「幸せを掴む者と掴めない者――その差はどこで生まれるのか?」
静寂の夜、蝋燭の灯が揺れる部屋で、あなたは一冊の本を開く。
そこに広がるのは、計算され尽くした駆け引きと、誰もが恐れる影の名。
この物語に「正しさ」はない。
強者がすべてを握り、冷たい微笑の裏で運命が動く。
暗闇を見つめる覚悟があるなら、ページをめくるがいい。
……さあ、ゲームを始めよう。
グロモフは呆然と瞬きを繰り返した。
まるで自分の言葉を信じられないかのように。
呼吸が――驚くほど楽になっている。
その声には、畏怖の念すら滲んでいた。
「……俺たちは、本当に……治ったのか、ケイトウ様?」
だが、答えを求めていたわけではない。
ただ、この奇跡を噛み締め、焼き付けるように何度も反芻していた。
隣では、エレーナが父にしがみつきながら、涙を止められずにいた。
嗚咽に震える肩。
けれど、その涙には悲しみはなかった。
あるのはただ――純粋な、溢れんばかりの歓喜。
その感情は、周囲にも広がっていた。
趙麟飛は娘の趙美麗を強く抱きしめ、離そうとしなかった。
まるで、この奇跡が儚く砕け散ることを恐れるかのように。
リュドヴィク・デュポンは息を潜め、
そっとカトリーヌの髪を撫でた。
大和零次郎は、静かにハルコに何かを囁きながら、
そっと額を彼女の頭に寄せていた。
……しかし、フリードリヒ・ヴァイスだけは違った。
彼は、一歩引いた位置に立っていた。
まるで、意図的に自分を他者と隔てるように。
肩は張り詰め、
握りしめた拳は白く強張っていた。
口を開いた。
――が、声にならない。
喉の奥で言葉が詰まり、どうしても出てこない。
だが、その瞳だけは、
氷のような色彩の奥で確かに揺らいでいた。
喜び、
戸惑い、
安堵――
それらを覆い隠そうとするように、いつもの無表情を崩さぬまま、
彼はじっと静かに立ち尽くしていた。
……一方、その息子はというと。
ユルゲンは最初から、壁際の深いソファに沈み込んでいた。
片足を肘掛けに投げ出し、
顔を手のひらに埋め――
――眠っていた。
規則正しい寝息を立てながら、まるでこの場が退屈な芝居にしか見えないと言わんばかりに。
その瞬間、ヴァイスの眉がかすかに動いた。
ほんの僅かな目の痙攣。
それが、彼の胸中に渦巻く苛立ちを物語っていた。
だが――
彼は決して、それを表に出さない。
ただ、静かに息を吐き、息子をじっと見つめた。
ユルゲンは――微動だにしなかった。
この瞬間は、まるで現実とは思えなかった。
誰かが「ストップ」ボタンを押し、時間が凍りついたかのように。
苦しみ、恐怖、絶望に満ちた長い日々は、もう過去のもの。
今、彼らに残されたのは――ただ、幸福を噛みしめることだけだった。
息をすること。
生きること。
そして――共にあること。
ケイトウは黙って、その様子を見ていた。
その瞳には、微かな満足が宿っていたが、
唇は動かない。
まるで石像のように、そこにただ立ち尽くしていた。
まるで、自らの役目を失い、次に何をすべきか分からない番兵のように。
そして――
無言のまま、片手をポケットに突っ込み、
ゆっくりと歩き出した。
歓喜に溺れる人々を尻目に、
彼は、静かに闇へと溶け込んでいく。
「……お待ちください!」
騒がしい声の中、それを切り裂いたのは――ハルコの声だった。
ただ一人、彼の背を見送った彼女は、
反射的に駆け出した。
軽やかな足音が、静まりかけた廊下に響く。
彼女がケイトウを追いついたのは、
巨大な扉の前だった。
「……はぁ、はぁ……」
肩で息をしながら、彼女は顔を伏せた。
「すみません……っ」
小さな声。
「……あの時の言葉……本当に、申し訳ありませんでした……!」
ケイトウは立ち止まった。
だが、すぐには振り向かない。
数秒間、まるで考えるように沈黙し――
やがて、ゆっくりと手を伸ばし、
そっと彼女の肩に触れた。
「気にするな」
低く、静かな声。
そこに、怒りも、責める色もない。
だからこそ、ハルコは――震えた。
怒りよりも恐ろしいのは、
突き放すような、優しい無関心だった。
まるで、すでに全てを決めた後のように。
まるで、争うことすら意味がないと言わんばかりに。
ケイトウは手を離し、一歩前へ進む。
「楽しむのはいいが、出る時は戸締まりを忘れるな」
背を向けたまま、ぼそりと呟く。
「……一緒に食卓を囲むのもやぶさかじゃないが――」
ふっと、微かに笑うように。
「成金どもの群れは、どうにも苦手でね」
その口調は、どこか飄々としていた。
冗談めかしているようで――
けれど、その奥には、
形容しがたい、別の何かが潜んでいた。
「じゃあな」
ひらひらと手を振るような気配。
そして――
彼は、再び闇へと消えた。
暖かな光が揺れる広間。
ようやく彼の不在に気づいた人々が、
戸惑いの表情を浮かべるのを後にして。




