第17話 居るべき場所
熱い、寒い、痛い、恐い。
様々な感情がぐちゃぐちゃに入り乱れ、気付いた時には、どこか懐かしい風景の中に居た。
「あ…れ?ここ…」
「――…子、硝子、ちょっと硝子聞いてんの!?しょ・う・こ!」
「うわ!?」
顔をずいと近付けられ、素っ頓狂な声を上げると、目の前の友人はわざとらしく眉を寄せた。
「私の顔見て驚くなんて失礼ね。」
「あ、ごめん。ぼーっとしてた。」
「でしょうね。授業終わっても席立たないから声かけたのに、反応ないし。」
「え、授業終わったの?」
「とっくに。」
教室を見回すと確かに部屋に残っているのは数人で、教授は黒板を消していた。慌てて自分のノートを見下ろす。
「うわぁ見てよこのまっさらなノート。後半寝てたっぽい。」
「あらま。よだれの跡は?」
「…いや、流石にそれは無い。ごめん由香、ノート貸して。」
「いいけど、ノート貸してる間にちょっとレポート見せてくれない?どうもうちの班のデータおかしいのよね。」
「いいよ。じゃあ図書室行く?」
「図書室は喋ってると怒られるから食堂行かない?」
「そうだね。」
私は立ち上がるとトートバックに教科書をしまい、席を立った。
食堂に移動して、借りたノートを写しながら、首をひねる。本当に、授業の記憶が全くない。だからと言って、居眠りをしていた後の気だるさもない。本当に眠ってしまったのだろうか?
「あ、あった。多分ここの添加量間違えたんだ。」
由香の声に顔を上げる。
「どこ?」
「ここ。数値が倍になってる。」
「本当だ。それ誰が添加したの?」
「田山。」
「あー、あいつ実験適当だからね…。ろくに目盛読まなかったんじゃない?」
「それ有り得る。よし、人的誤差って考察に書いちゃおう。」
「誤差にしてはちょっと大きすぎない?」
「いいのいいの。考察埋まれば。よし、後二つ!」
「うわずるーい。私のも考えてよ。」
「やーだね。」
べーっと舌を出す由香と笑い合う。
それは、いつもと変わらない日常の風景。
それなのに、どこかもやもやとした違和感を感じる。
「よし、こんなもんかな。硝子はこの後どうするの?」
「ちょっと図書室寄ってから帰る。」
「そ。じゃあ私帰るね。」
「うん、お疲れー。ノートありがとう。」
「こっちこそレポートありがとー。んじゃーねー。」
由香は軽く手を振ると背を向けた。
パーマで巻かれた茶色の長い髪がふわふわと歩みに合わせて揺れる様を見送ると、反対側へと足を向ける。図書館で調べ物をし、必要な本を選別すると、学生証を提示して借りた。
本を探すのに手間取ってしまったせいで、図書室を出る頃にはすっかり辺りは暗くなってしまっていた。
大学から徒歩三分のアパートへ早足で帰る。
街頭があるとはいえ、やはり夜はあまり一人で歩きたくない。
アパートへ辿りつくと、カン、カン、カン、と上り慣れた階段を上る。
疲れた溜息をつきながら目的の扉の前に立つと、専門書でずっしりと重い鞄の中を漁った。
(資料集めてたらすっかり遅くなっちゃったな。ったく、実験多すぎだっつーの。)
心の中で一人ごちながら、小さな鈴のついた鈍く光る鍵を取り出すと、夜の闇に眼を凝らして鍵穴にさす。ガチャリと開錠の音がし、外した鍵を持ったまま冷たいドアノブに手をかけると右に回して引いた。
きぃ――、という音とともに開く扉。
その先にある見慣れたはずの狭い廊下に、食堂で感じたものとは比べ物にならない程の違和感を感じた。
(――なに?)
泥棒でも入ったのだろうかと耳をすませ、注意深く廊下を観察するが、特に変わった所は無い。
この胸を占める違和感は何だろう。
一歩踏み出すと、中に入る。
バタリと扉が閉まると、施錠して玄関の電気をつけた。
浮かび上がるのは、昨日と寸分違わない自分の家。
釈然としないながら居間へと入る。
部屋の電気をつけ、また注意深く観察してみても、やはり変わった所は無かった。
何も無くて良いはずなのに、それがひどく落ち着かない。
ぎゅっと胸の服を掴み、不自然に脈打つ鼓動を抑える。
無い。何も。
それが不安で不快だった。
私は頭を振ると、荷物を下ろし、台所に立った。
冷凍してあるご飯をレンジで温め、昨日の残り物を冷蔵庫から取り出す。ついでに飲み物も取りだすと、コップとともにテーブルの上に置いた。
温めたご飯を口に運びながらも、やはり何かがしっくりこない。
けれど何が違うのかわからなくて、言い表せない焦燥感に苛まれた。
考えても考えても、出口の見えない洞窟にはまったようで何も得られない。
気分でも変えようと、食器をシンクに運んでから熱いシャワーを浴びるも、まるですっきりしない。
(…駄目だ。)
諦めて風呂からあがると、バスタオルを体に巻いた。
そこでふと、玄関の扉が目に入る。
いつもは気にならないはずの青い扉が、今日はやけに気になった。
急いで部屋着に着替えると、玄関の前に立つ。
(…?)
何かがわかったような気がしたのに、どうも違う。
サンダルをはくと、鍵を開けて外へ出た。
(これも違う。)
玄関の外に広がるのはいつもの風景ではあるが、自分が望んだ答えではない確信があった。
今度は扉を閉めて、扉を外から見てみる。
すると、まるでびりっと電気が走ったように何かが頭の中で弾けた。
(ここだ。)
どきどきと心臓が早鐘を打つ。
何かを期待するように、ノブに手をかけた。
きいという音とともに、扉が開く。
けれどやはり、そこには見慣れた廊下しかない。
私は再び中に入ると、玄関の扉を施錠した。
電気をつけたままの部屋に入ると、がくりと膝を落として手をついた。
何故だかわからないが、何かに絶望している自分が居る。
はらはらと、いつの間にか頬を伝う雫がカーペットを濡らした。
「ジェイ…」
不意に口をついて漏れたその音が何を意味するのかわからなくて、私は溢れる涙を止める事が出来なかった。
「おはよー硝子。レポート終わったー?」
次の日、授業を受けるため講義室へ入ると、由香がひらひらと手を振って出迎えてくれた。
「んー、まだー。」
未だ覚醒しきらない瞼を擦りながら席へ着くと、由香が覗きこんできた。
「随分眠そうだね。遅くまで起きてたの?」
「なんか頭が冴えちゃって、いざ寝ようとした時に眠れなかったんだ。」
当たり障りのない答えを返す。
本当はあの玄関の扉が気になって眠れなかったのだが。
今日の朝も、ここへ来る前に自分のアパートの扉を外から開けてみたのだ。
けれどやはり何も起りはしなかった。
「ふぅん。今日の夜は飲み会だよ?大丈夫?」
「うん。私今日の授業はこれだけだから、午前中のうちに適当にレポート終わらせたら一度家に帰って寝る。」
「そのほうがいいね。てか、だったらこの授業さぼっちゃえば良かったのに。」
「それも考えたんだけど、ちょっと気分変えたくて出てきた。」
「なーに?悩み事なら私に話してごらん?」
「そんなわくわくした目で見られてもねぇ。」
「だって珍しいんだもん。硝子って悩みなさそうな顔してるから。なんか、達観してるっていうか。」
「失礼な。私にだって悩みの一つや二つあるよ。」
「例えばどんな?」
私はにんまりわらうと言った。
「今日の昼は何食べようか、とか。」
「軽い悩みねぇ。そうそう、そういえば昨日から食堂で沖縄フェアやってて…」
由香の話し声がどこか遠い。
私は相槌を返しながら、昨日から増すばかりの不安に耐えた。
授業を終え、適当にレポートを書き終えるとアパートへと帰る。
扉へ手をかけながら、何もないのはわかりきっていることなのに、どこか期待してしまう自分にイライラしながら中へ入ると、倒れこむようにベットへ身を投げた。
「ジェイ」
昨日無意識のうちに呟いた言葉を舌に乗せてみる。
何かが思い出せそうなのに思いだせなくて、得られたのはただの虚無感だった。
「…寝よ。」
重くなる瞼に抗わず、祈る様に目を閉じた。
◆◆◆
「ショーコ…」
小さな小さな呟きに目を開ける。
視界に入った高すぎる天井にほっとしたが、身じろぎした時に走った鋭い腕の痛みに呻いた。
痛みに耐えながらどうにか身を起こす。
ベットの足元に立つ人物を視界に収めた瞬間、言い表せない程の安心感と安堵に包まれたが、その格好に眉を寄せる。
雨にでも打たれたのか全身は水でぐっしょりと濡れ、光を弾く銀髪からは透明な雫に混じって赤い液体が滴っている。白い顔にも、同様の赤が付着していた。
濃厚な鉄錆の匂いに、その赤が血だと直感する。
服も血と泥にまみれ、左手には血のついた剣。
そのただならぬ状況に一瞬恐怖を覚えたが、それよりも、いつもは静かなはずの青の瞳が揺れている事が気になった。
視界は定まらず、こちらを映しているのかどうかも分からない。
ただその渇いた唇だけが、私の名を呼ぶ。
「ショーコ」
「何?」
「ショーコ」
「うん。」
「ショーコ」
「……」
ただ名を呼ぶばかりで、返事を返しても反応が無い。私は力の入らない体を叱咤すると、ベットの上を這うようにして足元に立つジェイの傍に寄った。ほんの少し動いただけでくらくらする。髪が汗で首に張り付いて気持ち悪いが、そんな事を気にしている場合ではない。
ベットの上で膝を立てると、ジェイの顔を下から覗き込む。
「ジェイ?」
そっと声をかけてみると、ジェイの肩がびくりと大きく震えた。
「…ショーコ?」
「うん、そうだよ、ジェイ。」
先程から私の名を呼んでいたのに、今初めて私がこの場に居る事に気付いたように目を見開くジェイに頷く。
ジェイは泣きそうに顔を歪めると、ガランという音とともに血のついた剣から手を離し、私の頭を抱えるようにしてぎゅっと抱きしめた。
ジェイの背に手を回すと、微かに震えているのが感じられる。
「ずっと…」
「ん?」
「ずっと、夢見ていた。誰かが、当たり前に俺の側に居るのを。」
震える声を絞り出すような小さな声を聞きもらすまいと、注意深く耳を傾けた。
ジェイが語りだす。
「俺は異端だ。魔を殺さないと自分を保てないような紛い物。他の命の上に己が命が存在することに酷く罪悪感を感じる。だから、己が力に焼かれ死んでしまおうと何度も思った。そうすれば孤独感も虚無感も感じずに済む。だけど俺の力は俺を死なせてはくれなかった。ただ俺を害する奴らを排除するこの力が恐ろしく、そして憎かった。」
ただ漠然と「力」という存在を示されても、ジェイが何を恐れ、憎んでいるのかわからなかった。ただ一つ、私の中で疑問が浮かぶ。
「一つ質問してもいい?」
ジェイに無言で促され、口を開く。
「私を側に置いたのって、…殺す為?その、力が暴走した時に制御するための」
「馬鹿な!」
初めてジェイが声を荒げた。こうして彼に怒られるのは初めてかもしれない。
そんな場違いなことを考えていると、ジェイは苦しそうに息を吐いた。
「はじめは、異質であれば、同じく異質である俺の力も受け止めてくれると、そう信じてお前を拾った。けれど本当は、ただ側にいて欲しかっただけなんだ。人か魔かなんてどうでも良い。俺の言葉に耳を傾け、それに返してくれるだけで満たされた。…だけどお前は、異質どころかただの人だった。」
ずるずると床に膝をつくと、ジェイは私の腰にしがみついた。
声に混じって嗚咽が聞こえる。
「どうしてお前はこんなにも脆く、儚い。人であればいずれお前も俺を拒絶するのか。その首の傷のように。」
私はベットの上に座ると、ジェイの頭を抱きしめた。
「…私ね、夢を見たんだ。向こうの世界に居る頃の夢。」
「!」
びくりと肩を揺らし、私から離れようとするジェイを抱きしめて引きとめる。
ジェイが私の世界の話を聞きたがらないのは知っている。それでも聞いてほしかった。
「駄目、聞いて。」
強い口調で言うと、ジェイは嫌だと首を振った。それでも構わず続ける。
「向こうの世界で勉強して、友達と笑って、ご飯食べて寝る。私がここへ来る前の、普通の日常だった。なのに心にはいつも、穴が開いたように何かが足りなかった。」
私は一つ息を吸うと、ゆっくり吐いた。
「私はね、恐かったんだよ。この世界の住人ではないのに、こちらの世界に依存することが。だから自分に傷をつけた。これ以上、心がこちら側に傾かないように。でも結局駄目だった。」
私は腕の力を緩めると、涙で濡れた青の瞳を見つめた。なんてきれい。
「ねぇ、人が側にいては駄目なの?」
先を促す瞳に、言葉を続ける。
「私、具体的にジェイの力がどういうものなのかわからない。見たら恐くなって逃げるかもしれない。だけど、力の存在は知った。知っているという事は、何も知らないよりも心構えが出来ると思うの。だから恐くて逃げても、きっと戻ってこられる。」
「それ、は…」
「確証はないよ。恐くてそのまま逃げるかもしれない。ジェイを傷つけるかもしれない。でもその時は、ジェイが引きずってでも連れ戻してくれればいい。私が許可する。時間はかかるかもしれないけど、私って結構タフだから、そのうち慣れるって。それとも、もう人だと分かった私は用済み?」
呆然と言葉を紡げずにいるジェイに苦笑する。
「ジェイはずるいよ。何もないと言っているのは、ただ気付いていないだけ。ウィルやリガロ、セルファルカにお父さん。みんなここにいるじゃない。同じ世界に、当たり前に存在しているじゃない。」
そこまで言うと、私は言葉を切った。こみ上げてくるものを耐えようと唇を噛みしめるが、溢れる涙で視界がぼやけた。
一筋の涙が、ジェイの頬に落ちる。
夢を見た事で余計に実感してしまった事実。
それは隠しきれない喪失感。
「私には、何も、ないんだよ?」
無理に笑おうとしたが、失敗した。ジェイから手を離して顔を隠そうとすると、今度はジェイに引きとめられた。
「俺が…」
長い指が、私の涙をぬぐう。次から次へと溢れるそれを、優しく唇を寄せて吸った。
「俺が、いる。」
私は再び溢れそうになる涙を必死にこらえた。
良い年した大人が二人して何泣いているんだろう。
今度は笑いがこみあげてきた。
泣きながら笑みを零す。
「さっきから保険をかけるようであまり言いたくないけど、大事なことだから言っておく。…私はこの世界の人間じゃない。だから、いつ向こうに帰るかわからない。それでもいいなら、傍に居る。私がこちらにいられる間に、私の代わりにジェイの側に居てくれる人を見つけてちょうだい。」
ジェイはそっと私を抱きしめ、胸に顔を埋めると、丸みを帯びた膨らみに唇を寄せた。
服を食み、その上から形を辿られる感覚がしたので、咎めるように銀の髪を鷲掴んだ。
「それは無理な相談だ。」
いつの間に泣きやんでいたのか、ジェイは顔を上げると、造り物のようなそれをいつものようににやりと歪め、言った。
「もう、逃がしはしない、…硝子。」
例えお前の世界を壊すことになろうとも。
その決意を秘めた言葉は、気力を失い再び意識を手放した私には届かなかった。