第7話 飼い猫生活
長いものには巻かれろという格言がある。
初めからその言葉に則ろうと思ったわけではないが、成り行きで、ディオスクロイ国第二王子、ジェイランディス・ユマ・イスラ・ディオスクロイのペットになりました。
けれどどうしても、選択を間違えたような気がしてならないのです。
「いつまでこうしていればいいの。」
低く、ぶっきらぼうに、不機嫌さを隠すどころか目一杯前面に押し出して問うが、数刻前と寸分違わぬ返答が頭上から帰ってくる。
「俺が飽きるまでだ。」
私は、本日何度目となるかわからない溜息を、男の膝の上で吐いた。
昨日、不本意ながらこの男の膝の上で眠ってしまった。
目が覚めたときには日はすっかり落ち、重かっただろうに起こさずいてくれた事に対する申し訳なさと、寝顔を晒してしまった恥ずかしさで礼も何も言えなかった。
自室に戻ってから、自分の晒した醜態に明日合わせる顔が無いなんて思っていたのに、執務室へ呼ばれて行ってみれば、笑顔で膝を示された。
嫌がらせかと思った。
が、そういうわけでもないらしい。
嫌々ながらも、私を保護してもらう条件に従うべくジェイの膝に頭を乗せれば、自然と髪に手を伸ばしてくる。
何をされるのかと身構えたが、ただただゆっくりと髪を梳くだけ。拍子抜けだ。
そしてそのまま数刻が過ぎ、会話は冒頭に戻る。
正直、飽きてきた。
ジェイは右手で髪を梳きながら左手で執務を行っているようだが、私といえば寝る事しか出来ない。
そっと身を起こそうとすれば、くいと髪を引いて止められる。
「ねぇ、いい加減飽きてきたんだけど。」
「俺は飽きぬ。そのまま寝ていろ。」
書類に視線を落したままあっさり答えるジェイに嘆息する。
いくらインドアな私でも、一日寝ていることなんて出来ない。
「だったら、何か暇つぶしになるようなもの頂戴よ。そうだ、文字を教えてくれない?あと言葉も。」
本の一冊でも読めればだいぶ暇つぶしになるし、こちらの世界を知る手段ともなる。一石二鳥だ。けれどジェイは即答した。
「駄目だ。」
「何でよ。」
「今は忙しい。」
「別にジェイに教えてくれとは言わない。私が神語を話せることがバレるのを懸念しているなら、教えてくれるのはウィルでもいいし、森に同行していた騎士達でもいいじゃない。」
緘口令は布かれているが、彼らは既に私が神語を話せることを知っている。
ねぇ、と壁にもたれるウィルに同意を求めるが、腕組みをしたままちらりとこちらを見ただけですぐに目を閉じてしまった。どうやらまだジェイが私を側に置くことを嫌がっているようだ。そう思うのも尤もだから何も言わないけれど。
「駄目なの?」
ウィルから返答が得られずジェイを見遣るが、そちらもやはり書類から目を逸らさないまま言った。
「後日手配しよう。」
あ、先延ばしにしやがった。
「だったらせめて、私の本、返してくれない?」
日本から持ち込んだ、というか一緒にこちらへ渡ってきた専門書は、あの日騎士達に拾われて以来帰ってきていない。もしあちらに帰ることが出来るようになったときの為に、なるべくなら手元に置いておきたかった。
「あれは今神殿に預けてある。我慢しろ。」
「解読しようとしているのなら多分無理よ。」
ぴたりとジェイの手が止まった。
「日本語が伝わっているくらいだから読めるだろうけど、中身は理解できないと思う。」
『なんでだよ。』
それまで黙って控えていたウィルが突然割り込んできた。
私の情報を集めようという気持ちは理解できるが、そんな目で見られては言えるものも言えなくなってしまうではないか。あの森から移動する最中、ウィルとはいくつか言葉を交わしたが、まだどこか一線を引かれているような気がする。
(そんな探りを入れなくたって、私だって聞かれればちゃんと答えるのに。)
そう口には出さないまま、とりあえず今問われたことに答える。
「こちらの科学がどれほど進んでいるのか分からないけど、解糖系とかピルビン酸回路とか、言われて分かる?」
ジェイとウィルが視線を交わしたが、互いに知らないと首を振った。
「一応言っておくけど、あの本に魔術とかそんな大層なものが書いてあるわけではないからね。」
『じゃあそのカイトウケイってなんなんだ。』
これはこの分野に興味のある人間でないと面白くないのだが、ウィルの質問から逃れる事は出来ないようだ。
私は専門書の中身を思い出しながら、口を開く。
「生化学反応経路の名称よ。グルコースからATPを生成する代謝過程の事を言うの。」
「「?」」
「人は物を食べるでしょう。だけど、物を食べただけじゃ、生命活動のエネルギーとして使えないのよ。グルコースっていうのは主に穀物とかイモ類に含まれる単糖なんだけど、解糖系はそのグルコースから生体に取り込みやすいATPというものを取り出す過程の事を言うの。そのATPという形になってはじめて、生き物は活動が出来るようになるわけ。」
「人が活動しているのは心臓が動いているからじゃないのか?」
膝に乗せた私を見下ろす青の瞳が瞬いた。その膝の上で仰向けになると、首を振る。
「その心臓を動かす動力がATPよ。何事もエネルギーがないと動かないでしょう。」
ふーん、と生返事をする所を見ると、いまいちピンと来ないらしい。
「例えば馬車があるとする。その馬車を動かすのは何?」
「馬だな。」
「そう。馬車という心臓を動かすのは、馬というエネルギーよ。」
その馬のエネルギーが食物である植物で、その植物は太陽エネルギーで育つから、全てのエネルギーの根源は太陽なんだけど、そこまでは喋らなくてもいいだろう。
「…なるほど。」
ジェイは頷いた。今度はちゃんと理解出来たらしい。
『じゃあ、あの書物の中身は?』
「そういった生体に関する記述がひたすら書いてあるだけ。」
『なんだ、お前医者だったのか?』
少々態度が軟化したウィルの問いに首を振る。
「違う、ただの学生。」
『だったら医者を目指していたとか?』
「それも違う。私の所属は医学部じゃないから。」
『医学部?』
「私の国で、医者を目指す人たちが通う学舎のようなものよ。私は生命現象を解明する研究を主体にした工学部所属。科学者の卵といった所ね。」
『そのようなものを解明してどうする。』
首をかしげるウィルに言う。
「利用するのよ。」
『利用?』
「これはあくまで例えばの話なんだけど、さっきの解糖系の話をすると、ATP生成が多く出来れば、人は長く活動していられると思わない?」
『確かに。』
「長く活動していられれば、仕事をする時間も長くなるし、その分給料は増える。で、その解糖系のメカニズムがわかれば、そのATP生成を薬で助けることが出来るの。どこでどんなふうに何を使ってATPが体内で出来るのか分かれば、それと似た薬を作ってATPをたくさん作れるようになるでしょう。」
『そんなことが出来んのか?』
「実際人が活動し続けたらエネルギーの前に筋肉やら内臓系やらが悲鳴をあげて生命活動どころじゃなくなるし、その前に労働基準法とかいろいろ関係してくるからこの話は破綻しているのだけれど、似たようなことなら出来ないことはない。」
実際ドーピングなんてものもあるのだし。
『お前はその薬を作れるのか?』
「いいえ。それは薬学部の仕事。」
『今度は薬学部か。』
「うん。薬を作ることを専門としている人たちの事よ。私は、あくまで生体のメカニズムを“解明”するだけ。その“解明”したものを薬学部に持って行って薬を作ってもらい、その薬を医者が時と場合を見ながら使用することによって初めて人に影響を及ぼす。」
これも極端な例だけれど、と付け足す。
『ではお前がそういった事象を解明することは出来るのか?』
「無理ね。道具が足りないし、私はまだまだ勉強中の身なの。」
電気も通っていないこの国に、遠心分離機や滅菌機があるとは思えない。例え道具があったとしても、ただの一学生でしかない私の知識では無理だろう。
『ジェイラン、こちらの書物を読ませれば、この国の科学がどれほどかわかるんじゃないか?』
何やら興味をひかれたらしいウィルがそう進言すると、ジェイは諦めたように嘆息した。
「…仕方がない。ウィル、文字を教えてやれ。」
やった!思わぬ収穫に思わず顔が綻んだ。
「ありがとう!じゃあ早速私の部屋でも行く?」
腹筋を使って起き上がると、またくいと髪をひかれた。痛い。
「わざわざ部屋に戻る必要はない。ここでやればいい。」
「だって仕事の邪魔でしょう。」
「お前が居ないとはかどらん。」
「そんなにコレが好きなの?」
これ、と自分の髪をつまんで見せる。
「ああ。絹のような触り心地だ。今までそんな髪に触れたことはない。」
恥ずかしげもなく言いきるジェイに苦笑した。いくら触り心地が良くても、この国の人間はこの色を嫌がる。誰もが触れるのを躊躇うのが普通なのに、彼は躊躇うどころか進んで触りたがる。
なんだかんだ言いながらも、味方が居ないこの世界でそれは大変有難くもある。というか、単純に褒められれば嬉しい。だが今は、この手を離してもらわないことには文字を学べない。
「ウィル、ハサミ持ってる?」
いきなり刃物の名をあげると、ウィルはぎょっとした。
『何に使うんだよ。』
「いや、そんなに好きならあげようかと。そしたら私の身は自由になるし。」
あっけらかんと答えると、ウィルは一瞬バツが悪そうに視線を逸らした。
が、すぐに取り繕うと呆れた声を出す。
『お前、女としてそれはどうなんだ。』
「女じゃなくてペットでしょ?」
「そんなことをしたらお前の髪を切ったやつは死刑だ。」
どこぞの女王みたいなこと言うなよ。振り返ると、ジェイが至極真面目な顔をして私の髪を握りしめていた。抜けるって。禿げたらどうしてくれる。
「死刑って…自分で切ったらどうなるのよ。」
「そんな真似が出来ないように両手を縛って幽閉する。」
今もほぼ幽閉状態じゃないか?と言いかけてやめた。現在、自分の部屋とジェイの部屋、それから執務室しか出入りは許されていないが、自室から出るなと言われたら流石の私も我慢ならない。
(あ、それに私のペットとしての価値が髪にあるなら切れないか。)
まだ文字も何も分からない状態で放り出されるのは困る。
「分かった、じゃあやめとく。」
違うところで納得した私は頷いた。
「でも膝枕されたままじゃ勉強できないから、ジェイはあっち戻って。」
あっち、と一人がけの椅子が設置してある執務机を指さす。それに対しかなり不満そうにジェイは柳眉を寄せた。
「呼ばれたら行くから。この来賓用の机からならそこまで行くのに時間かからないでしょう。」
さっさと立ち上がると、来賓用の机の上に散らばっていた書類をまとめて執務机の上へと移動させた。それにしぶしぶながら納得したジェイは、やっと重い腰を上げて本来居るべき場所へと移動した。
「さて、やりますか!」
服を汚さないように腕をまくると、使いなれない万年筆のようなペンを握った。