間章 愛玩動物の観察
魔の泉より生まれ出でし黒髪黒目の女を、下の王子が飼っている。
その噂は、城内でまことしやかに囁かれていた。
とうとう魔を人の下に降したという者もあれば、王子は魔に利用されているだけだという者もいるが、その真相は誰にもわからない。
(本当に、わからない女だ。)
机を挟んで向かいに座る件の女を盗み見ながら、ウィリアム・カスト・ジュードは思う。
その存在、言動、価値観全てが奇々怪々。
人の心を読むことに長け、驚くほど手のかからない女だった。
◆◆◆
『夜のお相手なら遠慮したいのですが。』
魔の泉で女を捕らえた時、初めに驚いたのがこの言葉だった。
女を飼うことの意味を正確に理解し、警戒している。
ジェイランディスの容姿は、幼馴染の自分が見ても相当なものだと思う。今まで、初対面で頬を染めなかった女を自分は知らない。なのに、魔狼から逃げる時助けを求めて来なかっただけではなく、ジェイランディスと関係を持つことを拒否した。ジェイランディスが王族であると知ったのに、だ。
ありえない。真っ先にそう思った。
媚を売り、身を売り、甘い汁を吸おうとする女達を山ほど見てきた。その中で彼女は異質と言える。
(魔だから、なのか?)
それとも、口ではそう言っておいてジェイランディスの気を引く気か。
『案ずるな。お前より抱き心地のいい女など腐るほどいる。』
ジェイランディスも同じことを懸念したのだろう。事実ではあるが、その言葉は女にとって侮辱となる。が、彼女の言葉は見事に二人の予想を裏切った。
『でしょうね。それを聞いて安心しました。』
心底安心したという表情の彼女に唖然とすると、彼女は不思議そうに首をかしげた。
――本当に、ジェイランと交わることを拒否している。
女としてはありえない反応に、ウィルはますます警戒を強めた。
だが、その後のジェイランディスの言葉に青褪める。
『俺が連れていく。』
リガロの針を受け、歩けない彼女を、ジェイランディスが運ぶと言いだしたのだ。
『馬鹿、何言っているんだ!わざわざお前が魔を運ぶ必要はないんだぞ!?』
即座に反論したが、ジェイランディスは聞く耳持たない。
『リガロ、外せ。』
リガロに命じて彼女の足の針と腕の拘束を解かせようとしたが、いくら命令とはいえ流石に彼も一瞬躊躇した。
『リガロ。』
促すようにその名をもう一度呼ぶと、リガロは諦めたように拘束を外した。腕の支えを失い崩れる彼女を、リガロよりも先にジェイランディスが抱きとめる。
『ジェイラン、そいつから離れろ。』
怒鳴りつけたいのを堪え、低く、ゆっくり言葉を紡いたが、ジェイランディスは女を横抱きにするとウィルに背を向けた。
『ジェイラン!』
『黙れ。』
背を向けたまま、何の感情もこもらない声が響いた。
『これは俺のだ。』
その子供のような主張に、ウィルは眉を顰めた。
警戒の対象となるべき彼女をその腕に抱き、他人の手が彼女に触れる事を嫌った。
(…何を恐れているんだ?)
言動の読めない幼馴染にウィルは混乱した。
そもそも今日のジェイランディスはおかしい。
いつもなら、魔狩りの日は鋭い刃物のような冷気をその身にまとい、一切を寄せ付けない雰囲気を醸し出していたはずなのに。
今日は月を見て笑っていた。
彼女を見て、笑っていた。
(月に狂わされたか、それとも)
――彼女に魅せられたか
(まさかな。)
彼女の額に口づけるジェイランディスを見遣る。言葉を通じるようにしてやったのだろう。普段は見せないその気遣いに、先程の疑問が否定出来なくなる。
『どうする。まだ仕込み針はあるが。』
近づいてきたリガロに、諦めの溜息をつく。必要ならば二人まとめて眠らせる、と言いたいのだろう。
『いや、やめとけ。ああなった時のジェイランは止められねぇよ。それに、お前の首が飛ぶ。』
友人の短い問いにそう答えると、ジェイランディスの後を追って森を出た。
宿につき、彼女の髪を見つめていたジェイランディスのあの目も気になる。
あんな熱のこもった目を、これまで見た事は無い。
言葉にできない疑問は不安に変わった。
それからいくら近づくなといっても、ジェイランディスは彼女を離そうとはしなかった。
そして宿を出る日、偶然知った彼女の年齢に舌打ちしそうになった。
幼く見えた彼女の容姿に、高をくくっていたのだ。
いくら人の姿をしているとはいえ、まさか年の離れた女にまでジェイランディスが手を出すことはないだろう、と。
こめかみに指を当てると、女は「どうかしたのか」と首をかしげたが、何も言う気にはなれなかった。年を聞いたジェイランディスの顔が笑みに歪んだのは嘘だと思いたい。恐らくあれは無意識だ。本人も気づいてはいまい。
そしてまたもや自分で彼女を運ぶと言いだしたジェイランディスに当然反論したが、やはりジェイランディスは折れなかった。
『…手首でも縛る?』
憐みの目を向けてくる彼女に力なく首を振る。
(何故、魔に気を遣われているのだ。)
傍から見れば随分と滑稽に映ったことだろう。
王宮に着くと、彼女を部屋へと連れて行った。
そこがジェイランディスの隣室だと知った時の彼女の反応は、つい昨日まで寝込んでいたとは思えないほど早かった。
『ちょっと待って、隣がジェイ!?普通もっと離すでしょう!私のような素性もわからないやつをほいほい王族の近くに住まわせていいの!?』
彼女も混乱していたのだろうが、その尤もすぎる抗議に女だということも忘れて思わず反論してしまった。
『俺だって反対したんだ!初めは次期皇后の部屋に住まわせようとしていたんだぞ!?それを阻止出来ただけでもいいと思え!』
言ってから後悔した。こんなのはただの八つ当たりだ。しかも、彼女が『そっちの部屋の方がいい』だなんて言い出したら、今のジェイランディスは何が何でも叶えるだろう。けれど、またもや彼女の反応はウィルの予想に反した。
『ありがとう!』
呆気にとられ、握られたその手を思わず見下ろした。
何故、礼を言われた?
すぐにはその理由に思い至らなかった。
しかし次いで怒り出した彼女に得心すると同時に、その頭の回転の速さに舌を巻いた。
彼女には既にジェイランディスの身分を明かしてある。
きっと、ジェイランディスの隣室に住むことがどういうことか、理解したのだろう。
(一体何者なんだ…)
その言葉は喉まで出掛かったが、部屋に現れたメイド達に捕まった彼女に問うタイミングを失い、仕方なくウィルはその場を離れた。
彼女が現れてから三日目。
相変わらずジェイランディスは彼女にべったりだが、彼女がジェイランディスに媚びる様子はない。どころか、随分とつれない態度を取っている。
先程までは執務室で彼女に文字を教えていたのだが、あまりにしつこく自分を呼ぶジェイランディスに彼女が我慢できなくなり、今はジェイランディスが止めるのも聞かずに彼女の部屋へと移動してきたところだ。
「はぁ、やっと静かになった。」
人払いをし、持ってきた文字練習の書物をテーブルにおろすと、彼女はどさりとソファーに腰かけた。
「ジェイったら、静かなのは最初だけじゃない。あんなに頻繁に声かけられていたんじゃ集中出来ないっつーの。」
『…お前って、時々男みたいな物言いするよな。』
単なる感想を口にしただけなのだが、彼女は肘掛に肘をつくとむっと唇を尖らせた。
「お前。」
『は?』
「教えたでしょう、名前。ウィルってば、あれから一度も私の事名前で呼んでないの、気づいていた?」
不機嫌そうに呟く彼女――硝子に、先程までの敵意を忘れて「悪い」と反射的に答えた。
『気付かなかった。…というか、どうも発音しにくいんだよな。』
「まぁ、こちらの言葉ではないしねぇ。で?」
『で?』
何を聞かれているのか分からず鸚鵡返しに尋ねれば、硝子は肘をついたまま言った。
「色々聞きたいことあるんじゃないの?私の出身とか、出自とか。」
『!』
ウィルは体を強張らせた。常々聞きたいとは思っていたが、まさかそれを硝子に言いあてられるとは思っていなかったのだ。
『なんで…』
「なんでって、あんな目を向けられたら誰だって気づくでしょう。そもそも素性も分からない奴が目の前に居れば聞くのが普通なのに、ウィルもジェイも聞いてこない。時々『日本』とか『私の国』とか会話に混ぜて尋ねやすいようにしたのに、それでも質問してこないし。少なくともウィルは聞きたそうにしていたからここに連れて来たんだけど、違った?」
ウィルは片手で顔を覆った。
『…降参だ。お前、人の事よく見てるな。』
「『お前』じゃなくて?」
『ショーコ。』
苦笑しながら呼ぶと、硝子は満足そうに頷いた。
「で、何で聞いてこなかったのよ。逆に私の方がやきもきしたわ。」
ソファーから立ち上がり、人払いをした際メイドが置いて行ったキャスターへと近づく硝子を目で追いながら、言った。
『わかんねぇ。』
「わからないの?」
馬鹿にするでもない単純な問いに頷く。
『あぁ。ジェイランが何を考えているのか、さっぱりだ。』
硝子がいれた紅茶を受け取る。口をつけると花の香りが広がった。旨い。自分の分も入れてソファーに戻ってくる硝子に、身の回りの事を自分で出来る女もいるのだと感心した。下働きの者や市井の者たちが身の回りの世話を自分で出来ることは勿論知っているが、硝子の理知的な言動はどこか貴族然としたものを感じる。なのに気取った所がない。
(不思議な女だ。)
ウィルはもう一度ティーカップに口をつけた。
『俺も、はじめはいつかあいつが聞きだすのだろうと思っていた。が、いくら待ってもその様子がない。』
やきもきしていたのは俺も同じだ、とウィルは言った。
『多分、お前がこの国の人間でないことはとっくに気付いているんだろうが、どうもその先を聞きたがらないんだ。お前の言うように、素性も分からない奴をあいつの側には置けない。だから何度も聞こうとは思ったんだ。だが』
「いつもジェイが私の側にいたせいで聞けなかった、と。」
ウィルは頷く。本人にそう言われたわけではないが、ジェイランディスとは長い付き合いだ。言われずとも雰囲気で知れた。
――俺の前で彼女の国については聞くな、と。
『さっきの話だって、ジェイランは本当は聞きたくなかったんだ。お前に怪しまれない程度の質問はしていたけどな。そして結局、お前の素姓については一切触れなかった。』
「聞かれれば答えたでしょうね。」
そういうと、硝子はティーカップを置いてずいと身を乗り出してきた。
「それで、どうする?ウィルは私の国の事、聞く?聞かない?」
黒い瞳が、秘め事を共有する子供の様な光を宿す。
(魔もこんな顔をするのか。)
その光につられたわけではないが、硝子の話には個人的にも興味がある。ウィルは頷いた。
『聞かせてくれ。』
妙な感慨に浸りながら、硝子の途方もない話に耳を傾けた。