濡れたまま佇んでいた、一振りの“刀”だった。
その長さ、二尺八寸。刃は濁った朱、鞘は漆黒。
誰も手を触れていないのに、室内にうっすらと紅霧が漂っていた。
「そ、それは……何だ……?」
取り上げた医師が、ただ一言。
「これは……神のものだ」
違う。
神のものではない。
この刀は、“神すらも断ち切るために存在している”。
名を――
赫刃・無明
その刀が、嬰児の目と――共鳴した。
嬰児は、それまで動かなかった唇をわずかに開く。
まるで何かを――いや、“誰か”を思い出そうとするかのように。
「……ナ……まえ……」
言葉にならない声が、確かに耳の奥に響いた。
次の瞬間、助産婦が悲鳴を上げた。
「う、腕が……腕が動かない……!」
空気が重い。
刃の周囲から、何かが“存在を否定する力”として広がっている。
だが嬰児――彼女だけは、まるでそれが“当たり前”であるかのように、平然と瞬きをした。
その髪は、闇よりも黒く。
その瞳は、血よりも赤く。
名はまだない。
だが、彼女は――
この世界に“定義されてはならないもの”として、生まれ落ちた。
そして赫刃は、静かにその主の誕生を――祝福した。