第8話 もう一人の王族
「ショーコ様、お茶をお入れいたしましょうか?」
「ユィ、レイア。(うん、お願い)。」
頷くと、彼女は「わかりました」と頭を下げて部屋を出て行った。
言葉を教えてほしいとジェイに頼んでからしばらくたったが、ごく簡単な日常会話なら、片言で話せるようになっていた。元々聞き取ることは出来ていたし、語学を勉強する以外他にすることもないので、言葉を覚えるのにそう期間は要しなかったのだ。読み書きについてはまだまだ練習中だが。
「今日もお呼びがないのですね…。」
紅茶と菓子をチェスターに乗せて運んできた彼女――アンは、言葉が通じるようになってから親しくなったメイドだ。長い茶髪を耳の横で二つに分け、仕事の邪魔にならないよう三つ編みにしている。ちょこんと小さく乗った鼻に散るそばかすが可愛らしい。そのくりくりとした大きな茶の瞳を伏せて残念そうに溜息をつくアンに、隣のメイドが口を開く。
「きっとお忙しいのでしょう。今朝、廊下で何やらウィリアム様と難しい顔をしてらしたから。」
おっとりと喋る金髪ボブカットの彼女はエリー。
人形のような整った顔立ちをしており、黙っていれば今頃どこかの貴族に嫁に行っていてもおかしくないのだが、彼女、こう見えてなかなかの毒舌である。
溌剌としたアンとは対照的ではあるが、逆にそれが良いのか、二人は仲がいい。
当初、私の外見に怯えていたメイド達であるが、言葉が通じてからはその態度も軟化している。私が努めて大人しくしていたことも功を奏したようだ。その中でも特にこの二人は順応性が高いらしく、最近ではこうしてお喋りをするのが日課となりつつある。
「お呼びがないほうが平和でいいわ。今日も思う存分、ショーコ様の御髪で遊べますもの。」
「昨日も、遊んだ。」
「いえ、まだまだ足りませんわ。」
にこりとほほ笑むエリーに黙る。彼女に逆らってはいけないということはここ数日の間に学んでいた。
「でも、ショーコ様はジェイランディス殿下の“ミラ”でいらっしゃいますのに。」
アンの言う『ミラ』とは、こちらの古い言葉で『猫』という意味だ。これはエリーに聞いた話なのだが、下働きの者達が「ペット」と口にするのは少々抵抗があるらしい。王子の所有物となれば丁重に扱わねばならないし、やはり女を侍らすということはそれなりの意味を持つ。それなのに、昼間から「王子がペットをお呼びです」なんて言えるはずもない。
ということで、下働きの者たちが私をなんと呼ぶか協議の結果、ミラとなったらしい。
言葉が通じるようになってからは名前で呼んでくれて構わないと言っているのだが、ミラという呼び名の方が先に浸透したこともあり、今でもそちらで呼ばれることがある。
それから、「ミラ」という言葉には「猫」という以外に「癒し」という意味があるらしい。
多分後者の意味で使ったのだろうアンに、私はけらけらと笑ってみせた。私なんかより、アンとエリーの方がよっぽど癒される。
「私、癒し、違う。アン、エリー、ミラ。」
アンが入れてくれた紅茶に口をつけ、クッキーのような焼き菓子を口に放る。この組み合わせが一番おいしいと最近気づいた。今の私のお気に入りだ。
「私共なんてとんでもない。」
ふるふると首を振るエリーにアンが力強く頷く。
「そうですよ!現に殿下もショーコ様をお望みでいらっしゃるではありませんか。」
「ジェイ、黒、珍しい。」
そう、あれはただ物珍しから私を側に置いているだけだ。
くるくると指先に自分の髪を巻きつける。
こちらへ来てからというもの、メイドさん達の努力の甲斐あって(主にエリー)、髪の色艶は大変良い。流石だ。
「確かに、ショーコ様のお色は珍しくありますけれど…やはり西の出身なのですか?」
16歳のアンは、若い事もあって興味がつきないらしく、周りが聞きにくいことをずばりと聞いてくる。変に気をつかわれても困るので、私としてはそっちの方が有り難いが、隣に立つエリーはアンの質問に心なしか苦笑している。
ちなみにエリーは23歳。
自分より年上と聞いた時は大変焦ったのだが、敬語を使おうとするとあの笑みで凄まれてしまった。他のメイドさん達にも自分に敬語を使う必要はないと言ったのだが、身分上そうはいかないと頑として譲らなかったので諦めた。…身分というなら自分とて平民なのだが。
「何故、西?」
問うと、アンの代わりにエリーが答えた。
「西の出身の方は、基本的に暗色系の髪と目の色をお持ちですので。」
「ユィ。でも私、分からない。気付く、森。」
無闇矢鱈に素性を明かすな、というのはウィルの言である。
するとエリーが「おかわいそうに」と溜息をついた。
「それは大変でしたね。気付いたらあの森だったなんて、相当ショックだったのでしょう。」
「そうですよね、言葉もお忘れになってしまったのですものね。」
「……。」
初めから知らなかった、とわざわざ訂正する必要はないだろう。
慰めるようにアンが入れなおしてくれた紅茶に口をつけると、いきなり廊下が慌ただしくなり、なんの前触れもなく扉が開いた。
「アン、エリー!」
焦った様子のメイドに、エリーが眉をひそめる。
「ミリア、いきなりなんですか。ショーコ様に失礼でしょう。」
エリーが叱責するような言葉を投げると、ミリアと呼ばれた彼女は我に返った様子で勢いよく頭を下げた。
「も、申し訳ありませんミラ様!」
気にしなくていいと軽く手を振ると、首を傾げて見せる。
「何か、あった?」
「あ、あの、先ほど市井より取り寄せた荷を運んできた馬が、騎士達の演習の声に驚いて暴れたせいで、食糧庫が目茶苦茶なのです!このままでは夕餉の支度に間に合わなくて…!」
「ショーコ様」
エリーの短い問いに頷く。一応彼女達の主人は私なので、一々外出許可を出さねばならないのだ。
「行って。私、大丈夫。」
「はい。すぐ戻ってまいります。」
頭を下げると、三人はぱたぱたと走って部屋を出て行った。
本当は私も手伝いたいのだが、独りで城を出歩くことは禁じられているし、この容姿で人を怯えさせてしまうことは容易に想像できた。ソファーに寄りかかり、天井を仰ぐ。
『面倒臭いなぁ…』
「何が面倒臭いんだい?」
「!」
思わず日本語で呟くと、誰もいないはずの部屋に声が響いた。
がばりと起き上がって正面を向くと、いつの間にか向かいのソファーに一人の男が腰かけ、私の飲みかけの紅茶を啜っていた。
「やぁ、初めまして。君がジェイの飼い猫…だね?」
長い銀髪を右肩に流して飾り紐で縛った男は、確かめるように首を傾げた。
そのどこかで見たことがあるような微笑みに眉を顰める。
「誰?」
突然の登場に驚き上ずる声に、男はティーカップを持ちながら「おや」と器用に片眉をあげた。
「こちらの言葉を話せるのかい?」
「聞いている、私が。…質問に質問で返さないでください。」
後半は日本語で聞いた。ばれているのなら手間が省けていい。
すると男は面白いものでも見るように、すっと新緑を思わせる深い緑の瞳を細めた。
「だったら、先に質問したのは私だ。私は『何が面倒臭いんだ』と聞いたはずだね。君の言葉を借りるなら、君が先に答えるべきだよ。」
人の揚げ足を取るような言い方にむっとはしたが、反論の余地はないので答える。
「何が、と言われても困るのですが…まぁ、あえて言うなら柵でしょうか。」
「柵?」
「えぇ。こんな色をしているせいで、自由に外には出られませんので。私の特殊な立場もありますし。」
だから彼女達の手伝いにも行けない。事実を言ったのに、男は顎に手を当てるとくすくすと笑いだした。
「へぇ。女にしては面白いことを言うけど、外に出られないのはその色だけが原因じゃないんじゃない?」
「どういう意味です?」
「ジェイだよ、ジェイ。随分と君の事を好いているだろう。」
その問いには首をかしげる。
「…さぁ、どうでしょう。面白がっているとは思いますが。」
「執務室にまで君を呼んでいるんだろう?ジェイにしてみればよっぽどの事だと思うんだけど。」
「では逆に聞きますが、貴方は好きな女がいるのに夜な夜な花町へ出かけたりするのですか?」
男はぽかんと口をあけると、次の瞬間大口をあけて笑った。
「あははははは!なんだあいつ、自分で気付いてないのか…!」
何が面白いのかわからないが、私は黙って笑いが収まるのを待った。こういう時は何を言っても無駄なのだ。
「くっ…はは…あぁ、面白い。こんなに笑ったのは久しぶりだ。」
「そうですか。」
「で、君はなんでジェイが花町に通っているなんて思うんだい?」
興味深げに緑の瞳が瞬く。なんで名も知らぬ男にこんな話をしているのだろう。まぁ暇だからいいけど。
「執務室へ呼ばれると、時々いつもと違う香水の香りがしますので。」
「あぁ、そういうことか。私も気をつけないとなぁ。」
ソファーの背に腕を置いて肘をつく男に、私はそろそろいいだろうかと問いかける。
「それで、私の質問には答えてくださるのでしょうか。」
「ん?」
「貴方が『誰か』という問いです。」
「あぁ、それかい?」
男は立ち上がると、テーブルを回って何故か隣へ腰を下ろした。
私の肩に手をまわすとぐいと引きよせ、至近距離で見つめ合う。
「…っ?」
新緑の瞳を目にした瞬間、一瞬、くらりと目が眩んだ。
それを見計らったように、男は掠れた声で言う。
「その前に、君の名前を教えてくれると嬉しいんだけどね?」
私は軽く頭を振ると、男を横目で見る。
「質問に質問で返さないで下さいと言ったはずです。同じことを二度言わせないでください。」
一刀両断すると、男は不思議そうに瞬いた。
「…へぇ、効かないんだ。」
「何がです?」
「ふふ、なんでもないよ。」
意味深に笑う男にますます気分は降下する。
私は緑の瞳を冷たく見返した。
「色仕掛けか暗示でもしようとしたんですか?それが人に名をたずねる時の王族の礼儀とは知りませんでした。」
「私が王族だとわかった上で名乗れと?」
「王族の前に人としての礼儀だと思うのですが。」
日本語を理解している時点で彼が王族だということは分かっていた。しかもこの銀髪だ。名乗られずとも自ずと彼の身分など知れる。
私の物言いが不敬にあたることは分かっていたけれど、ここまで来て後には引けなかった。
「貴方の弟さんも先に名乗りましたよ。」
すると男は気分を害した様子もなく言った。
「へぇ、そこまで分かっていて随分強気なんだね。」
「安心してください。言ってから後悔しました。」
「はははは」
再び一頻り笑うと、男は肩に回していた手を私の頬にするりと滑らせた。
「いいなぁ、ジェイのやつ。こんなに面白いものを拾ってきて。」
「落とし物みたいに言わないでください。」
「だって実際拾ってきたんだろう?」
確かにそうなのだが。
憮然としていると、ドタドタという足音とともに扉が勢いよく開かれた。壊れるのではないだろうかこの扉。そんな事を思いながら男の肩越しにそちらを見やる。
「ジェイ…」
現れたのは、久しぶりに見る飼い主の姿だった。
久しぶりとは言っても、ここ三日の話なのだが。
きれいな銀髪は走ってきたのか見事に乱れ、部屋にいる私と男を目にした途端、いつもは感情のこもらない青の瞳が怒りに染まった。
「セルファ、その手を離せ。」
傍から見れば抱き合っているような格好――とはいっても私の両手は膝の上にあるのだが、ジェイは不機嫌そうにそれを見ると開口一番そういった。
それなのにセルファと呼ばれた男は意に介する様子もなく、どころかジェイを一瞥すると挑発するようにわざと私に体を寄せた。
「まだ自己紹介していないんだ。先に呼んでくれるな。」
「そんなことはどうでもいい。さっさとその手を離せ。切り落とすぞ。」
言いながら腰に下げた剣に手をかけるジェイに、それまで静観していた私も流石に焦った。
「ジェイ」
声をかけると、ジェイは男から視線を外して私に向かって言った。
「来い。」
その短い命令の言葉に、私の胸がどくりと鳴る。
「来い、ショーコ。」
それはどこか聞き覚えのある、懇願するような響き。
――俺が望むとき傍にあれ。
あの夜の、一瞬だけ歪んだ彫刻の様な顔が蘇る。
言い表せない衝動に駆られ、いつの間にか解かれていた戒めから抜け出すと、ジェイの胸に飛び込んだ。
私を揺らぐことなく受け止めると、腕を回してくるジェイに何故かほっとする。
背後で男が立ちあがる気配がしたが、そちらを向こうとして大きな手に阻まれた。
「セルファルカ・メナ・アレス・ディオスクロイ。…私の名だ。覚えておいてくれ。」
それだけ言うと、入ってきたときと同じように、セルファルカは音もなく部屋を出て行った。
「………」
そのまましばらく抱き締められていたのだが、だんだん冷静になってくると、どうしてこんなこんな状況に陥っているのかと疑問が湧いてきた。
ジェイの腕から抜け出そうと身じろぐが、どうも離してくれる様子がない。
顔を上げようとするも、頭の後ろに置かれた手に阻まれたままそれも叶わない。
それでもじっとしていることが出来ず、ジェイの胸に置いていた手を広い背中に回してぽんぽんと叩いてみると、肩に回されていた腕が腰にまわり、より一層抱きしめられた。
どうかしたのかと聞ける雰囲気でもない。
仕方なく、別の話題を投げてみる。
「仕事は?」
そう問えば、短い答えが降ってくる。
「抜けてきた。」
やっと一息つけたように息を吐くジェイの吐息が耳にかかり、一瞬どきりと心臓が脈打った。
それに気付かないふりをしながら言葉を紡ぐ。
「抜けてきたって、大丈夫なの?」
「ウィルに任せてきたから問題ない。それより、何かされなかったか?」
「いや、特には。というかどうしてジェイがここに?」
「食糧庫で騒ぎがあったと聞いて、もしやと思って来てみれば案の定だ。」
ちっ、と舌打ちをするジェイだが、私には何が何やらさっぱりだ。
「どうして食糧庫で騒ぎがあるとここに来るのよ?」
「この騒ぎを起こしたのはあいつだ。」
あいつ、とは恐らくセルファルカの事だろう。
「どうしてそんなことを。」
「お前に会いに来たに決まっている。」
ジェイは憎々しげに言葉を吐いた。
「お前の噂をどこかから聞きつけたのだろう。…あいつにだけは情報が回らないよう手を打っておいたのに。」
つまり、私の噂を聞いていてもたってもいられず、あんな騒動を起こして人払いをしてまで会いに来たということらしい。
「あれ…部屋の外の見張りは?」
食糧庫へ向かったのはメイド達だけだ。見張りがいればセルファルカがこの部屋に入ることは叶わなかったはずなのだが。
「眠らされている。」
…なんと言うか、目的のためには手段を選ばない人だな。
というか普通、人に会うためだけにそこまでするか?
「全く…なんでこう面倒なことが一度に起こるのか…」
珍しく疲れたように溜息をつくジェイに首を傾げる。
「何かあったの?」
「あぁ、あった。」
久しぶりの感触を楽しむように私の髪を梳きながら、ジェイは言った。
「一週間後、王への謁見が決まった。」
「誰が?」
「お前が。」
いきなりの飛躍についていけなくなりそうだったが、黙ってジェイの話に耳を傾けた。
「王にもお前の事が知れたんだ。まぁ、セルファに知れた時点でそれは分かっていたのだが。それで、どうしてもお前に会ってみたいと。だがお前は魔の疑いがあるから、王に護衛をつけるためにも非公式というわけにはいかない。だから、お前に礼儀作法を習ってもらわねばならなくなった。」
王といえばこの国の最高権力者。
そんな人物の前に出るのだったらそれくらいのことはやって当然なのだが、妙に不機嫌そうなジェイの声音が気になった。
「それはいいけど、なんでそんなに嫌そうなの。」
「お前と居る時間が減る。」
間髪いれずに返ってくる返答に、聞き間違いかと顔をあげて青の瞳を覗き込んだ。
「…まさかとは思うけど、私が字を教えてくれと言った時、微妙に渋ったのもそれが理由?」
「……悪いか。」
眉根を寄せて肯定するジェイに、私は抱きしめられていることも忘れて噴き出した。
「ぷっ…くくっ」
「…ショーコ。」
「くく…ははっ…ご、ごめ…止まんない…!」
ジェイの胸に額を押しつけて笑いをこらえようとするも、肩が小刻みに震えるのを止められない。
ジェイは私を抱きしめながら、ぎゅっと鼻にしわを寄せた。
「何故笑う。」
「だ、だって…子供みたい…!」
「言ったはずだ、俺は子供だと。」
「そんな自信満々に言われてもねぇ。」
むっと眉を寄せたジェイは、私の揺れる黒髪を背中に流すと、露わになった首に咎めるように軽く歯を立てた。
くすぐったさに首をすくめると、今度は唇を押しつける。
そっと首のラインをたどり、最後に軽く吸いついてから唇を離した。
「お前を呼びたくても謁見の準備に追われて叶わなかった。…忌々しい。」
「あーよしよし。」
笑いながら背中を撫でると、さらに抱きしめられた。それを苦しく思いながらも、感謝をこめて軽く抱き返す。
「来てくれてありがとう。私一人じゃどうしていいかわからなかった。」
「あいつにはもう近づくな。」
「近づくなと言っても、向こうから来られたら仕様が無いでしょ。ていうかなんでそんなに嫌ってるの?お兄さんなんでしょ?」
「兄だから嫌いなんだ。昔から俺のものを横取りする。」
どこの世界でも兄弟とはそんなものなのか。
私はくすりと笑った。
「なるべく気をつけるよ。」
「なるべくでは駄目だ。絶対近づくな。」
「私、“絶対”って言葉は嫌い。約束できないから。」
「………」
「鋭意努力します。これじゃ駄目?」
「…それならいい。」
納得がいかないまでも渋々頷いてくれたジェイに「ありがとう」と微笑んだ。
こちらの世界へ来て初めて、心から笑ったような気がした。