第11話 迷い、惑い、知らぬ振り
真っ青な空に、白い雲のコントラスト。
太陽は天高く昇り、その恩恵を得ようと緑は目一杯その葉を広げ、日に当たった風は生温い空気を部屋へと運ぶ。
鳥はその身を軽やかに踊らせ、惜しげもなくその美しい歌声を響かせる。
だがそれらの心を落ち着かせるはずの光景は、今の私にとって苛立ちを煽る要因にしかなりえなかった。
鬱陶しいくらいの快晴。
このやかましい鳥の声も、今日で何日目だろう。
いい加減雨でも降らないか、と空を見上げるが、残念ながら青い絨毯に堂々と胡坐をかいて居座る太陽を阻むものは何もない。
ディオスクロイに季節という概念は無く、言うなれば年中春のような陽気だ。
凍えるほど冷えることもなければ雪も降らない。
けれどもその中に寒暖の差というものは存在し、今日は特にじわりと汗をかくほど暑かった。
暑いのは苦手だ。
まだあちらの世界では熱さを緩和できる空調があったから良かったものの、電気が通っていないこちらに当然そんなものは存在しない。
こちらで得られる涼と言えば日陰の風と雨くらいなのに、先ほど言った通り、今日は恵みの雨は期待できない。
勿論室内でも日陰は得られるが、木陰の下の様な清涼な風を得ることは難しい。
自室と執務室しか出入りを許されない今の私に、得られる涼など皆無だった。
ただ一つ、この鉄の塊だけを除いて。
手首を動かせば、チャリ、という金属が奏でる硬質な音。
ずしりと重いそれは、体温だけでなく気分まで降下させた。
出来れば一生、世話になどなりたくなかったモノ。
「そんなに嫌そうな顔するなよ。今日みたいな日には気持ちいいだろう?」
瑞々しいオレンジのような髪を揺らし、にやりと口の端を上げるウィルに無言を返す。
確かにこの冷たさは心地よいが、それを口に出してはいけないような気がした。自分にマゾヒストの気はないはずだ。
今現在、私に涼を与えるそれは、本来なら罪人が動きを拘束される為に使われるもの。
――所謂、手錠だった。
今日はいよいよ王との謁見。
身支度を整え、後は迎えを待つだけという段階で、不意にウィルがやってきた。
部屋へ来るなり「手首を貸せ」と言われ、言われるまま差しだしたらこれだ。
「どういうことか説明してほしいんだけど。」
嵌められた手錠に視線を落とせば、ウィルが答える。
「謁見に立ち会う神官のじじ共からのお達しだ。『王の前に何の枷もない獣を置くなどありえん。従わせるというならそれ相応の扱いをせよ』、とな。」
…成程、完全に野獣扱いか。
自分に対して皆が皆好意的でないことはオネルヴァの件も有ったので分かってはいたが、それでもこうも明確に獣扱いされると流石に傷つく。自分にも人としての矜持があったらしい。
しかも、神の御使いたる神官が、見もしない存在を獣と位置付け完全に蔑んでいる。
神職につく人間に存在を否定されると、こちらの世界の神に、もっと端的にいえば世界自体に拒否されているような気がした。
再び急降下を始めた気持ちを慰めてくれるのが、この手錠の冷たさだというのにも泣けてくる。
「ねぇ、やっぱり可哀想だ。どうにかならないのかい?」
私の表情を読んでか、ソファーの背もたれに腹を乗せて肘をつくセルファルカが言った。それに対しウィルは呆れたように口を開く。
「俺に言わないで下さいよ。あの捻くれじじ共には関わりたくありません。それに俺が行くより、現王の直系である殿下の方がよっぽど説き伏せやすいと思うのですが。今から行ってきたらどうです?」
「嫌だよそんな面倒臭い。私は神官達に受けが悪いんだ。」
心底嫌そうに眉を寄せるセルファルカの反応が分かっていたのか、ウィルは「やっぱり」と大きなため息をついた。
「何もする気がないなら黙っていて下さい。というか、どうして殿下がここに居るんですか。」
ジェイランはとっくに謁見の間に行っています、というウィルの言は無視して、セルファルカはこちらへ視線を向ける。
「だけど君だって嫌だろう、手錠なんかさせられるの。」
「…私に嫌も応も有りません。どうせもう決定事項なら黙って従うまでです。」
私は半ば自嘲気味に笑った。
罪人でもないのに手錠をかけられるのは不本意ではあるが、必要ならば仕方がない。そう言うと、呆れと驚愕が入り混じった何とも微妙な表情をセルファルカは浮かべた。
「なんだって君はそう自分の事なのに諦めが早いんだろうか。少しは嫌がるとかそういうのは無いのかい?」
「期待に添えず申し訳ありませんが、無駄な抵抗はしない主義なんです。」
川に逆らって泳ぐより、笹舟のように流れに身を任せる方がずっと楽だ。
面倒になると考える事を放棄する自分の悪い癖。
直そうと常日頃から思ってはいたが、今回ばかりは助かったかもしれない。神官達の認識など、考えた所で苛立ちが増すだけだ。
それでも、若干の八つ当たりくらいは許してほしい。
「手錠を要求した神官方に、わざわざ『面倒な』交渉をしに行く手間も省けて良いでしょう?」
「嫌味だねぇ。結構根に持つタイプかい?」
「さぁ。」
それだけ答えると、窓の外を見遣る。
相変わらずの青い空。
こちとら絶賛気分急降下中だというのに、まるで嘲笑うかのように太陽は照りつける。やはり自分はこの世界に嫌われているらしい。
「どうしたんだい?今日はやけに反抗的じゃないか。」
「そりゃこんな扱いされればやさぐれますよ。」
手錠に視線を戻すと、いつの間にか側に立っていたセルファルカは私の髪に挿してある白い花をそっと撫でた。
「それだけじゃないだろう。」
「え?」
顔を上げると、そこにはジェイとよく似た、けれども決定的に違う緑の瞳。セルファルカは全てを見透かすようにその瞳をすっと細めると、言った。
「花の香りにでも酔ったかい?この間初めて会ったときは平気そうな顔をしていたのに。」
「!」
その言葉の意味を悟り、眉を顰める。
「普通、そういうのは気付いても言わないものだと思うのですが。」
「性分だからね。気になる事をそのままにはしておけないんだ。」
で、どうなんだい?と優雅に首をかしげるセルファルカ。
右肩にまとめた長い銀髪が、さらさらと音を立てて肩から零れ落ちた。
それをぼうっと目で追いながら呟く。
「いっそ酔えたら良いんですけどね。」
ジェイが私に『女』を求めていないことは承知している。自分もそれを拒んだ上でここにいるのだ。だから逆に女としての感情を向ければ、煩わしくなって城から追い出すことだろう。それくらいは容易に想像できた。
実際追い出されたとしても、言葉を覚えた今ではそれほど困ることはない。
市井に降りても職を探せる。
この容姿が気味悪がられるなら、西へ行ってみてもいいかもしれない。西は暗色系の色を持つというから、この髪と目の色でも浮くことはないだろう。
――そう、もう私がここに居る理由は無いのだ。
元々、ジェイの要求を呑んだのはこの世界で生きる術を身につけるためだったのだから。
(だったらどうしてまだここに居るの?)
心の中でもう一人の自分が問う。
朧気に見えるその像は、ほんの少し突き詰めればすぐに答えに達するだろう。
けれど私はそれをしなかった。分からないふりをした。
ただ暗示のように、同じ言葉を繰り返す。
――分からない。知らない。私は、何も。
暗い思考に陥りかけた時、さらりと頬を撫でる手があった。
「そんな顔をしないでくれ。せっかくのドレスが台無しだ。」
首をかしげると、セルファルカは「気付いてないのかい?」と苦笑した。
「泣きそうだよ、君。」
その言葉に、私は泣き笑いの表情を浮かべる。
「…だから、そういうことは気付いても言わないものだと、さっき言いませんでしたか?」
「同じ事を二度言わせるな、かい?」
セルファルカはくすりと笑うと、私の複雑に編まれた髪を崩さないよう頭に手を添えながらふわりと抱きしめた。
「大丈夫。捨てられたら今度は私が拾ってあげるよ。」
物騒な、けれど優しい声色で囁かれ、本気で泣きそうになった。
唇を噛んで堪えながら、ほんの僅か頭を預ける。
「飼い猫を解雇されてもまた飼い猫生活ですか。」
「私は行動を制限したりしないよ。行きたいところには行けばいい。」
「猫に帰省本能は無いんですよ?そのままどこかに逃げられる可能性もあります。」
「構いすぎても機嫌を損ねるだけだからね。美味しい餌を用意して気長に帰りを待ってるさ。」
「…魅力的ですね。」
「だろう?」
互いにくすくす笑うと、そっとセルファルカから身を離した。
オネルヴァに教わった通り、きれいに礼をとって見せる。
「ありがとうございます。少し、気持ちが楽になりました。」
「私のところに来る話、本気で考えておいてくれよ?」
「捨てられたら考えます。」
にこりと笑ってみせると、セルファルカも笑み返してくれた。
ジェイには「近づくな」と言われていたが、その笑顔にどこかほっとする。
「殿下、そろそろ行きますよ。」
「あぁ。ではまた後でね、ミラ。」
扉を開けて促すウィルに頷き、セルファルカが先に部屋を出た。
「じゃあ、俺たちは先に行く。準備が出来たら迎えを寄越すから、もう少し待っててくれ。」
「うん、わかった。また後で。」
ウィルも出ていくのを見届けると、傍のソファーに腰かけ、必然目に入った手錠を見つめる。
「猫、か。」
猫のように自由気ままに生きていけたら、どんなにか。
そう思いかけ、頭を振った。
仮定の話など無意味だ。
自分は今ディオスクロイという国に居て、ジェイランディスという人に飼われている。これが事実で現実。それ以外は必要ない。
――首輪じゃないだけまだましだと思おう。
それだけで、ほんの少し気持ちが軽くなったような気がした。