第2話 赤月
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―――アォォォン
草木生い茂る森の中、長く尾を引く狼の遠吠えが大気を揺らした。それは、彼らの縄張りに侵入者が入ったことを仲間に知らせるためのものであり、その侵入者とはほぼ間違いなく自分達のことだった。魔が湧くとされる『魔の泉』に足を踏み入れる人間は元々限られている上、魔の活動時間である夜の森に入るなど、ただの自殺行為でしかないからだ。
けれど、馬上の男はそんなことを特に気にした様子もなく、頭上に浮かぶ血を零したような真紅の月を眺めていた。
それに気付いた従者も月を眺め、眉を顰める。
「…不吉ですね。」
「そうか?俺は美しいと思うがな。」
従者の言葉にくっ、と唇の端が上がる。
赤の月は凶兆の前触れ。
普段の白く冴え冴えとした光ではなく、まるで誘うような赤の光は人の心を捕え、惑わすという。
まるで女だ、と馬上の男――ジェイランディスは思う。
その赤い唇で男を誘い、酔わせ、惑わし、金を搾り取る遊女。彼女たちに一体これまで何人の男が喰われたことか。
「珍しく楽しそうだな、ジェイラン。」
ジェイランディスの横で、面白いものでも見るかのように松明を掲げる男の問いに、素直に「あぁ」と頷く。
いつもと変わらぬ魔狩りのはずなのに、今宵は何故こんなにも心が騒ぐのか。
(俺も月に囚われたのやもしれぬ。)
しかしそこに恐れはなかった。
あの美しき月がどのような凶を運ぶのか。
ジェイランディスは期待に胸躍らせた。
そのまましばらく森の中を歩いていると、不意に物音が聞こえ、ジェイランディスは手を挙げ一団を止めた。
その動作に、従者達も耳をそばだてる。
狼とは足音が違う。四足の走り方にしては遅い。
「何でしょうかね。」
「さぁな。」
その場にそぐわぬ笑みを浮かべるただ一人を除いて、一同は緊張しながら前方を見つめた。息を殺し、腰に佩いた剣をいつでも抜けるように構えながら音が近づくのを待つと、草木をかき分け現れたそれに唖然とする。
現れたのは女だった。
だが、女の持つありえぬ色彩に皆言葉を失う。
驚いたように見開く目は黒。
全身ずぶ濡れで、奇妙な衣服に絡みつく長い髪も黒。
それはまさしく魔の色だった。
互いに驚いたまま硬直したが、先に動いたのは女だった。
はっと後ろを振り向くと、もう一度自分達を見、刹那逡巡したのち、自分達を避けるように森の中へと姿を消した。
「見たか、今の。」
「…あぁ。」
松明を掲げる男は、しばし放心したように、だが確実に頷いた。
魔をその身に宿した女。
濡れて妖しげな光を放つ黄色の肌、潤う唇、首に張り付く黒い髪。
それはまるで、羊水に塗れた生まれたての赤子。
ただその瞳だけは涙に濡れることなく、真っすぐ、ただ純粋な驚きをもってこちらを観察していた。ほんの一瞬ではあったが、その黒い瞳に知の色を見た気がする。
魔が人に変化するなど聞いたことはない。
知識を有するなど以ての外。
けれどここは魔の泉。
人の容姿を模った魔が生まれ落ちても不思議はない。
ジェイランディスの心は喜びに震えた。
やっと、やっと…見つけた。
「あれを持って帰るぞ。」
え、という声にならない驚愕を肌で感じたが、松明を持つ男と、無言で馬の手綱を引いていた男だけは冷静だった。
「玩具を見つけたような顔してるぞ。」
「分かっているなら無駄口を叩くな。」
「はいはい。」
「リガロ、先に行け。あの様子じゃ別の魔に追われているだろう。魔は殺せ。女は生きて捕えろ。」
「宜しいので?」
何かを確認するような男の問いに頷く。
「魔などいくらでもいる。また来れば良いだけの話だ。…行け。」
「御意。」
手綱を握っていた男は短く答えると、紺の髪を揺らして音もなく駆けた。
「さて、我々も行くか。」
「え、待たないのか?」
意外なものでも見るような視線を寄越す松明を持った男――ウィルに顔を向ける。ジェイランディスの発言に驚く幼馴染に、悲しみの色を湛えながら言ってやった。
「あんな面白そうなものをただここで待てと?そんなことをすれば俺は女に焦がれるあまり己が身を焼いてしまいそうだ。」
憂いを帯び、銀の睫毛に縁取られた青の瞳を伏せる。そこらの女が見たらほぼ間違いなく卒倒するだろうその美貌を、だが幼馴染は一笑に付した。
「はっ、笑わせる。女なんてただ性欲処理の為の器程度にしか思ってないくせに。」
それには笑むだけにとどめ、残りの従者を振り返る。
「馬は置いていく。二人残れ。日が昇るまでに戻らねば一度森を出て増援を要請しろ。」
「「御意。」」
「行くぞ、ウィル。」
「あいよ。」
暗闇でも異彩を放つ銀の髪を揺らし、ジェイランディスは森の奥へとその身を投じた。