第18話 回帰
そっと目を開ける。
真っ白でシミ一つない天井を見ながら、あぁ戻ってきたんだと妙な感慨にふける。
なんとなく天井に向かって手を伸ばしてみようとしたが、右手が思うように動かない。
右手、というか、右腕全体に重しが乗っているような感覚だ。
試しに左手を自分の顔の前に持ってきて握ったり開いたりしてみたが、こちらは全く問題ない。
そんなことをしていると、ベットの横で人が動く気配がした。
「ミラ様!」
「あぁショーコ様、やっとお目覚めに!」
「アン、隣室のリガロ様を呼んできて。ミリアはお医者様を!」
「「はい!」」
ばたばたと慌ただしく出ていく侍女たちを目で追うと、すぐ傍らに見慣れた侍女が立った。
「おはようございます、ショーコ様。ご気分は如何でしょうか?」
感極まって今にも溢れそうになる涙を堪えるエリーにわざと気付かないふりをしながら笑みを返した。
「エリー、…ゲホッ。」
「ショーコ様!?」
しばらくせき込むと、心配そうに顔を覗き込むエリーに言う。
「ごめん、喉がかすれて噎せただけ。お水もらえる?」
「はい。」
過剰に反応するエリーを安心させるように明るく言うと、エリーはほっとしたように頷いた。体を起こすのを手伝ってもらいながら壁に背を預け、枕を背中に挟んで座る。
水の入ったコップを受け取ると、少しずつ口に含んで嚥下した。
「あー…なんか久しぶりに口に物を入れた気がする。」
「それはそうです。何せ謁見から三日も眠りっぱなしだったんですから。」
「え…三日?」
私は驚きに目を見開いた。感覚としてはせいぜい一日なのだが。
だったら、あのジェイとの会話はいつの話になるのだろうか。
それともあれも夢?
「失礼します。」
アンに連れられ、リガロが顔を見せた。
「おはようございます。ご気分は。」
無表情のまま、事務的に問うリガロに苦笑しながら答える。
「うん、悪くないよ。でも右腕が上がらない。」
「でしょうね。」
諦めたように溜息をつくリガロに一瞬不安が過った。
「…ねぇ、私の右腕、どうなったの?もう治らない?」
「いいえ。薬さえあれば治ります。ご自分の腕の傷はご覧になりましたか?」
「まだだけど。」
「ならば見てみて下さい。説明するよりその方が早い。」
言われた通り、自由のきく左手で長袖をまくると、ぎょっとした。
包帯の巻かれた患部の下から這い出るような、細長く黒い痣のようなものがある。
「貴女の射られた矢の先に、蛇の毒が塗ってありました。腕が上がらないのはその為です。」
「蛇…」
なるほど、言われてみれば腕を一周するように巻きつく痣は蛇のようにも見える。
「この痣が蛇に見えるから蛇の毒っていうの?それとも使われた毒自体が蛇のものなの?」
「痣の模様にも由来しますが、毒自体は植物から抽出されたものです。しかし、我々がその毒を蛇と呼ぶのには別の理由があります。」
「別の理由って?」
「その毒の用途が、主に拷問に使われる毒なのです。」
拷問…?聞き間違いかと耳を疑ったが、それを否定するようにリガロは続けた。
「今、貴女の体調は射られた当初より回復しているように思われますが、それは日が昇っているうちだけです。夜になれば、また同じ症状が現れます。貴女に使われた毒はかなり薄めてありますが、実際に使用される濃度だと、さらに倍の苦痛が訪れます。それが朝になれば回復し、夜になればまた身を焼くような苦痛が訪れる。その繰り返しです。その毒を身に受けたものはやがて精神を疲弊し、楽になりたいと願う様になる。そこでこう囁くのです。『吐けば楽になれる』、と。」
永久なる苦痛か、痛みからの解放か。
精神を食い荒らされた状態でその二択を迫られどちらを選ぶかなど、火を見るより明らかだ。
「ベルトナートに生存する蛇は大半が夜行性で、夜になると獲物に音もなく近づき、じわじわと絞め殺します。その様が毒の性質に似ていることから、そう名づけられました。」
淡々と語られる言葉に背筋が冷えた。
そんなものを射かけた王は、一体何がしたいというのか。
魔か人か。
そんなもの、拷問などされなくても聞かれればいくらでも答えるというのに。
その前に、正直に話したら射られたのだった。
(一体どうしろっていうのよ。)
こめかみを押さえて呻くと、エリーが気遣わしげな声をあげた。
「ショーコ様、起きてすぐ頭を使われては体に障ります。お食事は取れそうですか?」
「…多分。」
「ではスープをお持ちします。お話の続きはお食事の後でも良いでしょう。」
エリーが確認するようにリガロへ視線をやると、リガロは頷いた。
「少なくとも昼間は私生活に支障はない。今の内になるべく多く食事を取らせるようにしてくれ。俺は殿下方へ報告しに行く。」
「畏まりました。」
リガロは「では」と一言告げると、部屋を出て行った。
入れ替わる様にして現れた初老の医者に脈を測られ、特に問題はないとの診断を受けると、エリーが運んできてくれた食事を食べた。
じんわりと体にしみわたるような温かいスープにほっと息をつくと、コンコンとノックの音が響いた。アンが立ちあがり、扉に寄る。
「はい。」
「私だ。」
アンは、お伺いを立てるように私を見た。頷くと、「どうぞ」と扉を開け、声の主を招き入れる。
私と目があった途端、長い銀髪を今日は後ろで一つにまとめたセルファルカが、大げさに両手を広げて見せた。
「やぁ、やっと目覚めたんだね!待ちくたびれたよ。君に焦がれるあまり食事も喉を通らなかった。」
「その割には顔の色艶は良さそうですが?」
容赦なく切り捨てた物言いをすれば、セルファルカはこれまた大げさに涙をぬぐう素振りをした。
「うわひどっ!それが恋人に対する物言い!?」
「誰が恋人ですか誰が。」
「君と僕に決まっている。」
「貴方の言う『君』が私でない事は確かですね。」
「つれないねぇ。謁見前に熱く愛を誓い合った仲じゃないか。」
「妄想は妄想として腹にためてそのまま墓まで持って行って下さいませんか。迷惑です。」
「………」
「………」
おろおろしているアンと、楽しげにやりとりを見つめるエリーをよそにしばし睨み合うと、どちらからともなく吹き出した。
「ふふっ、元気そうだね。よかった。」
「ありがとうございます。ご心配をおかけしました。」
「全くだ。君をからかう事が出来なくて暇を持て余してしまったよ。おかげで君と私の恋物語が二つも書けてしまった。」
「速やかに焼却処分をお願い致します。」
にこにこと笑いながら言えば、セルファルカも笑みを浮かべながら私の顎に手をかけた。
「お願いはもっと可愛くしないと。ねぇ?」
私はちらりとセルファルカの後ろに視線をやると、にんまりと唇の端を上げた。
「いいですよ。ただし、命が惜しくなければ、ね。」
え、とセルファルカが振り返る前に、ジャキリという音とともに顔の横に鋭く磨かれた刃が添えられた。
「準備は出来た。俺はいつでも良いぞ。」
「ちょっ、と…ジェイ?」
「どうしました?早く硝子に『可愛く』、『お願い』させてみてはいかがです。冥土の土産にそれぐらいなら許しますよ。――その後貴様の骸がどうなろうが俺の知るところではありませんが。」
普段は敬語を使わないはずの弟の冷えきった声音にセルファルカがひくりと頬を引き攣らせた。
それを真正面から見ていた私は思わず笑う。
「ひっどい顔。」
「ミラ、笑ってないで助けてよ。」
「えぇっと、可愛くお願いすればいいんでしたっけ?」
チキリと剣が動く音がして、セルファルカは本気で焦った。
「ミラ!」
「はいはい。ジェイ、止めてあげて。そろそろ可哀想になってきた。」
「ちっ」
舌打ちとともに剣をおさめると、セルファルカは勢いよく後ろを振り返った。
「冗談が過ぎるよジェイ!」
「何を言う。冗談ではない。本気で斬ろうとしたんだ。」
「そんなあっさり…。お前、私の事を兄として見ていないだろう。」
「煩わしい蠅を兄に持った覚えはないが。」
「蠅…!」
セルファルカが本気でショックを受けたようによろけると、ジェイはくすくすと笑った。
その笑みに、セルファルカは信じられないものでも見たようにぴたりと動きを止めた。
「お前今、笑…?」
セルファルカの言葉を無視すると、ジェイが私の傍へと寄った。
「おはよう、硝子。」
そう言うと、私の前髪をかきあげ、そっと額に口づける。
部屋に居る一同が硬直する中、まさか口づけられると思っていなかった私は、驚愕のあまり膝に乗せたスープの皿を取り落としそうになった。
「ど、どうしたの、ジェイ。」
「何が。」
「何がって…」
「そんなことより、返してくれないのか?」
じりじりと詰め寄るジェイに思考回路が爆発しそうになりながらもなんとか口を開く。
「な、何を…?」
「目覚めのキス。」
キス!?
まさかさっきのデコチューをやれと!?
「そんなの無理に決まってるでしょ!というかそれ以上近寄らないで!」
「何故。」
「何故って、ほ、ほら、私三日もお風呂入ってないから汗臭いしベトベトだし!」
「お前の一部とあればそんなもの気にならん。」
「私が気になるから!」
なんで病み上がり早々こんな事態になってるんだ!アン、エリー、セルファ、見てないで助けて!
「どこを見ている。」
今度はジェイに顎を掴まれ、本格的に逃げられなくなった。
「いや、あの…」
それでも往生際悪く目を合わせないでいると、顔を両手で挟まれた。
「硝子。俺を見ろ。」
「っ…!」
顔に熱が集まるのを感じながら、私は弱弱しくジェイを見上げた。
「お、お願いだから…手、離して…」
「………」
なんとかそれだけを伝えると、息を呑む音とともに両手が離れた。
ほっと息をつくと、ジェイは何かに耐えるようにこちらに背を向け、部屋を出て行く素振りを見せた。
部屋を出る直前、扉の傍に音もなく控えるリガロにジェイが問う。
「リガロ、風呂に入るのに問題はあるか。」
「いいえ。身の内を巡る毒は血流には影響しません。ただ太陽の有無にのみ作用します。」
「ジェイ…?」
声をかけると、ジェイは一度だけ振り向いた。
「とりあえず風呂に入れ。その後で話がある。」
ジェイがリガロを伴って部屋を出ると、セルファルカの長い溜息がそれまでの沈黙を破った。
「なんだい、あれ。まるで別人のようじゃないか。今まで私に笑いかける事なんて無かったのに。」
「私もびっくりしました…。どうしたんだろ、ジェイ。」
「この三日の内に君が何かしたんじゃないのかい?」
「さ、さぁ…」
なんとなく思い当たることはあるが、あれが果たして夢だったのか現実だったのか定かではないので何とも言えない。
「まぁ十中八九君の影響だろうけど、何にせよ良い傾向だ。」
そう言うと、セルファルカは私の正面に立って、ふわりと笑むと言った。
「私じゃジェイを笑わせる事は出来なかったろう。ありがとう。それから、お帰り。」
「…ただいま。」
家族以外にこの言葉を言うのはなんだか照れくさいが、しっかりと目を見ながら言った。
それを満足そうに見遣ると、セルファルカは両手を組んで腕を伸ばした。
「さて、と。私もそろそろ戻るよ。何かあれば遠慮なく呼んでくれ。」
「はい。ありがとうございます。」
感謝の言葉とともに笑いかけると、セルファルカは手を振って部屋を出て行った。
「え、えと、じゃ、じゃあ私、湯浴みの準備してきますね!」
どこか興奮した様子で風呂場へと駆けこむアンを見送りながら、先程のジェイの言葉を思い出す。
(話って何だろう。)
しばらく考えてはみたが答えは出ないので、とりあえず久しぶりの風呂を楽しむことにした。