「心から愛せる人と結婚できる者が羨ましい」とあなたが言ったから
読みに来てくださってありがとうございます。
現在新しい連載作品の準備中で、少し時間が空きそうなので、どうにも浮かばれない感じのすれ違いなのかどうかもよく分からないようなものを短編でアップします。
よろしくお願いいたします。
「心から愛せる人と結婚できる者が羨ましい」
隣に立つ殿下がそう言った。殿下の目は、ただ庭園の片隅にいる女性の1人を見つめている。たいそう美しいその女性。子爵家の令嬢という決して高くはない身分の彼女は、実は少し離れた国の王女が駆け落ちしてこの国で生んだ娘だ。留学していた当時の子爵令息と出会い、恋をしてこの国に逃れてきた王女は、平民に偽装して名前も変えて、この国で子爵夫人となった。今は愛する夫と共に心穏やかに過ごしていると聞いたことがある。
「つまり、殿下はそういう結婚に憧れておいでなのですね」
「君もそうだろう? どうせなら恋い焦がれる相手に嫁ぎたいのではないか?」
私は殿下から見えない角度に顔の角度を変えてから、ぐっと唇をかみしめた。
「そうですね。ですが、私には嫁ぎ先を選ぶ自由はございません」
「それは私も同じだ」
これまでの態度から、殿下が私のことを何とも思っていないことなんて分かっていた。そう、分かりすぎるほどに。だって殿下は、私とのお見合いの席でさえ、彼女を目で追っていたのだ、気づかぬ方がおかしい。
「殿下。私は、恋い焦がれて殿下の元に嫁ぐわけではありません。ですが、嫁ぐ以上は妃としての務めは果たします。その務めには子を産むことは含まれない……そんなふうにしてはいかがでしょう?」
殿下が今日初めて私の顔を見てくれた。
「君は、何を……」
「殿下とて、意に染まぬ相手を抱いてまで子を儲けたいとはお思いにならないでしょう? その気にさえなれないのでは? 女性側も、愛してもいない相手に体を開くのはたいそう苦しいものだと聞いております。ならば、互いに心から愛し会える方に、殿下を精神的に支えること、子を産むこと……つまり、家庭的な側面は殿下のお心に適う方にお任せしとうございます」
「子を産む気がないのか?」
「殿下にイヤイヤ抱かれるのを喜ぶような趣味はございません。私はあくまで仕事の面で殿下を支える存在、それでよろしいのでは?」
「本当に、それでいいのか?」
「はい。それがお互いの幸せでしょう?」
「君には……思う相手がいるのか?」
少しだけ苦しそうに、殿下が言った。
「……いいえ。私にはそのような方はおりません。愛も恋も分からぬ、つまらぬ女でございます。明日は私たちの結婚式なのです。もうこの結婚は止められませんでしょう? 結婚して直ぐですとさすがに殿下に非難の声も上がるでしょうから、半年ほどたったら殿下のお望みの女性を傍に置かれてはいかがでしょう? 私のことは、昼間の仕事のパートナーとして扱っていただければ十分でございます」
「………………そうか」
私はそのまま殿下の前を辞した。こぼれそうな涙を隠すのに必死だった。
私が思う相手なんて、あなたしかいないでしょうに。
私の言葉は、体の中に溶けていく。誰にも聞かれてはならない、気づかれてはならない思いなのだ。
殿下はきっとこの話を彼女にするだろう。私のいないところで2人が抱き合って泣いていたという話は、王宮の侍女から聞いている。2人が結ばれて、その子が将来の王家を継いでくれればいい。正妃に子がいないなんていうのは、別に珍しい話でも何でもないのだから。
翌日、私は殿下と結婚した。壮麗な結婚式だった。誓いのキスは、殿下が手で隠して触れたように見せかけたが、全く触れあってはいない。一生に1回の、殿下とのキスまで失ったのだと思うと心はざわめいたが、うまく隠せたはずだ。
夜の披露宴を兼ねた舞踏会は、「仕事だから」としっかりエスコートもされた。お互いのビジネススマイルが痛いが、誰にも気づかれなかったはずだ。途中で「彼女」と目が合った。彼女の目が私を射抜くように見たが、その次の瞬間、殿下の方に視線を上げると蕩けるような笑みを浮かべた。この場でさえ敵意を見せる彼女とうまくやっていける自信がもてず、私は早く部屋に戻りたかった。
夜、私に「そういう目的」の夜着を着せようとした侍女に「殿下は来ないから普通のものにして」というと、泣きそうな顔をされた。実際に殿下は来なかった。来るとも来ないとも連絡はなかった。これでいいいのだ。
次の日から、私は殿下のビジネスパートナーとして精力的に働き始めた。侍女には厳しく言いつけておいたので、殿下が来なかったことは伏せられている。新婚なのだからまだ仕事なんて、と王妃様には言われたが、私はただにこりと微笑んで「殿下から、王太子妃としての能力を遺憾なく発揮してほしいと言われておりますので」と言えば、それ以上何も言われなかった。
私たちが昼間しか顔を合わせていないということは、1ヶ月もすれば王宮中の知るところとなっていた。国王陛下と王妃様には直々に呼び出され、子を産むことも妃の務めだと叱責されたが、私はただ「ふつつか者にて」と頭を下げるばかりだった。
「父上たちに呼び出されたと聞いたが?」
殿下が私の執務室に来たが、私は微笑んで「たいしたことではございません」と言い切った。
「それよりも、彼女を召し上げる話はどこまで進めていらっしゃるのですか?」
「ああ、今日父上たちに話す予定だ」
「では彼女の了解は取れたと」
「彼女の両親、特に夫人が喜んでいた。王女の身分を捨てたが、元は高貴な血が流れている娘なのだから妃であってもおかしくない。とはいえ、子爵の娘であれば側妃でも望外の喜びと言えるだろうと」
「側妃、ですか」
「不満か?」
「いえ、子爵令嬢ですと、慣例ならば愛妾の扱いだったと記憶しておりましたので」
「君は、彼女をそうやって貶めたいのか?」
突然殿下の声の温度が低くなった。
「滅相もないことでございます。ご気分を害されたのでしたら、どうかお許しください」
「彼女は、基本的に君とは関わらせないようにする。そもそも彼女を傍に置けと言ったのは君だろう? つまらぬ嫉妬などするな」
「嫉妬ではございませんが、そうお思いになったのでしたら私の言い方が悪うございました」
頭を下げ続ける私の前で、扉が乱暴に閉められた。
「いいんですか?」
事情を知る数少ない部下の1人が、私を気遣ってくれる。
「いいの。これが私の役割だから」
私は机に戻って、執務を再開した。それしか私にできることはなかったから。
結婚から半年後、彼女が側妃として王宮に上がった。公爵令嬢だった私よりも華やかな入内だ。入内には母である子爵夫人も付添人として着いてきたという。殿下との話し合いで、私は彼女と顔を合わせないようにすることが決まっている。挨拶も不要と言われたので、私はいつものように執務をこなしていた。
ふと、廊下の方で人が騒ぐような声が聞こえたような気がした。
何かしら?
その声は少しずつ大きくなってくる。何事かと部下と顔を見合わせたその瞬間、執務室の扉が許可もなく「バンッ」と開けられた。驚く私たちは廊下に立つ近衛兵を見た。青い顔をしているが、動こうとはしていない。
「あなたが王太子妃? 随分みすぼらしいのねえ。まあ、あなたみたいなのが妃になってくれたから、うちの娘が側妃に上がれたらしいのだけれど」
件の子爵夫人が、王女の風格で突撃してきたのだ。近衛兵たちが彼女を子爵夫人として扱うべきか王女として扱うべきかに迷った、その一瞬に入られてしまったのだろう。
「何かご用でしょうか?」
「あなた、側妃が入内するというのに、どうして挨拶にも来ないのよ?」
「殿下からは、彼女とは顔を合わせないようにと命じられておりますので。今日もご挨拶だけはとお伺いをたてましたが、不要と仰せになりました」
「はっ、それでも王太子妃なの? 随分と心が狭いのね。それとも、殿下の寵愛を家の娘に取られるのが怖いのかしら?」
いや、そもそも寵愛されてなんていません、とは言えない私が言うべき言葉は何だろうか?
その一瞬の隙を、子爵夫人は「是」と受け取ったようだ。
「ご心配なく。あなたのことなど目に入らぬほどに、殿下はうちの娘を愛していらっしゃるわ」
「知っています。私から彼女を傍に置くようにと申し上げたのですから」
子爵夫人の顔が突然変わった。
「あなた、正気?」
「ええ。それが殿下にとって一番いいことだと思いましたから」
「そう。自己犠牲に陶酔でもしているのかしら?」
「いいえ、役割分担です。私がいれば、彼女はここにある仕事をしなくてもすみます。彼女、昔、学園で勉強が嫌いだって泣いていたんですもの」
「っどうしてそれを」
「殿下の胸にすがって泣いていましたから……私の目の前で」
さすがの子爵夫人も、婚約者の前で娘がそんな行動に出ていたとは知らなかったのだろう、ばつの悪そうな顔をした。
「いいんです。これが私たちの幸せの形なのですから」
「あなた、お飾りの妃でいいの?」
「それが、この国が私に求めた役割です」
「わたくしは、それがいやだった。王女だからという理由で勝手に役割を与えられて、それを満足に果たせと言われるのが苦痛だった。だから逃げたのよ」
「そうですか。私はこの仕事が気に入っています。この国では女性が貴族家の後継者にはなれませんので、こういう仕事ができるのは文官か妃なんです」
「あなた、家を継ぎたかったの?」
「いいえ。学んだことを生かして、この国の役に立ちたかったんです。公爵令嬢として何不自由ない生活を送らせてくれたのは、公爵領の領民が納めてくれた税のおかげですから」
子爵夫人は、すっかり入ってきた時の勢いをなくしていた。
「もし、あの子のことで困ったことがあったら、わたくしに言ってちょうだい。わたくしの言葉なら聞くでしょうから」
「お心遣い、ありがとうございます」
「あなた……無理しては駄目よ」
部屋を出ていく間際に、子爵夫人はそう言った。その背は王女らしく威厳があった。気を抜くと直ぐに俯いて猫背になってしまう私とは大違いだ。
「妃殿下、さすがに殿下にご報告だけでも」
「いいの。子爵夫人はご自分の意志で出ていかれたのだから」
何か言いたげな素振りを見せた部下だったが、もう何も言わなかった。ただ、時折彼が気遣うように私を見ているのは気づいていた。心配してくれる部下がいるのは心強いものだなと私はただそう思っただけだった。
翌日、王宮は大騒ぎになっていた。殿下が側妃の部屋に入ったきり出てこないのだという。急ぎの仕事もあるのにとぼやく文官を、私は静かにたしなめた。
「やっと思う方を手に入れられたのですもの。数日は仕事が滞っても良いように手配しておいてちょうだい」
「妃殿下、妃殿下は翌日から公務に……」
「私では果たせないお務めを側妃が果たしてくれるのよ。感謝しないと」
「……っ」
文官たちが俯いている。そんな変なことを言ったとは思わないのだが、なにかまずいことを言ってしまっただろうか?
「さ、仕事は溜まっているのでしょう? こんなところで油を売っていないで、どんどん仕事をしましょう!」
私の声は、明るいものだったはずだ……そう信じたい。
・・・・・・・・・・
私と殿下が結婚して1年、側妃が入内して半年の今日、殿下から「結婚記念日を祝う必要はないので、いつも通りに過ごしてくれ」という伝言が来た。
「……承知しました、とお伝えください」
殿下の侍従は、申し訳なさそうに去って行った。
「さすがにひどくないですか?」
「いいの。私は殿下の妃だけど、妻じゃないのだから」
「それでも、こんな扱い……」
「なら、あなたは奥さんを大事にしてあげてね」
薄く微笑む私だが、最近自分の微笑みが以前ほどうまくできていないことに気づいている。不幸顔の主の下で働く彼らが気の毒だが、ここは我慢してもらうしかない。
「今日も2人で王都近郊の農場を視察なさるそうよ。仕事だったら私に声がかかるのだから、実際は船遊びでもなさるのではないかしら? お2人の仲が良ければ、お世継ぎもそれだけ早く生まれるはずでしょう? そういう意味では大切な公務と言ってもいいわね」
部下たちの眉が下がっている。そこまで困惑しなくてもと思うが、私の感覚はそんなにずれてしまっているのだろうか?
「妃殿下。側妃様にも執務を手伝っていただくのは……」
「無理よ。彼女の学園の成績を知っているでしょう? 彼女に仕事をお願いできないからこそ、私が王太子妃として表の仕事をしているの。側妃の仕事は殿下の心を癒やし、子を産むこと。それを忘れては駄目」
沈黙が下りる。
「妃殿下。それは、妃殿下という1人の人間をないがしろにする行為です。王太子殿下ともあろう方がそんな提案を受け入れたなんて、私たちには本当に信じがたい。あの、冷静で、いつでも視野を広く持って考えることのできる王太子殿下が……」
「そうできないほどに、殿下は側妃のことを愛しているのだと思ってちょうだい。殿下だって人間ですもの、どうしても欲しいものが1つ2つあってもおかしくないわ。そして、それが愛であることだっておかしくはない。
結婚の前の日にね、殿下がおっしゃったの。『心から愛せる人と結婚できる者が羨ましい』って。だから私、殿下の望み通りとまではいかないけれど、できるだけ殿下の願いを叶えて差し上げたのよ」
部下たちはそれ以上何も言わなかった。それでいいのだ。
私は、この生活がいつまでも続けばいいと思っていた。私の存在意義は、殿下の妃としての仕事を果たすこと。それは貴族の家の妻では実現できなかったことだ。庭園で寄り添う2人を見て、互いを見つめ合い微笑み合う2人を見て、心がちくりと痛むことがなかったとは言わない。だが、それは私が妃としてこの王城で存在するのに不必要なことだ。
・・・・・・・・・・・
私と殿下が結婚して3年になる日、国王陛下と王妃様から呼び出された。
「お前が王太子の子を産むことを拒否したと聞いたが、本当か?」
その目が嘘偽りを許さないと言っている。
「私が拒否したのでも、殿下が拒否したのでもありません。私と殿下の結婚は、それがこの国のためになるという政略に基づくもの。正妃に子が生まれなければ側妃が代わりに産む。その側妃がたまたま殿下の意中の女性であった。それはおかしなことではありませんでしょう?」
「だが、王太子とお前との間に生まれた子こそが、政略的に意味のある存在だと思わなかったのか?」
「側妃の子は私の子となります。養育も私がする、そういう話になっています」
「お前はどういうつもりであの女を側妃にしたのだ?」
「私は……望まれておりませんでしたので」
王と王妃が声を呑む音が聞こえた。
「婚約期間中に努力はいたしましたが、殿下のお気持ちはただ1人に向けられていて、私が入り込む隙などこれっぽっちもございませんでした」
この3年、王妃には子どもはまだかと何度もなじられた。そもそも同衾していないのだから子など生まれるはずはないのだが、私はただ謝り続けた。だから、本当のことを知って驚いたのだろう。王妃は口元を覆っている。
「お願いです。あの2人の幸せな時間を奪わないでください。2人で過ごす時間があるからこそ、殿下は仕事に全力で取り組めるのです。殿下の心を癒やせるのは、彼女だけなのですから」
どれだけ待っても、王と王妃からの言葉がない。仕方なく私から声を掛けて御前を失礼した。もしかしたら、これから舞踏会などの公式な場にも私ではなく側妃が並ぶようになるかもしれない。そうなったらいいな、と思っている自分に少し驚きながら、私は執務室に戻った。
数日後、殿下から話があると呼び出された。行ったことのない離宮だ。
「お待ちしておりました」
「お互いに接触しないように、と殿下に言われていたはずですが?」
「大事な用件だからいいのよ」
応接室で待っていたのは、殿下ではなかった。側妃だった。お茶を勧められて一口含んだ。ずいぶんの渋みがあるおちゃだと思いながら側妃を見ると、お腹がふっくらとしている。
「ええ、殿下の子です。ようやく発表できるところまで来ましたの。だから、あなたにもお知らせしようと思って」
「そうでしたか。おめでとうございます。それで、私は殿下に呼び出されたのですが。殿下はどちらに?」
「殿下は来ないわ。だって、私が殿下の名前であなたを呼び出したのだもの」
それは越権行為だ。私が難しい顔をしたのを見て、側妃は鼻を鳴らした。
「些細なことよ。それで、あなたにはこの離宮に移ってもらうことにしたの」
「そのご命令は、聞いていません」
「ええ、だって私が決めたんだもの」
「それは側妃が決められることではないわ」
「あなたがここにいたいって後で手紙を出せばすむわよ。それに、仕事ならここでもできる。子を産んだ私が正妃になり、あなたが側妃になって支えればいいの」
「機密書類は持ち出せないわ。あなたがやってくれるの?」
「冗談じゃないわ。私に仕事ができないことくらい、あなたはよく分かっているはずよ」
「ええ、だから私が仕事を、あなたが子どもを、そう分担したはず」
「殿下の子が側妃の子では侮られてしまうでしょう? だから、私が正妃にならないと」
「あなたが産んだ子は私の子になると決められていたでしょう、養育も私がするから、あなたには殿下の子を産むことに専念してほしいって」
「どうして私の子をあんたなんかに渡さなきゃいけないの? 私の子よ? あなたのことを『お母様』と呼ばせる気はないわ!」
目がぐるぐる回り始めた。あまりの気持ち悪さにソファに倒れ込んだ私に、側妃が言い放った。
「ここが嫌なら、他にもあなたに用意した場所があるのよ? お薬も効いてきたようだし、異動しましょうか」
その言葉を遠くに聞きながら、私は意識を失った。
気づいた時、私はベッドに寝かされていた。体が思うように動かない。いや、感覚がほとんどないのだ。部屋を見回そうにも首も動かせない。辛うじて瞼を開いたが、それも相当な労力が必要だ。
「***********!」
傍にいた侍女が何か言っているが、私にはそれが言葉となって入ってこない。
「****! ****!」
何を言っているの? 分かるように言って?
「*****? ***********」
慌てて侍女が部屋の外に走って行った。瞼を閉じかけた時、王太子殿下が入ってくるのが見えた。私はなんとか体を起こそうとしたがやはり無理だった。
「****! *******?」
ああ、殿下の言葉も分からない。ぼうっと殿下の顔を見ていると、殿下が突然泣き出した。初めて見る殿下の泣き顔。こんなふうにして殿下は泣くのね、と他人事のように考える。そして、私は気がついた。体も動かせない、言葉も理解できない、これでは妃の仕事ができないということに。
私の存在意義がなくなった。
愛されることは、諦めることができた。でもそれは、私にできて彼女にはできないことがあったから。彼女より役に立っているという自負をもてたからこそ、私は妃として、口さがない人々に何を言われようとも我慢できた。だが、もう私には何もない、そのことに気づいてしまった。
私は薬を盛られたのだろう。その薬の影響なのか、薬で意識を失っている間に何かされたのか、それも分からない。ただ、彼女に危害を加えられたのだとしか分からない。そこまで憎まれているとは思わなかった。
だって、彼女が嫌がることは全部私がしていた。
殿下の愛は全て彼女だけが受け取っていた。
子どもまでいるじゃない。
彼女に渡さなかったのは彼の正妃という地位だけ。側妃ではあくまで代決になってしまう、それでは仕事がまわらない。正妃だからこそできる仕事もあったのだ。それを、彼女は理解できなかったのだろう。
一頻り泣いた後、殿下が私の額に触れた。でも、触れた感覚がない。何も感じない。私は疲れてしまった。瞼が自然に下りてくる。そのまま眠ってしまった。
どれほど眠っていたのかは分からない。目が覚めた時、殿下が目の前にいた。だが、何かが違う。よく見ると、顔に皺がある。
「目が覚めたのか?」
あれ、声が聞こえる?
私は殿下に小さく頷いた。
あ、体も少しは動くようになったんだ。
殿下が泣きそうな顔で私の頬に触れた……だが、殿下の手と私の頬の間に何かを感じる。
「また眠ってしまうかもしれないから、目覚めたばかりで辛いだろうけれども聞いてほしい。君は彼女に薬を盛られて眠らされた。そして、眠ったまま火を付けられた」
私はその言葉にぞっとした。火あぶりにされていたとは……ならば、殿下と私の間にあるのは、包帯なのだろうか。
「異常に気づいた君の護衛たちがすぐに君を助け出したが、君は全身に火傷を負い、いつ死ぬとも分からない状態だった。目が覚めた時に相当な痛みがあるだろうということで、君に麻酔が使われた。だが、麻酔を打った医師もまた、彼女の息がかかった者だった。君には必要以上に多量の麻酔と鎮静薬が投与され……君は体も動かせない状態になった。もしかしたら最初に目覚めた時、耳も聞こえなかったのではないか?」
弱々しく私は頷いた。
「君はそのまままた眠ってしまった。それが多量の薬のせいだと気づいたのは、君の侍女だった。彼女には君が毒物で攻撃された時に対応できるよう、毒劇物の知識を身につけさせておいたんだ。黒幕が側妃だと分かって私が最初に感じたのは、君への罪悪感と、彼女への憎しみだった。妊娠が分かった頃から、彼女は正妃の座に拘りだした。見張るように言ってあったのだが、彼女の毒牙にかかっていた者が思いのほか多くてな、なかなか尻尾をつかめなかった。だが、彼女が多くの者を使って君を亡き者にしようとした証拠がいくつも挙がった。
ああ、彼女は処刑したよ。父上と母上に、将来の王として判断しろと言われた」
それではお腹の子は?
私の心を読んだかのように、殿下は「子どもは」と言った。
「子どもは、罪人の子だ。だから、出家させて今は聖国で修行している。あれから、私は誰も召し上げていない。君に甘えて私は最低の行動を取っていた。すまなかった」
私は首を横に振った。
「りえ、ん、して、くだ、さい」
何年ぶりか分からないが、声を出してみた。かすれた声しか出ないが、自分の気持ちを伝えなければと思った。
「も、やく、に、たてない、から」
「駄目だ、君だけが私の心を守ろうとしてくれた」
「おね、がい。ころ、して」
「駄目だ!」
殿下は椅子から飛び上がった。
「駄目だ、絶対に駄目だ!」
そう言いながら、殿下は逃げるように部屋を出ていってしまった。このまま生きるのはもう辛いから、終わりにしてほしかったのに。
「妃殿下、お久しぶりです。ご気分はいかがですか?」
気づいた時には、枕元にかつての部下がいた。彼の眦にも皺ができている。
「なん、ねん、ねて、いた?」
「妃殿下は、15年、薬の影響で眠り続けていらっしゃいました」
15年も経ったのか。それなら皺があるのも納得だ。
「もう、やく、に、たて、ない。しに、たい」
「そんなこと言わないでください。リハビリして、元気になって、また仕事しましょうよ?」
「む、り」
私の目から涙が流れた。
「も、らく、に、なり、たい」
「妃殿下、いけません! あなたはこの国の希望なのです! どんなことがあっても、決して折れない心を示したあなたの回復を、国民はずっと祈り続けてきたのです。そして、決して諦めないことを学んだのです」
私はただ首を横に振った。
「おわり、よ」
私は何の為に生きているのだろう。その後も入れ替わり立ち替わりいろんな人がお見舞いに来たが、私は途中から寝たふりをしてごまかすことにした。みんな言いたいことを言っている。誰の言葉も私の心には響かない。
いつまでこんな生活が続くのか。動かない体に触れられるのも嫌だ。私という人間が壊れていく。やがて、私は自分が自分であるということが何だかよく分からなくなってきた。自分という存在の境界がなくなっていくと、自分の肉体に押し込められていた精神が空気に溶け出して、他の存在と混じり合っていくような感覚だ。
あたたかい。誰も拒否しない。どこまでも広がって自由。
不思議な感覚に包まれながら、人の声がどんどん理解できなくなっていく。それが私はうれしかった。人間でなくなれば、私は自由になれる。もう自分の気持ちを隠す必要だってない。そもそも、「私」という概念が必要なくなる。
自然の一部なのだから。
ふっと肉体と精神の最後の繋がりが外れた感覚がした。不自由だった肉体から解放された精神が、自由を求めてどこまでも飛んでいけることに歓喜している。
下を見ると、殿下が包帯でぐるぐる巻きにされた私の体に取りすがって泣いている。医師が慌てたように何かしている。侍女たちがオロオロしている。
こういう人たちのために、私はいろんなものを我慢してきた。もう自由になったのだ。そう思うと、殿下に最後の一言だけは伝えたくなった。
私はそっと殿下の耳元にささやいた。
「あなたが私を大切にしてくれていれば、私を妻として扱ってくれていれば、あなたは全てを失わずにすんだでしょうにね。
彼女を側妃にしたのは、あなたのことを思う私に気づいて欲しかったから。
妻扱いされなくても何も言わなかったのは、うるさく言えばあなたとの接点が何1つなくなってしまうと思ったから。
そして、彼女が取り巻きを増やし、あの毒を手に入れられるように裏で手を回したのも私。彼女は私の手の上で踊らされていたことも知らず、処刑されることになった。
私の心をバラバラに砕いた、あなた自身が招いた事態なのよ」
霊体となった私の声が聞こえたのだろうか、殿下が呆然と私の肉体を見つめている。
「『都合のいい女』は卒業しますね」
私は窓の外に飛び出した。寝待ちの月が南中している。私は月に向かって飛びながら、何となく後ろを振り返った。殿下が窓枠から身を乗り出すようにしてこちらを見、そして叫んだ。
「愛していた! 君が嫌がることをしたくなかった! 君に嫌われたくなかった! それが全て間違いだったというのか!」
「『心から愛せる人と結婚できる者が羨ましい』って言ったのはあなた。そんな言葉を言われる方の身になって考えた? 彼女とどうしても結婚したかったのに結婚できず、私に八つ当たりしたあなたなのよ? あなたが私を愛していたなんて、私、これっぽっちも感じたことなかったわ。私はずっとあなたを愛していたのに!」
殿下の心を初めて知った私は、もっと早く殿下が言ってくれたらと思った。同時に、もっと早く私も本心を言っていたら、違う未来があったのかもしれないと初めて気づいた。
でも、今更です、殿下。私はもう死んだのですから。
私は月に祈った。
この世から、言葉足らずですれ違う私たちのような存在がなくなりますように、と。
そう思うと共に、私の魂が光の粒になって弾けた。
私という存在は、もう、ない。光の粒になった私を見た殿下がどうなったかなんて、私には知りようのないことだ。
読んでくださってありがとうございました。
殿下はどうにもならない駄目な男として設定しておりますので、腹が立つという方は是非腹を立ててください。主人公は、言葉を尽くせばわかり合えたのかも、と最後に思っていますが、それでわかり合えたかどうかは神のみぞ知る、ということで。
ただ、殿下のように「選べない」とか「もう一つほしがる」人、主人公のように何も言わずに「察してくれない」と不満を溜める人って、男女問わず現実世界にいると思うんです。それを極端にデフォルメしているので、不快感は増し増しだと思います。
初めて殴り書きしたバッドエンド作品なので、粗いところはご容赦ください。
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