第1話 はじまりの森
「圏外だし。」
困った時のなんとやら、とりあえず誰かに連絡を取ってみようと現代の文明の利器を真っ先に取り出してはみたものの、それは米粒ほどの役にも立たなかった。パクンと携帯を閉じると、液晶の光を受けて感度を失った目を一端閉じ、闇に慣れるのを待つ。回復した視力でもう一度辺りを見回したが、やはり景色は最初と変わらなかった。
扉を開けたら目の前は森で。気付いたら先程まで握っていたはずのドアノブも、それどころか扉さえなかった。
はぁと溜息をついて、こめかみを押さえる。
寝不足なせいで夢でも見ているのだろうか。うん、きっとそうに違いない。
…実際は嫌な予感しかしないが。
「とりあえずちょっと歩いてみるか。」
震えそうになる手をぎゅっと握りしめながら、あえて平静を装って声に出す。自分の声でも聞いていないと、この暗闇の中に埋もれて、そのまま「私」という存在自体が消えてしまいそうだった。
もう一度利器を取り出し、白い明かりを頼りに歩きだす。
低いパンプスの踵が湿った土に食い込む感触が、夢にしてはやけにリアルだ。
一歩進むごとに募る不安。それでも、何もしないよりは気が紛れた。
ゆっくりと歩きながら、きょろきょろと辺りを観察する。どこもかしこも木、木、木。街灯なんてどこにもない。月を求めて上を見上げる。けれど、木々の葉が生い茂りすぎて、月はおろか空さえほとんど見えなかった。
不安をはらすほどの光量はどこにもない。
まるで何かに拒絶されているかのような感覚に襲われる。私は爪が食い込むほど手を握り締めた。うん、痛い、大丈夫。
そうしてしばらく歩き、間違っても風流などとは言えないその景色に辟易しかけたころ。
木々の葉擦れの音に混ざる微かな水音に足をとめた。
耳を澄まし、その音に導かれるように歩みを進めると、ほどなくしてそれは見つかった。
まるで人為的に刈り取られたかのように、この一帯だけ木がない。
その開けた空間の中央に鎮座する、大きな水たまり。
湖、にしては水がやけに澄んでいる。音源を辿り暗闇に目を凝らすと、湖の一番奥、斜めに切り立った崖の割れ目から透明な水がその存在を主張するように溢れていた。
泉だ。
「…飲めるかな。」
実は結構前から喉が渇いていた、というか、空腹だ。こんなことになるなら、食堂でテレビを見ているときに何か食べればよかった。専門書の入った重い鞄を傍らにおろす。お腹を壊したらその時考えよう。薬なら少しはあるし。
そう自分に言い聞かせながら、空腹を満たすためにそっと泉を覗きこんだ。
が、前屈みになった瞬間、湿った草にずるっと手を滑らせる。
「え、ちょ…やっ!」
ひやりとした時にはもう遅かった。やばい、という言葉を紡ぎ終わることはなく、派手な水音とともに体は泉に落ちていた。
「あー…ついてない。」
辛うじて足は付いたので溺れる心配はなかったが、見事に頭から水をかぶって濡れ鼠と化した。もはや溜息も出ない。しばし無言で佇む。顔に張り付く髪を両手ではらいかけ、やめた。もう一度ざぶんと頭まで浸かり、ざばぁと勢いよく上がるとバシャリと後ろへ倒れた。
「何やってんだろ…」
水に合わせてゆらゆらと揺れる服が気持ち悪い。
温い水に体を浮かせたまま、空を仰いだ。
さっきまで木々の後ろに隠れていた月が、見逃せないほどの存在感を持って頭上から私を見下ろしていた。
「赤い…」
夕日よりも鮮血の方が近いかもしれない。今にも滴り落ちそうな光を湛えた、赤い月がそこにはあった。
赤い月は凶兆の前触れ、と聞いたことがあるようなないような。
――あぁ、だからこんな所に来ちゃったのか。
妙に納得したと同時に絶望した。今私は認めてしまったのだ。ここは私の知っている場所ではない、と。
そろそろ現実を見なくてはならないかもしれない。
少なくともここは、アパートのドアを開けただけでこられるような場所ではないだろう。
「ここはどこ?」
声に出しても答えるものは無い。湧水のあふれる音だけが無情に響いた。
月を見ていたくなくて、何気なく視線を横へずらした私は、一気に後悔に苛まれることになる。
湧水溢れる崖の上。
黒々とした大きな鋭い目が複数、こちらを見ていた。
小さく聞こえる唸り声がやけにはっきりと聞こえた。
ゆっくりと水の中で立ち上がり、狼のような獣と視線を合わせたままじりじりと下がる。背中が泉の淵に当たるのを感じたと同時にざばりと勢いよく体を持ち上げ、専門書の入った鞄を抱えて駆け出した。
崖の勾配はきつい。あそこを滑り降りてくることは、いくら獣だといっても、きっと無理だ。
けれど人と獣の足の速さなんてたかが知れてる。土地勘もない私では、追いつかれるのも時間の問題だろう。
「……っ、邪魔!」
水を吸って重くなった上着を走りながら脱ぎ捨てる。
専門書など、置いてきたほうがよかったのかもしれない。
けれどこの腕にかかる重みが、「私」という存在を証明してくれているような気がして手放したくなかった。
後ろから、獣の息遣いが聞こえた。捕食者は動物の急所を知っている。まず最初に狙うのは喉だったと思う。そうして息の根を止めてから、ゆっくりと、内臓に至るまで食いつくす。
いつかテレビで見たサバンナの光景が、何故か鮮明に思い出された。
考えるだけで全身が総毛立つ。
(今はただ)
ただ逃げることを考えよう。
恐怖で震えそうになる足を叱咤し、鞄を抱く腕に力を込め、前を見据えてひた走った。