第15話 雨の夜
ざあざあと、垂直に落ちる重い雨粒が地面を叩く。
打たれれば痛いくらいのそれは、昼間の晴天が嘘だったかのように途切れることなく降り続いていた。
厚い灰色の雲に覆われ、空を視認することは叶わず、ただただ単調に透明な雫を滴らせるそれに、晴れ間は永遠に望めないのではないかという錯覚をエリーに抱かせる。
硝子がこの部屋へ運ばれてから半日ほど。
医者に毒抜きはさせたが、抜ききれなかった毒が硝子の体を蝕む。
額には汗が浮かび、時々苦しげに呻く様を見ていると、何もできない自分が歯痒い。
せめてと額の汗をぬぐい、濡らしたタオルをそこに乗せる。
エリーや他の侍女たちに、詳しい事情は聞かされていない。が、誰もそれを問いただそうとはしなかった。
謁見の間から帰ってきたらこの状況だったのだ。何があったかなど、嫌でも想像がついてしまう。
(一人で行かせるべきではなかったんだわ。)
エリーは自分の浅はかさに唇を噛んだ。
飢えた獣の群れの中に兎を一羽放り込まれ、手を出さない獣が果たしていようか。
『行ってきます』と笑う硝子を、『いってらっしゃいませ』と送り出した自分の行為は、それらの獣と何ら変わりがない。
恐れを見せず気丈に振舞う彼女を、疑いもせず安易に送り出してしまった。
自分を快く思わない者達の元へ一人赴く事が、不安でなかったはずが無いのに。
硝子と初めて会った日もそうだった。
森でジェイランディスに拾われ、知らない場所へ連れて来られたというのに泣き顔一つ見せず、世話をすることになった自分達に対して頭を下げたのだ。
言葉を話せない事は聞かされていたが、まさかそんな行動に出ると思わず、これから仕える主に対して無様にも礼を返せなかった。
だというのにそれを咎める事もせず、驚いて口を開けていたのがおかしかったのか、くすくすと笑って済ませて下さった。
彼女のお世話を仰せつかってから数日後。ウィルに言葉を教えてもらうようになってから、彼女は積極的に侍女たちと交流を図った。
『おはようございます、ミラ様。』
ノックをし、朝の目覚めを告げながら扉を開けると、彼女は目を擦りながら起き上った。
いつもなら頷いて応じるはずの彼女だが、この日は違った。
『ア…アーシャ』
『え?』
初めて聞く彼女の声に顔を上げると、彼女は困ったように首を傾げていた。
『アーシヤ?…あ…アーシア?』
一生懸命何かを伝えようとするも、寝起きなせいかどうにも舌足らずな話し方になってしまっている。けれど、その聞き覚えのある響きにくすりと笑う。
『アイーシャ(おはよう)、でございます、ミラ様。』
ゆっくりと幼子に教えるよう伝えると、彼女は納得したように頷いた。
『アイーシャ(おはよう)、エリー。』
今度はしっかりと、しかも自分の名前まで添えてくれた。
普通、目下の侍女の名前など覚えない。
理由は簡単、覚える必要が無いからだ。
貴族や王族の様に召使を抱える場合、侍女は複数居るのが当たり前だ。
そんなものを一々覚えるよりも、重要な仕事や案件に頭を使った方が有用、というのが雇い人の考えであり、雇われる側も別段それを気にしたことは無かった。
一応建前として自己紹介はしたが、まさか彼女がそれを覚えていたとは。
『間違え、た?』
しばし瞠目していると、たどたどしいながらも首を傾げながら言葉を紡ぐ硝子に、慌てて首を振った。
『いいえ、合っていますよ。』
『エリー?』
『はい、エリーです。』
頷くと、硝子はもう一度、『おはよう、エリー』と、きれいな発音で言いなおした。
その凛とした声は、森から生まれ出でた魔とは思えないほど不思議と耳に馴染んだ。
彼女が侍女の名を覚えている事を知ると、彼女に名を呼んでもらうために態々世話をしに行った侍女も居たものだ。
物知りで、聡明で、気取った所がない彼女に、初めこそ恐る恐る接していた侍女たちも、次第に心を開いて行った。
時々寂しげに遠くを見つめる彼女の為に、謁見が終わったらお茶会を開こう。
そう、皆で話していたのに。
「エリー、」
「駄目よ。」
不安げに声を上げるアンを見ずに答える。
「症状の程度がわからないうちから薬を飲ませては駄目。リガロ様が抽出なさった薬は限られた分量しかないの。もっと症状が酷くなったときに薬がないのでは、対処のしようがないわ。」
「でも…!」
泣きそうに歪められた顔にほんの僅か溜息をつく。
「…薬湯をご用意して。二つよ。」
「はい!」
アンはすぐさま頷くと、慌ただしげに部屋を出て行った。動いている方が気が紛れるだろう。
エリーは硝子の額に乗せたタオルを取換えながら、向かいの椅子に座る人物を見遣る。
暗闇でも、仄かに光を放っているように見える銀の髪。
青の瞳を伏せ、硝子の手を己の頬にあてるジェイランディスに休息を促そうと口を開きかけたが、どうせまた聞こえやしないだろうと諦めた。
初めこそ、どうして硝子を守ってくれなかったのかと一方的な怒りを向けもしたが、今の憔悴ぶりを見てそれ以上責める事は出来なかった。
硝子をこの部屋へ運んでから毒抜きをさせる間、部屋の隅で腕を組み、無表情に成り行きを見つめるその様は、硝子を執務室へ度々呼びだしていたとは思えないほどに冷めきっていた。医者が去り、硝子の側へ寄る事を許された時も表情一つ変えなかったジェイランディスだが、そっと硝子の頬へ触れると、初めて青の瞳が揺れた。
怒り、悲しみ、苛立ち、不安。
そのどれもに当てはまるようで当てはまらない。
様々な色を映すその瞳に、一体彼のどこにそれほどの感情が秘められていたのだろうかと不思議に思った。
そこでエリーは気付く。
無表情だったのではない。様々な感情が混ざりすぎて、表情にならなかっただけなのだと。
「エリー、持って来たわ。」
「ありがとう。一つ殿下に差し上げて。」
薬湯を一つ受け取ると、サイドテーブルに置く。硝子が目覚めたら飲ませよう。半日たっても目覚めないようなら、無理やり起こしてでも飲ませなければならない。汗として水分が出て行ってしまっているのに、それを補えないのでは脱水症状を引き起こしてしまう。
「殿下、どうぞ。」
アンが薬湯を差しだすが、ジェイランディスは硝子の手を握ったまま微動だにしない。
「殿下、お飲み下さい。食事も取られてはいないではないですか。」
エリーが助け船を出すが、それでもジェイランディスは動かなかった。
「殿下に倒れられては私共が困ります。その薬湯は栄養価の高いザーナの実を煎じてあります。この場に居たければお飲み下さい。」
お咎め覚悟で進言してみたのだが、ジェイランディスはやはり視線一つも動かさなかった。セルファルカには好きなだけ居させてやってくれとは言われているが、流石にここまで反応が無いといよいよ心配になってくる。
殿下、と再度促そうとする前に、やっとジェイランディスは口を開いた。
「痣が…」
硝子の首筋に手を這わせるジェイランディスの行動に、何を言いたいのか察する。
首の痣とは、硝子が自分で傷つけてしまった爪痕の事だ。
謁見の際は左側だけ髪を垂らし、痣が目立たないようにしていたのだが、硝子の左側に腰かけるジェイランディスからは丸見えだ。
「それは今日ついたものではございません。」
「いつだ。」
「存じません。」
この日初めて、青の瞳がエリーを捕える。真偽を見極めるかのような瞳を、負けじと見返した。
言うつもりはない。
何故なら硝子がそれを望まないだろうから。
「誰が。」
「それも存じません。」
「…もう一度だけ聞く。誰が傷をつけた。」
殺気のこもったそれに戦きそうになりながらも口を閉ざしていると、背後から別の声が聞こえた。
「自分でつけたんだよ。」
「セルファルカ様!」
非難の声を上げると、セルファルカは首を振った。
「自分の事で君が害されるのを、彼女が望むと思うかい?それに、私も弟にそんな真似はさせたくない。」
セルファルカの言い分に押し黙ると、エリーはジェイランディスとセルファルカに向かって頭を下げた。
「…差出がましい真似をして申し訳ございませんでした。」
「いいよ。それより容体は。」
「残念ながら変わりありません。」
「目覚めてもらわない事にはどうにもならないか。」
「はい。それに、ジェイランディス殿下のお身体の方も心配です。そろそろお休みいただかなくては。」
二人でそちらを見遣る。
相も変わらず硝子の傍を離れようとしないジェイランディスに、セルファルカは溜息をついた。
「…ジェイ、そろそろ休みなさい。看護をしてくれている彼女達の邪魔だよ。」
言いながらジェイランディスの肩に手を置くセルファルカだったが、聞こえた小さな声に眉を顰める。
「……で…」
「ジェイ?」
「…お前まで、俺を拒むのか。」
言い終わると同時、ぶわりと風が巻き起こったかと思うと、セルファルカの腕がバチリと何かに弾かれる。
「つっ…」
「殿下!」
「駄目だ!触ってはいけない。」
駆け寄るアンが腕に触れようとすると、セルファルカはそれを拒んだ。
見ると、ビリビリと音をたてながら腕に白い光が巻きついている。
「しかし…!」
「大丈夫だよ、直におさまるから。」
「どうした!!」
不審な物音に、隣の部屋に待機していたウィルとリガロが部屋へ駆けつけた。
床に蹲るセルファルカと、バチバチと体に白い光を纏うジェイランディスを目にすると、ウィルはちっと舌打ちした。
「暴走しやがったか。」
「やはりあの時魔を狩らなかったのが不味かったか。」
「いや、どうせ結果は同じだ。」
リガロの言葉にそう返すと、ウィルはゆっくりジェイランディスへと近づいた。
「落ち着けジェイ。ここに敵はいない。」
そう語りかけるが、次第に白い光はバチリバチリと光量を増す。陽呼石とはまた違った、目に刺さる様な鋭い光が部屋の中を縦横無尽に走った。
ジェイランディスは硝子から手を離すと、ゆらりと立ちあがった。
目的もなく飛び回っていた光が、ジェイランディスの元へと集束する。
「ジェイラン!」
一瞬の事だった。
ウィルの叫び虚しく、白い光はぐるぐると渦巻きながらジェイランディスの体を包むと、目も当てられぬほどの光を放ってジェイランディスもろともその場から消え去ってしまった。
「っ、あの馬鹿!!取り乱しやがって!」
「一体どこへ」
「魔の泉だ。」
ウィルとリガロの問いに答えたのは、この場に居るはずの無い、ジェイランディスとセルファルカの父、エンゲルブレクト王であった。
「父上、何故ここに。」
緊張した声音で硝子を庇う様に立つセルファルカに、状況がわからないエリーはただその場で頭を下げるしかなかった。
「今重要なのはそんなことか?セルファルカよ。」
「いいえ。しかし父上の真意がわからない今、これ以上彼女に近づく事はお控え願えますでしょうか。」
「念のため言っておくが、とどめをさしに来たわけではないぞ。」
「信用致しかねます。」
何故王をそれほど拒むのか、エリーにはわからなかった。
しかも今の言い方は、まるで王が硝子を傷つけたようではないか。
エリーの混乱をよそに、王は肩をすくめると、徐に首飾りへと手をかけた。
「まぁいい。今お前の信用は必要ない。いるのは人手だ。…ウィリアム、兵を一部隊連れてあいつを追え。」
「魔の泉へですか?」
「そうだ。」
「まさかあいつ、一人で魔狩りへ!?」
ウィルが声を荒げると、王の言葉を補足するようにセルファルカが言った。
「お前がこの城に来る前から、あいつは理性を失うとその力のはけ口にあの場所を選んでいたんだ。…そのたびにボロボロになって帰ってきた。」
セルファルカは痛みを堪えるように拳を握ると、顔を上げてウィルを正面から見据えた。
「行ってくれ、ウィル。リガロはここに残って彼女を診ていてほしい。彼女を死なせては、ジェイはもう戻らないだろうから。」
リガロは頷くと、腰の袋から針をいくつか取り出した。
「いざという時使え。麻酔が塗ってある。」
「あぁ。」
ウィルはそれを受け取ると、すぐさま部屋を出て行こうとした。それを王が引きとめる。
「これを持っていけ。」
王は外した首飾りをウィルに投げ渡した。金の鎖の先には、透明な水晶のような石が嵌めこまれている。
「城の地下にある陣を使え。それがあれば陣は発動し、魔の泉の入り口まで瞬時に移動できる。ただし行きだけだ。帰りはどこかで馬を調達せねばなるまい。」
「何故このようなことをなさるのです。」
ジェイランディスが我を失う理由を作った張本人が、ジェイランディスを助けようと動く理由がわからない。息子だからという理由なら、初めから硝子に手を出さねば良かったのに。
王は誤魔化せないと悟ると、初めて感情を表に出すように苦笑した。
「あやつに憎まれるのが、わしの役目故な。」
それだけ言うと、王はまた元の真剣な表情に戻った。
「愚息を頼む。」
「御意に。」
ウィルは首飾りを握りしめると、城の地下へと走った。