序章
一生遊んで暮らせる金、羨望の眼差し、他者が羨むような完璧な恋人。
そんな非現実的なものを欲しいと思ったことはない。
そして今後欲しいとも思わない。
望むのは、教授が気紛れでも起こしてレポートの締切が伸びないかとか、朝起きたら天変地異でも起こって授業が休講にならないかとか、そんなありそうで無いようで偶にある、些細なことばかり。
俗にこれを現実逃避という。
その現実逃避さえも、テレビのアナウンサーが明るく次の日の晴天を告げた瞬間に終わる。
明日も天変地異は無いらしい。
私は荷物をまとめて大学の食堂を後にした。
大学から徒歩三分のこのアパートで一人暮らしを始めて早三年。
カン、カン、カン、と上り慣れた階段を上り、疲れた溜息をつきながら目的の扉の前に立つと、専門書でずっしりと重い鞄の中を漁る。
(資料集めたあとにぼーっとテレビ見てたらすっかり遅くなっちゃったな。ったく、学期末だからってレポート多すぎだっつーの。)
心の中で一人ごちながら、小さな鈴のついた鈍く光る鍵を取り出す。踊場の明かりを頼りにしながら鍵穴にさしてひねると、ガチャリという、聞き慣れたいつもの開錠の音。そうしていつものように、外した鍵を持ったまま冷たいドアノブに手をかけると、手前に引いた。
瞬間、唖然とする。
「どこ、ここ…」
目の前に広がるのは、自分の部屋へと続く狭い廊下…ではなく、鬱蒼と茂る森。
――芹沢硝子、21。
これが、平凡な日常を過ごしていた私の非日常の始まりだった。