第16話 苛立ちの意味
ぬるりと、生温かい雫が頬を伝う。
鉄錆の匂いを含んだそれは、いましがた斬り伏せた魔獣から飛び散ったものだ。
ジェイランディスは、魔の体から噴き出す血飛沫を避けもせず、真正面から浴びていた。
生い茂る木々の葉も、土砂降りの雨を防ぐには至らない。
髪と肌に付着した血は雨が洗い流すが、服に染みついたそれは雨に濡れるとじわりとその範囲を広げ、二度と落ちない汚れとなる。
「…不快だ。」
重くなった髪も、首を伝って服の中へと入り込む雫も、雨の音も、何もかも。
バシャリ、バシャリ。
泥の跳ねる音に、ゆっくりと振り向く。
牙を向いた、一匹の黒い虎。
雨に人の匂いは消されても、濃厚な血の匂いは消せないらしい。
あぁ、それとも今殺した子虎の親だろうか。
――どうでもいい。
虎が駆ける。
跳ねる泥を見ながら、けれどジェイランディスは構えない。
獲物の首を狙いながら跳躍する虎の腹に向かって、剣を持った左手を無造作に突き出す。
ずぶりと、剣が肉に埋まる感覚がした。
「ギャウン」
耳障りな鳴き声を上げる虎を、右足で蹴り倒す。
傾ぐ虎の体から剣を引き抜くと、すぐさま逆手に持ち直し、右手を添えて真っすぐ首に突き立てた。
びくりと一度痙攣し動かなくなった虎の体を無感動に一瞥すると、足を置き、剣を引き抜く。
ずるりと引き抜いた刀身に絡みつく赤い液体に、謁見の間で見た赤が重なった。
体の線を強調する様な、それでいて下品さは感じさせない白いドレスに身を包み、長い黒髪を高い位置で纏めた硝子は文字通り美しかった。
普段の溌剌とした雰囲気はなりを顰め、どこか頼りなげに歩を進める様は、深窓の姫を連想させた。
が、あの目が自分を映していない事に苛立った。
王から視線を外すことが不敬に当たるとは分かっていても、黒の瞳が一度も自分を見ない事が気に入らない。
謁見など、さっさと終わればいい。そうすれば、しばらく自分しかその瞳に映さないよう閉じ込めてやれるのに。
そんな事を考えながら、硝子の両手を拘束する手錠に目をやった。
あれも不快だ。
自分以外の者が硝子を虐げるなど許されぬ。
(そうだ、謁見が終わったら首飾りを買ってやろう。)
所有の証、そして首輪の代わりとして。
ジェイランディスはそっと笑む。
首飾りの宝石は何色が良いだろう。
瞳に合わせた黒か、対極の白か。
今髪にささっている花と同じ赤でも良い。
そんな事をつらつらと考えているとき、それは起こった。
居並ぶ貴族達の間を縫って飛んだ矢が、硝子を射る。
反射的にジェイランディスは立ちあがったが、常ならば即座に敵の位置を見分けようと反応するはずの体が、この日は何故か動かなかった。
倒れる硝子と、視線が絡む。
体を床に打ちつけ呻く硝子は、この日初めてジェイランディスを視界に収めると、どこか虚ろで焦点の合わない黒の瞳を細め、――笑った。
ぞくりと、背筋が冷えた。
どうして射られて笑っていられるのか。
まるで最期の別れを告げるように浮かべられた笑みはどこまでも優しく、甘く、そして残酷だった。
待ち焦がれた黒の瞳が、ゆっくりと閉じられる。
「ショーコ」
呼んでも反応の無い彼女に、全身の血が凍った。
…どこか安心していた。
人の容姿をしていながら魔の色を宿す女。
相反する二つの要素をその身に宿す特異な存在ならば、人の理に従う事も無い。
故に、誰も彼女を害することは叶わぬだろうと。
根拠も何もありはしない。
けれど本気で、それを信じて疑わなかった。
ただ異質であるというそれだけで、この己の身の内に宿る忌まわしい力さえも受け入れてくれると信じていた。
ジェイランディスには、人ならざる力があった。
この世界にもある程度の魔法は存在しているが、それを扱えるのは古の民の血を引く一握りの人間だけである。
彼らは自然の声を聞き、ほんの僅か、自らの手助けを願う。
そんな彼らの最大の禁忌が、人を殺める事だ。
いかなる理由があろうとも、術で人を殺める事だけはしてはならない。それは自らを育む自然に対しての最低の礼儀であるからだ。
彼らと比べればかなり薄くはなるが、古の民の血を引く王族も、ある程度の力なら行使できる。
しかし、出来てごくごく近い未来の先見や、動物と意思の疎通が叶うなどの些細な事象ばかりだ。
その中で、ジェイランディスの力だけは強大だった。
初めはただ、ほんの僅か力が大きいだけなのだと誰もが思っていた。
もしかしたら、古の民の先祖がえりなのではないかと、皆ジェイランディスを愛した。
だが、幼いジェイランディスがお付きの者の目をかいくぐり、下町へと降りた時の事。
初めての外に興奮し、周りが見えていなかったジェイランディスは、自分を狙う賊の存在に気付かず捕まってしまった。
銀の髪を持つのが王族の証である事を、ジェイランディスは知らなかったのだ。
見た事もない卑しい格好をした彼らに刃物を当てられ、ジェイランディスの中の何かが弾けた。
気付けば彼らの首は胴体から離れ、無残に引き裂かれた体からは臓物がはみ出ていた。
辺りに満ちる生臭い匂いに嘔吐き、その場で吐いた。
魔法を扱う彼らが最も嫌う、術による死。
その王族にしては大きすぎる力に皆が畏怖の念を抱き、恐怖した。
離れていく親しきものたち。
ときには軽蔑、侮蔑の眼差しで見られた。
――王族の皮をかぶった紛い物。
偶然それを耳にした時、幼心に理解した。
あぁ、ここにいてはいけないのだと。
本当は分かっているのだ。セルファルカが、ジェイランディスの親しい者たちを男女構わず口説き落とすその理由。
ジェイランディスの力を知らずに親しくなった者達が力の存在を知った時、向けられる畏怖の目にジェイランディスが傷つかずに済むように。
分かってはいても、つい昨日まで自分と語らい合っていた友がこちらには全く見向きもしなくなった時には絶望した。そしてその友と親しげに話すセルファルカが疎ましく、妬ましかった。
同時に羨ましかった。
いとも容易く人の心を手に入れるその力が。
セルファルカ以上の力を有しているのに、自分には何もない。
その時、欲しいと、純粋に思った。
自分の力に中てられても壊れないモノが。
自分を受け入れてくれる真っ白な存在が。
そこではたと思いついた。
魔が湧くという魔の泉。
もしかしたら、自分が望むものも生まれてくるかもしれない、と。
力の暴発を抑えるため定期的に行わねばならない魔狩りで、ジェイランディスは探した。
そしてようやく見つけた、黒を宿す女。
彼女と初めて視線を交わした瞬間、心が歓喜に震えた。
彼女こそ、自分が望んだ存在だ。
子供のころから待ち望んだ、生まれたての、『何も知らない』、まっさらな。
何年も探し続け、ようやく手に入れたばかりだった。
――それなのに。
それがこうもあっさりと、しかも自分以外の人間の手によって壊される。
ジェイランディスは唇を噛み締めた。
やっと見つけた、俺のモノ。
俺だけのモノなのに。
『ねぇジェイ、どうして物に色の違いがあるのか知ってる?』
いつだったか、膝の上で暇を持て余した彼女が唐突に語り出した話を思い出す。
『考えた事もないな。その物がもつ特有の色があるからではないのか。』
『ううん、物が色を持っているわけではないの。まず光っていうものには、波長という長さがあって、私の国にあるプリズムという道具を使うと、太陽の光は赤、黄、青、紫っていう風に、何色にも分かれるんだ。一般的に波長が短いと紫や青、波長が長いと赤に見えるんだけど、じゃあどうして同じ光をあてているのに色の違いが出るのかというと、物体が人の目に認識される色以外の色を吸収しているからなの。』
『…?』
『例えば、ここに赤い実があるとする。その実は、太陽光の持つ赤以外の黄、青、紫を吸収する。そこで吸収できなかった赤が反射して、人の目に届くってわけ。それらの色が全部反射すると、白ね。』
『では黒は?』
指に髪を絡めながら聞くと、『それが難しいんだよね』と硝子は言った。
『黒は、白とは逆に全部の波長を吸収してしまう色だけど、本当に全部の波長を吸収する物質は無いらしいの。黒体っていうんだけどね。』
これほど見事な黒でも完全ではないのかと思いながら髪を梳くと、硝子が徐に手を伸ばしてきた。顔の横に垂れる銀髪をひと房掴む。
『でも銀って、どういう色の組成してるんだろ。白に近いから、やっぱりだいたい反射してるのかな。』
『さあな。にしても、今日のお前の髪はやけに温かい。』
『窓から差す日に当たってるからでしょ。全部吸収しちゃうから、黒って熱いんだよ。』
だから場所移動して、という硝子に笑みを零す。
王族と言う事を気にしないぞんざいな態度。それが何故か好ましく、嬉しかった。
もうあの声も聞けないのだろうか。
自分の知らないものに興味を示し、きらきらと輝く瞳も見られないのだろうか。
夜の闇夜に浮かぶ、斬り伏せた魔の黒い屍。
全てを吸収し、呑みこむ黒。
(いつからだろう、黒にお前を重ねるようになったのは。)
黒髪に近い女を抱いてみても、ジェイランディスの心を満たしはしない。
何も満たされはしないのに、それでも足は自然と赴く。
抱けば抱くほど渇きは増し、飢え、抜けだせぬ輪廻へと堕ちる。
ただ一度だけ満たされたと感じたのは、あの首筋に口づけたときだけ。
たったの一度、唇で辿った肌の感触が今でも忘れられない。
ほんの数秒触れただけなのに、女を抱いた時とは比べ物にならない程の充足感に包まれた。
あの肌に吸いつきたい、埋もれたい、直に肌を合わせたい。
衝動のまま貫き、甘い喘ぎで満たされたい。
果てる事無い暗い欲望、それはどこまでも甘美な誘い。
彼女が真実魔であり、その獰猛なる性によって繋がった瞬間自身が捻じ切られても構わなかった。
そこで、はたと顔を上げる。
(俺は…抱きたかったのか?あいつを。)
初めて気付いたとばかりに自分に驚くジェイランディスだが、そう考えれば女を抱いても満たされなかった理由に納得がいった。
だが何故だ。
何故今まで、彼女を抱こうとは思わなかった?
何故そういう思考に至らなかった?
『ジェイ』
自分を呼ぶ硝子の声が脳裏に蘇る。
髪をいじられ、暇を持て余す硝子を慰めながらも解放せずにいた時、不満げに、けれど諦めたようにそう呼ばれた。
『私寝るから。仕事終わったら起こして。』
そうして目を閉じる硝子に、何故か泣きたい衝動に駆られた。
自分の傍を、眠る場所としてくれた。
たったそれだけのことなのに、子供のように大声で泣いてしまいたかった。
何も知らないからこその行動とわかっている。
それこそ、自分が望んだ事だ。
けれどそれで良かった。
それでも、何かが許されたような気がした。
今なら分かる。
初めて会った時の約束があったから抱けなかったのではない。
膝の上で健やかに眠る彼女の、涙に濡れる顔だけは見たくなかったのだ。
それが喜びや生理的なものならばまだ良い。
もし、苦痛や嫌悪からくる涙だったならば。
想像するだけで胸が痛んだ。
「…あぁ、そうか。」
ようやく気付いた。
俺は恐かったのだ。
彼女に嫌われる事が
彼女が離れていくことが
何より、彼女を失う事が
――恐い。
幼いころ、賊に襲われた時とは異なる恐怖がジェイランディスを襲った。
(これほどの恐怖を、俺は知らない。)
「ガルルルルル」
ジェイランディスの恐怖を読み取ったのか、いつの間にやらジェイランディスを囲うように集まっていた魔の群れのうちの一匹が、ジェイランディスの太ももへと噛みついた。
ジェイランディスは、表情一つ変えないまま魔を見下ろす。
唸りを上げながら放そうとしない魔の突き立てた牙から、じわりと血が滲んだ。
「…愚かな。」
瞬間、魔の体は青白い炎に包まれ、血の一滴に至るまで蒸発した。
傷ついた自身の足を見下ろす。
傷口は熱を持ち、動かせば、びりっと鋭い痛みが走った。
「この痛みを、あいつにも与えたのか。」
ジェイランディスは、ふつふつと怒りが湧き上がってくるのを感じた。
こんなことなら、初めから誰の目にも触れないよう閉じ込めておけばよかった。
そうすれば、こんな痛みを経験させずに済んだというのに。
ジェイランディスの中で、黒い渦がとぐろを巻く。
硝子を傷つけた者が、痛みというものを与えた者が、…憎かった。
ジェランディスの心に呼応するように、あたりに風が巻き起こる。
重い雨の雫も風に流され、嵐のような様相を呈した。
そこからのことは、よく覚えていない。
とにかく手当たり次第、視界に映った魔を切り伏せた。
鼻につく嫌な匂いも気にならなくなるほどに、衝動のまま剣をふるう。
己の力に嫌悪しながらも、生あるものの命を絶つことになんの躊躇いもなかった。
次々と倒れ行く魔。
その中に、何かを探す自分がいた。
居ない。どこにも居ない。
――何が?
「…っ、ジェイラン!」
吹き荒れる風の中、彼方から声が聞こえた。
「ジェイラン!いい加減目を覚ませ!」
暗闇でもわかるオレンジの髪をした青年が大声で呼びかける。
あれは誰だったろうか。
「城でショーコが苦しんでいるのに、側にいてやらなくていいのか!?」
「ショーコ…」
ジェイランディスはぴたりと動きを止めた。それと同時に風がやむ。
あぁ、そうだ。
彼女がここには居ないんだ。
俺の魔。
俺の黒。
俺の、女。
ジェイランディスは、剣を持った手をだらりと下げると、顔に飛んだ血を拭いもしないまま、笑った。
…帰ろう。彼女のもとへ。
再びジェイランディスの身体は白い光に包まれ、一陣の風とともにその姿は掻き消えた。