第19話 枷
「つ、疲れた…」
ソファーの上へぐったりと身を投げ出しながら呟いた。
久しぶりの風呂に、調子に乗って長湯しすぎてしまったのだ。
加えて、普段なら髪だけ洗ってもらうはずが(これはエリーの担当)、何故だか目つきがいつもと違う侍女たちによって体の方もそりゃもう綿密に隅々まで洗われてしまった。
「なんか今日のアンは特に気合が入ってたな…」
湯のたてる水音で侍女達の小さな声はかすかにしか聞こえなかったが、時々『未来の奥方』とかなんとか言っていたような気がする。空耳だと思いたい。
うつ伏せになって、左手の指先で毛足の長い絨毯を撫でる。
日本人の性か、室内で靴をはく事を厭う私に気付いたジェイが取り寄せたそれは、ふわふわと羽毛の様な手触りだ。
小さい頃、誕生日に買ってもらったテディベアの毛もこんな手触りだったなとぼんやり考えていると、なんだか瞼が重くなってきた。
体が温まったせいか、己の意思に反して閉じようとする視界を必死に押し上げるが、抗いきれない睡魔にやがて意識を手放した。
何かに髪を梳かれる感覚。
頭の形を辿る様に指を差しこみ、根元から毛先へゆるりと手が動く。
それがしばらく続いたかと思うと、今度は掌に掬っては零し、また掬っては零しと、単調な動作を繰り返す。
時々指に絡め、するりと梳けて落ちるのを見届けると、また髪を梳く。
もどかしげに、努めてゆっくりと手を動かすその所作は、いつもの彼らしくない。
慈しみとはまた違った『何か』を秘めた手つき。
その『何か』がなんなのかは、わからないけれど。
「…起きたのか?」
身じろぐと、上から声が降ってくる。
「ん…ごめん、寝ちゃった。起こしてくれれば良かったのに。」
入浴を終えてエリーにジェイを呼びに行ってもらっている間に眠ってしまったようだ。
いつの間にかベットへと移動させられていた体を起こそうとすると、その端に腰かけていたジェイにやんわりと押しとどめられる。
「そのままでいろ。」
「今は体調に問題ないけど。」
「分かってはいるが、毒が完全に抜けたわけではない。念のためだ。」
横になったまま見上げると、いつものニヒルな笑みとは違った、柔らかい表情で見返された。
「また寝ちゃったらどうするの。」
「別に構わん。」
「でも話があるって」
「急ぎの用ではない。」
「駄目、私が気になる。」
睨みつけると、「わかった」と苦笑された。
「三日前の事を覚えているか?お前が射られた夜、俺に『傍にいる』と言ったこと。」
「…期限付きだけどね。」
やはりあれは夢ではなかったのかと思いながら、肯定の意を示すようにそう言うと、ジェイは途端不機嫌そうに眉根を寄せた。
「それだ。その期限付きというのが気に入らない。」
苛立ちを滲ませながら、ジェイは続ける。
「お前が元の世界に帰るまで、だったか。だがあの夜も言ったが、俺はお前を帰すつもりはない。そもそも何故帰る必要がある?」
先程までの柔らかい笑みとは打って変って、飢えた獣のような目で自分を見つめるジェイに、私は小さく肩を揺らした。
「何故って…向こうが私の世界だからよ。」
そう答えると、ジェイは私から視線をそらせ、自分の右手を見つめた。
「お前の世界と俺の世界。その二つが異なるのであれば、世界というものは数多存在するのかもしれない。その数ある世界の中で、お前は『俺』がいるこの世界へ来た。俺と出会い、視線を交わし、言葉を交わした。だがそれだけでは満たされない。俺は、俺の世界にいる誰でもない、お前というただ一人に触れたい。俺がそうしたいと思うのはお前だけだ。お前はもはや俺という輪の中に組み込まれた。だがお前を失えば、輪は秩序を無くして崩壊する。…瓦解と堕落。そうなれば輪はただの屑だ。」
「待って、何言って」
「塵となって世を巡るもまた良いだろう。だがそこにお前がいなければ、塵と成り果ててまで存在する意味が俺には無い。ならば俺は、俺という存在を保つため、この憎むべき力を使ってでもお前をかの世界へ還すことを拒絶する。お前を傍へ置けるなら、罪を犯すことすらただの甘い遊戯だ。」
「待ってってば、ジェイ!」
うわ言のように言葉を紡ぐジェイに不安を覚え、私は起き上がるとジェイの袖を引っ張った。
「極論にすぎるよ。ちょっと落ち着いて。」
「俺は落ち着いている。その上での判断だ。」
ジェイは振り向くと、両手を伸ばしてきつく私を抱きしめた。
「俺はお前を失えない。」
どくりと、心臓が鳴った。
――駄目、これは駄目だ。
頭の中で誰かの声が木霊する。
ずっと目を背けていた感情。
自分の体を傷つけてまで蓋をしたそれが、いとも簡単に溢れだす。
(駄目。)
今度は意識的に、自分の心の中で繰り返した。
この感情は…枷になる。
「誰だ。」
突然、ジェイは立ち上がると扉に向かってそう言った。
その言葉を待っていたように、きぃ、と扉が開く。
「力で縛って真に彼女を自分のものに出来るなどと、まさか本気で思っているわけではあるまい?」
入ってくるなりそう告げた人物に、私は一瞬息を呑んだ。
短い銀髪に、グレーの瞳。
「王…」
エンゲルブレクト・イレ・ジェナー・ディ・ディオスクロイ。
セルファルカとジェイランディスの父親にしてディオスクロイの最高権力者。
そして、私に矢を射かけるよう命じた張本人が、立っていた。