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本当の傷と心の闇

「だからなんでこうなってるんだ?」


 近衛騎士団の詰め所でエドモンドは頭を抱えた。


「なんで第二班長が憲兵と小競り合いをしているんだ!?誰も止めなかったのか?しかも団長!団長自ら、なにやってるんですか!?」

「だって、事務補佐官の奴らが突然経費削減なんて言ってくるから・・・」

「だからって、真正面からぶつかったって何も解決にならないでしょう!必要経費の積算書は提出したんですか!?」


 詰め寄られて不貞腐れたように口をすぼめる団長を見てくらっと来た。ああ、そうだった。団長はこういう人だ。皆から慕われて人望も厚いが、事務処理能力は全くない。それを俺がずっとカバーしてきたのだ。


 それより何より。


「俺の後釜の副団長がいまだに決まっていないってどういうことですか!?」


 もともと俺の後継にはダリウス第一班長が最有力候補で、留守の間の代役も頼んだし、順当に引継ぎが進んでいると思っていたのに。


「だって仕方がないだろう!本人が絶対嫌だってごねるんだから」

 驚く俺に、団長はソファの背もたれにボスンッと身体を預けながら続けた。


「だいたいお前が悪いんだぞ。騎士団の宿舎に年中泊まり込んで、一年365日、一日24時間騎士団に捧げて。必然的に副団長が背負う業務が増えるに決まっているだろう。ダリウスは先日子供が生まれたばかりなんだ。2か月に一度顔を見れるか見れないかなんて生活は絶対に嫌なんだと」


 ‥‥衝撃で固まってしまった。

 俺か!?俺のせいなのか!?


「‥‥他に、後継候補は‥‥」

「希望している奴はいるぞ。だけどそういうやつに限って、副団長の重責も何もわからず、ただ名誉だけに目がくらんで手をあげている奴らばっかりだ」

 団長は恨めしそうに俺を見た。


「‥‥わかりましたよ。副団長の業務を分散させるように調整して、ダリウスを口説き落とせばいいんですね?」


 俺のセリフに、団長は満足げに笑った。


 これはまた当分家に帰れそうもないな。今朝のアリソルとの会話を思い出しながら、小さくため息をついた。



 朝早いのに見送りに出てきてくれた彼女。

 以前のような能面の表情は剥がれ落ち、笑顔が穏やかになっていると思うのは、うがった見方だろうか。


「いってらっしゃいませ旦那様」

 たったそれだけの言葉に心が温かくなる。


「行ってくる。留守を頼んだぞ」

 彼女の頭にそっと手を乗せる。どさくさに紛れて頭に触ってしまった。


 頭に軽く触れるだけのスキンシップにあわあわとしてしまう彼女。

 その陶器のようなきめ細かな肌がうっすらと朱に染まり、固まったように下を向く。

 かわいい。

 実にかわいらしい。

 ふわっと浮かれた次の瞬間。


「次のお帰りは来月ですか?再来月ですか?」

「そんなわけないだろう!!」

 思わず被せ気味に否定しちゃったよ。


 戸惑う彼女に、しまった、とじりっと下がる。

「いや、あの。以前のように宿舎に泊まり込むことはないから。毎晩ここに帰ってくる予定だ。ただ、俺も時間は読めないから、帰りが遅いときには先に食べて、寝ていてくれ」


 言い訳がましく伝えると、彼女は一瞬ぽかんとして、そして、ふっと、花がほころぶように笑った。

「そうなのですね。わかりました。お帰りをお待ちしております」


 待っている?待ってくれるのか?

 彼女のその様子と言葉に、極限まで浮かれながら王宮に出仕したのに。


 ‥‥全然帰れそうにないじゃないか。


「おかえりなさい副団長!」

 俺の憂鬱を気にも留めないダリウスが、屈託のない笑顔で迎え入れた。


「おかえりなさいじゃないよ。俺は辞めるための引継ぎに来たんだぞ」

 小さくため息をつく俺を無視して、ダリウスは子犬のようにちょろちょろとまとわりつきながら続ける。


「まあまあ、そうは言わず。どうせ冬の間は家の仕事もあまりないじゃないですか。しかも、奥様も献身的に事業をサポートしてくれているとか。だから副団長、安心して、カルツェルト国の宰相が来賓で来るまではいてくださいよぅ。大変なんですよ」


「王宮なんて来賓が来ない時の方が少ないだろ!その度に延期していたらいつまでも辞められないじゃないか」


「みんな副団長を待っていたんですよ。副団長がいないと飲みに行ってもつまらないって。どうです?今夜早速」

 くいと杯をあおる真似をして、ダリウスが誘う。


「そんな暇はないぞ。俺がやっていた仕事を一人で抱えたくないんだろう?どうせ次の副団長はお前なんだ。覚悟を決めて、業務の再分担と調整、一緒にやるぞ」


 えええ!?と情けない声を出しながらも、嬉しそうに付いてきた。

 頑張りに頑張って一か月。

 俺は業務の調整を頭の中で素早く算段した。



 気がつけば出仕して二週間。本当に一度も家に帰れていない。

 今日も帰れないと毎日伝令を飛ばしているが、返ってくる返事は日に日に簡潔になっていった。

 まずい。

 ひっじょーにまずい。

 これでは永遠に彼女の信頼は勝ち取れない。


 苛立ちを周囲に悟られないよう、とにかく急ピッチで仕事を終わらせていった。


 ***


 アリソルは窓の外を見つめていた。

 小さくついたため息で窓ガラスがうっすらと曇る。


 エドモンド様は私のひどい仕打ちにも笑って許してくれて、心の痛みを分かってくれて、謝ってくれた。

 二人の心の距離が縮まった気がして。

 これからは二人でゆっくりと歩み寄っていけるかもしれない。

 そんな風に期待したのに。


 やっぱり期待は裏切られる。

 王宮に行ったきり、彼は一度も屋敷に帰って来なくなってしまった。


 あの時と同じだ。

 彼は近衛騎士団に行ってしまえば他のことは見えなくなる。全てどうでもよくなってしまうのだ。


 ようやく少しだけ近づいたと思った距離は、あっという間に離れてしまった。


 カタリ、と窓を開けた。

 どんよりと曇った空の下、冷たい風が頬を刺す。

 小さく吐いた息は白く煙った。


 どうする?アリソル。

 このままでいいの?

 また同じことを繰り返すの?


 彼を見捨てる?出ていく?

 それとも…。


 大きく息を吸い込むと、きりっと顔をあげた。


「マルタ、用意して欲しいものがあるの」

 声をかければ彼女はすぐにやってくる。


「暖かい部屋着と、あとジョーゼフに頼みたいものが」


 あの時だって、自分から動いたから状況は変化したのだ。

 今回だって、ただじっとしていては始まらない。

 動いてみよう。

 後悔するのは、それからでいい。


 ***


「失礼します。副団長、ちょっといいですか」

 騎士団に缶詰めになっているエドモンドの元に相変わらずの満面の笑みで現れたのは、やっぱりダリウスだった。


「なんだ。また新たなトラブルか?」

 隠しきれないため息を隠そうともせず、招き入れようとすると、


「あ、いえ。副団長の奥様がお見えになったので」

 いつもの軽い調子でへらり、と答える。


 アリソルが!!??

 ここに!?

 どうして!?

 勢いよく立ち上がりすぎて、椅子がガタンと後ろに倒れてしまった。


「着替えとかいろいろ持ってきてくれたみたいですよ。先ほど詰め所で確認を取っていたので、もうじきこちらに来るんじゃないですか。それにしても奥様、美人ですねぇ」

 ダリウスのニヤニヤ顔を軽く睨みつけながら、そわそわと襟元を正し、髪を撫でつける。

 髭は‥‥、よし。ちゃんと剃ってあるな。

 もう一度鏡を確認して、居住まいを正した。


「失礼します。あの。アリソル、です」

 半開きのドアの向こうから躊躇いがちな声が聞こえる。


 急いでドアに駆け寄って出迎えれば。


「‥‥お前達、なんでそんなに大勢付いてきてるんだ。警備があるだろう警備が!」


「副団長副団長!奥様が差し入れですって」

「いいなあ。俺らにも紹介してくださいよ」


 背後からわらわらとかかる声に戸惑いながらも、アリソルが伏し目がちに微笑む。

「お仕事大変な時に申し訳ありません。夜はかなり冷えるようになってきたので、暖かいお召し物をお持ちしたくて。それと、あの、これを…」

 おずおずと差し出したのは、大きめのバスケット。


「ジョーゼフが、エドモンド様は放っておくと肉しか食べないと心配しておりまして。野菜も一緒に召し上がれるように、ジョーゼフに教わりながら作りましたの。・・・簡単なサンドイッチですけど」


 え?奥様の手作り!?

 羨ましすぎね?


 後ろでガヤガヤ騒ぐその他大勢。

 こいつら追い払っていいか?


「アリソルが作ったのか?」

 驚く俺に、

「正確には私は挟んだだけというか。ほとんどはジョーゼフが作ったというか‥‥」

「いただこう」

 バスケットを奪い取るように受け取り、食い気味に答える。


「たくさん作ってきましたので、皆様も召し上がっていただければ」

 はにかみながら後ろを振り返るアリソルに、団員達も歓喜の雄たけびを上げた。


 いや、俺だってアリソルの手料理を食べるのなんて初めてだからな?

 お前らに分けてあげるつもりなんてさらさらないが?


「ありがとうアリソル。せっかくだから一緒に食べないか。君、お茶の用意を!」

 声をかけると、アリソルがすっと後ろを向いた。

「エドモンド様のお好きな紅茶をお持ちしましたので、よろしければ私に淹れさせてください。案内していただけますか?」

 新米の団員に案内されて彼女が視界から消えた瞬間、残り全員がわっと集まってきた。


「なんすか!?あれ。可愛すぎですか?」

「清楚で優しくて、天使じゃないですか!」

「あんな女神を虐げてきたって、副団長、悪魔ですか?鬼畜ですか?」


 お、おう。

 俺の悪評はここまで届いていたんだな。ま、そりゃそうか。


「噂では白い結婚って聞いたんですけど、マジっすか?そしたら俺にも望みありますか?」

「あるわけないだろう!!」

 思わず首を絞めちゃったよ。


「こっちも今、全力で関係修復中なんだから、そっとしておいてくれ」

 諦めない輩を全力で追い出すと、ローテーブルの山積みの書類を脇にどかし、いそいそと準備をする。


 しかし。

 さっきの彼らの反応。


 ‥‥わかってないな。

 ふふっと優越感に浸る。


 彼女はな。何と言うか、外面がいいんだよ。


 これは、実質一週間程度しか一緒にいられていないながらも気づいた彼女の本性。


 天使だって?女神だって?清楚で優しいって?

 あいつら、アリソルの見た目に惑わされてるな。

 俺があの小屋に十日間もぶち込まれたって聞いたらなんて言うか。

 彼女は、そういう気性の激しさも持ち合わせてるんだよ。

 お子ちゃまな君達には手に負えないよ。


 ふふっと笑ってふと気づく。‥‥あれを喜べるって、たいがいな被虐趣味だな、俺も。


 程なくして再度ノックがあり、お茶の準備を整えた彼女が入ってきた。

 アリソルがカップを並べるのに合わせ、いそいそとバスケットから取り出して並べる。


「お野菜だけじゃなく、炭火で焼いた鶏肉も入っているので、エドモンド様もお好きな味になっているかと」

 紙で巻かれたサンドイッチを受け取ると、丁寧にはがし、勢いよく齧りついた。

「うん、美味しい!マスタードのソースが効いているね」


 よかった、とホッとした顔で、小さめのサンドイッチに彼女も手を伸ばした。

「マヨネーズをマスタードを合わせただけのものですけど、これがお好きだと聞いたので」


 俺の好みを考えて準備してくれたなんて。

 たったそれだけで、家に帰れずすさんでいた心が洗われていくのがわかった。

 こんな、穏やかな時間が心から愛しいと思う。


「悪かったね。約束したのに家に帰れなくて」


 アリソルは一瞬驚いたように目を丸くした後、ふふっと悪戯っぽく笑った。


「大丈夫です。もともと全く期待しておりませんので」

 その嫌味に思わずにやける。

 ああ、アリソルだ。アリソルの通常運転だ。

 相変わらず彼女らしい気の強さに緩む頬を隠せず、細めた目で彼女を見た。


「どうかしましたか?」

 首をこてんとかしげてこちらを見るその様子だけを見ると、まさに純粋無垢の少女にしか見えない。


「いや。君らしいなと、思って。相変わらずの毒舌が」

 彼女の淹れてくれた紅茶に手を伸ばしながら続ける。


「さっきの奴ら、君のその優し気な見かけに騙されて、女神みたいだなんだと大騒ぎだったからさ。この本性を知ったらどう思うかと」

 にやにやと笑う俺を見て、アリソルは口を尖らせた。


「可愛くなくてすみませんね。純粋無垢でいられるほど、生易しい環境を与えてもらえなかったもので」

「可愛いよ」

 間髪を容れずに返した言葉に、アリソルが驚いてこちらを見る。

「この性格が、ですか?」

「ああ」


「とても愛しくて可愛い。少なくとも俺には。君のその本性を他の誰にも教えたくないほどには、ね」

 目を瞠るアリソルの頭に、ポンポン、と軽く手を置いた。


 と。

 ぶわっと彼女の頬が染まる。

 真っ赤になってうつむいてしまう彼女に、今度はエドモンドの方が狼狽えてしまった。


 え?え?

 どういうこと?

 この反応、期待しちゃっていいの?

 期待しちゃうよ、俺。


「その」

 コホンと一つ咳払いをして、切り出した。


「いつもいつも人のせいにしてきた反省から、これからは簡単に他人のせいにするつもりはないのだが」

 突然の話題変更にアリソルがきょとんと首をかしげる。


 俺は続けた。

「今、俺が家に帰れないのは、間違いなく団長とダリウスのせいだから!」


 彼女は一瞬ぽかんとして、そしてぷぷっと吹き出した。

 そんな彼女の屈託ない様子に、俺の口元も緩む。


「それでは、期待していない程度にお待ちしてますね」


 くすくすと笑う彼女の屈託ない笑顔に、ふわふわと心が温かくなった。


 ***


「せっかくお越しいただいたんだから、見学していってもらったらどうですか?」

 長居して迷惑になる前にお暇しようと立ち上がったところで、エドモンド様の腹心らしき方が声をかけてくれた。


「ちょうどこれから、午後の鍛錬が始まるんですよ」

 ダリウスと名乗った彼は、人懐こい、どこか安心させるような笑みを絶やさず、初対面の相手にも簡単に懐に飛び込める特技を持っていそうだ。


「女性に見せるようなものでもないだろう」

 対してエドモンド様は険しい顔で否定する。私に見られたくないのかな。


「まあまあ、せっかくですし。奥様も見たいですよねぇ?副団長の雄姿」


 その言葉に、途端にむずむずと好奇心が湧き上がってきた。

 見たいか見たくないかと聞かれたら、見たい。

 とてつもなく見たい。

 曲がりなりにも夫であるエドモンド様の雄姿を。


「…よろしければ、見たい、です。是非、お願いします」

 最初だけ控えめに、でも気づけば食い気味に答えた私に、エドモンド様が若干引いている気がするけれど。

物おじしない部下の方々のノリに便乗するような形で、私はいそいそと鍛錬場に足を延ばした。


 騎士団の駐屯所の奥にあるその鍛錬場は外からは想像つかないほどの広さを誇り、少し高い見晴らしのいい休憩所から全体が見渡せるようになっている。


 ‥‥日頃はここで令嬢達が黄色い声援を送っているのだろうか。

 ちくりと胸が痛む。


「‥‥ここにはよく応援に来られる方がいるのですか?」

 さすがに女性の方々が?とは聞けなかったけれど、その真意に気づいてくれたらしく、案内してくれた若手の騎士様は穏やかな笑顔で答えてくれた。

「残念ながら。全く」


 そして眉間に皺を寄せ、厳しい表情になった。

「以前は着飾った令嬢達がたくさん来てくれて、中にはめでたくカップルが成立することもあったんですよっ!!なのにっ!!今の団長があっ!!」

 急に語気を荒げて拳を握り締める。

「鍛錬の邪魔だと、関係のない貴族の令嬢達の立ち入りを禁止してしまったんですよ!」


 俺らの青春をかえせぇっ!!と叫ぶ男性の勢いに恐れをなして一歩下がりつつも、ここに女性は来ないのかと、なんだか安心してしまった。

 そのまま鍛錬場に視線を移す。


 そこには、木刀を脇に下げ、他の騎士様に混じって準備を始めるエドモンド様の姿があった。隣の男性と気安く笑いあいながら体をほぐしているが、時折見せる真剣な表情につい引き込まれる。


 やがて、準備運動を終えた皆が整列すると、エドモンド様の掛け声とともに激しい打ち合いが始まった。


 カキンカキンと高く響く木刀のぶつかる音、威勢のいい掛け声。

 接近戦では組み合いながらゴロゴロと転がりながらも。瞳は相手を威嚇するように睨みつける。


 気づけば二十人以上いるであろうこの鍛錬場で、エドモンド様だけを目で追ってしまっていた。


 おそらくここにいるメンバーの中では一番の上位者にあたるが、決して一番強いわけではないことは素人の自分にもわかる。

 それでも、部下の方々と同じ土俵で同じメニューを泥まみれになりながらこなすその姿勢に、たくさんの部下たちが付いてきてくれる様子が窺われた。


 同時に、その誠実さを、真摯な姿勢を、あの頃の私に一瞬でも向けていてくれたなら‥‥と、心が軋む。

 

 ドキドキとはらはらと、一抹の悲しさと。

 複雑な心情が混ざり合いながら、気がつけば優に一刻は超える時間、集中して見守っている。

 やがてエドモンド様は他の団員の方と一緒に力尽きるように地面に横たわった。

 側付きの方に促されて席を立ち、エドモンド様にそろそろと近づいていく。


「お疲れ様です」

 エドモンド様の隣でしゃがみ込み、泥だらけの頬を拭うためのハンカチをそうっと差し出すと、エドモンド様は寝転がったまま弱々しく目を細めた。

「ドレスが汚れるよ」

「かまいません」


 彼はのそりと上半身を起こし、ハンカチを受け取って眉を下げて卑下するように笑った

「たいして強くないだろう?かっこ悪くて情けないな」

「かっこ悪くなんかないです」

 即座に否定する私に、彼は驚いたように見返した。


「かっこよかったですよ。汗まみれになっても泥まみれになっても頑張る姿が一番尊いと思います。皆さま一生懸命で。こうやって日々鍛えることで王都の安全を守っていただけているのだと、改めて実感しました」


 その台詞に彼は目を見開いて一瞬フリーズした後、くしゃりと頬を緩めて笑った。


「そうか。アリソルにそう言ってもらえるなら、頑張ってきた甲斐があるな」


 嬉しそうなその顔がまぶしくて、胸がどくんと高鳴った。


 ***


 アリソルが駐屯所を訪ねてきてくれてから一週間。

 ‥‥結局一度も家に帰れていない。

 ここで流されたら一生辞められないし一生家に帰れない。


 よし!今日は家に帰ろう!

 うん。帰る。何が何でも帰る!

 最後に見たアリソルの、軽く頭に触れられただけで真っ赤になって震えたその表情を、笑いをこらえられずに震えたその肩を、頑張る姿が尊いと豪語してくれたその力強さを。そんな小さな仕草一つ一つを思い出しながら、エドモンドはフルスピードで業務を進めた。


 けれどようやく帰途に就けたのは深夜近くで。


 もうアリソルも寝てしまっただろう。でも、せめて寝顔だけでも見ることが出来れば‥‥。

 どさくさに紛れて少しだけでも触れられれば。

 そんな思いで馬車を走らせると、意外にも屋敷は煌々と明かりが灯り、バタバタと人の気配がした。


 いぶかしく思いつつ、歩を進める。

 玄関ホールに入ると、迎えてくれた家令に戸惑いの表情が見えた。

「お館様、今日はお帰りになるとは‥‥」


 なんだ?

「俺が帰ってきたら何か問題があるのか?」

 思わず語気を強めた俺に、家令の視線が彷徨う。


 ‥‥アリソルに何かあるのか?


「彼女の部屋に向かう」

「お館様!今は‥‥!」

 押さえようとする家令にますます不信感を持ち、足を速めた。

 彼女がどうしたというのだ。


 まさか。

 男を連れ込んでいるなんてことは‥‥‥‥ないよな。ないと言ってくれ。


 いらぬ妄想ばかりが脳内を駆け巡る。


「アリソル、俺だ。入るぞ」

 現場を確実に押さえなければ。

 返事も待たずにドアを開けると、部屋はむっとしたように暑く、目の前にはいつもの女医が、氷のような視線を向けてきた。


「女性の部屋にノックもなしに入るのはいかがかと」

 男ではなかった、という安堵とともに、何故医師がここに?という不安が湧いてくる。


 急いでベッドを見やると。

 毛布にくるまれながらもガタガタと震えるアリソルがいた。


「どうしたのだ。彼女に何があった?」

「失礼します。温包をお持ちしました」


 飛び込むように入ってきたローラに対し、医師は俺を無視するかのようにてきぱきと指示を始めた。


「二つは奥方様の足元に、一つは腰にいれてください」


 ローラは言われた通りにベッドに温包を入れていく。

「もうしばらくしたらたくさん汗をかかれると思います。そうしたら体を拭いて、新しい夜着に着替えさせてください。今夜はそれを2,3回繰り返すことになると思います。水分はしっかりとらせてください。暑そうにしても、火は絶やさないように」


 メイドのローラと侍女のマルタが真剣な表情で頷く。

 この家の使用人を減らしてから、二人が揃っていることの方が珍しい。ましてやこんな時間に。


 いや、それより、問題は彼女の症状だ。


「彼女に何があったのですか?教えてください」

 改めて詰め寄る。


 例の女医は、ここで初めて俺の存在に気づいた、という顔でこちらを見た。


「心配することはありません。月の物がきた時の症状です」


 は?月の物?それだけ?

「そんなわけないだろう!こんなに暖かい部屋でこんなに震えてるんだぞ!」


 声を荒げる俺に対し、医師は小さくため息をついた。


「奥方様は今、極度の栄養失調から回復されている最中なのですよ」


 ‥‥何だって?


「冬の寒さと長期間の飢餓状態のために、奥様の月の物はもうずっと止まっていました。ここ数か月人並みの生活を送れるようになって、ようやく戻ってきたのです。でもまだまだ、月の物が来た時には、奥方様の身体はそれに耐えきれず、このように体調を崩されます」


 ‥‥知らなかった。

 愕然とする俺を見て、女医は眉尻を少し下げた。


「これでも、先月に比べればだいぶん良くなられましたよ」


 良くなった?これで?

 全然安心できない。


 彼女の枕元によろよろと歩みを進めた。

 この暖かい部屋で、彼女は驚くほど震えていた。


 ベッドの端に腰かけ、そっと彼女の髪を撫でる。


「直に震えは収まります。私も今日は一晩中待機しておりますので。着替えの際はお呼びください」


 雰囲気を察したのか、医師は薬湯を置くと、部屋を辞した。

 俺の無言の圧に耐えかねたのか、何度も何度も振り返りながら、侍女たちも退いた。


 部屋に二人きりになる。


 眠っているのだろうか。

 震えながらもその目は固く閉ざされ、眉間にはしっかりと皺が刻まれている。

 彼女に冷たい空気が入らないよう肩口の掛布をしっかり押さえ、彼女の髪を撫で続けた。


「‥‥寒い」

 目は固く閉ざされたまま、ガタガタと震える彼女の唇からふいに零れた。


「寒い。寒い。怖い。怖いよ‥‥‥‥」

 震えながら少し幼い口調でうわ言のように繰り返す。悪夢でも見ているのだろうか。

 悪夢。あの時のあれは、まさしく悪夢なのだろう。

 彼女の背を優しく擦った。


「大丈夫だ。もう大丈夫だ」

 宥めるように囁く。

 と、彼女の手がふいに伸びてきた。

 戸惑いながらも身を寄せると、彼女は俺の袖口を力なく掴んだ。

 俺は身体をさらに近づけ、彼女を優しく包み込んだ。


「寒い。寒いよ。死にたくないよ」

 ずきりと心が痛む。

 彼女を包む腕に力を込めた。


「大丈夫。大丈夫。大丈夫だから」

 抱え起こすようになってしまったが、彼女を一人にしたくなかった。抱く手に力を籠め、首筋に顔を埋める。


 身体の震えは続き、やがて、ふっと体の力が抜けるのが分かった。

「‥‥もう、いいの。死にたい。‥‥お母様‥‥」

 身体に衝撃と戦慄が走った。


 彼女の心の傷の深さを俺は何も理解していなかった。理解しようとしていなかった。

 死にたくないと、いっそ死にたいと、そう思ってしまう程過酷な日々。

 誰からも顧みられない孤独な日々。

 永遠に終わることのない絶望の日々。


 願わくば、結婚式の日に戻れたなら。

 自分の首を絞めてでも殴ってでも、彼女をあんな苦痛に追いやることなど絶対に、絶対にしないのに。

 どれだけ嘆いても過去はやり直せない。


 ああ。俺は何を勘違いしていたのだ。

 彼女に許されたいと思っていた。

 償って、誠意を持って接して。

 そうすれば許されると。二人で歩んでいくためにはそれが必要だと。


 違う。そうじゃない。

 そうじゃなかったんだ。

 彼女は未だにこんなにも苦しんでいるのに。

 たった十日、小屋にいただけで、禊が済んだとでも思っていたのか。

 言葉一つで信頼されようなんて、何甘っちょろいことを言っていたんだ。

 必要なのは、彼女の傷を癒すことだったんだ。


 この、深くて重い、彼女の心の傷を。

 慈しんで、支えて。

 一生かけてでも。


 彼女がまた、心の底から笑えるように。

 ただ、自分に出来ることを。


 その夜、エドモンドは一晩中アリソルの側を離れなかった。


 ***


 夢を見ていた。

 いつもの夢。


 寒くて、一人ぼっちで。

 誰もいない。

 いつもの夢。


 なのに。

 手を伸ばしたら。

 ‥‥温かい体温が私を包み込んでくれた。


 初めてのその温かさに、アリソルは身体を預ける。

 ふわっと漂ってきたレッド・シダーの香りが気持ちを落ち着かせた。


 ああ。一人じゃないんだ。

 突如感じたその安心感に、深い眠りに落ちていった。



 もぞ‥‥と寝返りを打ち、ふっと目を覚ますと、極至近距離に銀の髪を後ろで一つ結びにしただけの整った顔があり、一発で目が覚めてしまった。


「え?は?あれ?」

 この状況に全く頭が追い付いていかず、ただただ混乱している私の発声に、ベッドに突っ伏して眠っていたエドモンド様もゆっくりと目を開ける。


「おはよう。アリソル」

「え?あ。おはよう、ございます?」


 混乱する私を見て、エドモンド様はふっと表情をやわらげた。


「よかった。今朝はだいぶ調子がいいみたいだ」

「あ。はあ。ありがとう、ございます」

 戸惑い視線を彷徨わせる私を見て、エドモンド様さはとろけるような顔をした。

 それはまるで、最愛の人を愛でるような、可愛くて愛しくて仕方がないというような。


「心配したよ。でも、顔色もだいぶ戻ったようで、安心した」

「そ、そうですね。‥‥お騒がせしました」

 突然纏われたエドモンド様の甘すぎる雰囲気に頭の理解が追い付かず、カクカクとした動きを見せながら、小さく頭を下げた。


「少しは何か食べられそうかい?ジョーゼフが体に優しいスープを作ってくれたよ。君の好物だろう?」

「はい。あ、あの‥‥」

「ん?」


「その手は‥‥」

 その視線は、頭に乗せられたエドモンドの手に注がれていた。


「ああこれか。ごめんごめん。アリソルがあんまりにも可愛いからつい、ね」

 ニコニコとエドモンド様は私の頭を撫で続けていた。


 いや、あの。

 近い!

 近いんですけど!


 と、ふわっと、香ばしい匂いが漂ってきた。

 ああ、この匂い。

「香水‥‥」

「ん?」

「香水、つけてらっしゃるんですね」


 エドモンド様は自分の腕をクンクンと嗅ぐ。

「ああ、これか。騎士の仕事はどうしても汗をかくことが多いから、ごまかすためにもつけていたんだが。苦手だったかい?」


 その口調はどこまでも甘く、またクラクラしてしまった。

 夕べ自分を包んでいたあの香りが彼のものだったのか。

 どうしても頬に熱を持つのがわかる。


「少し起き上がれる?せっかくのスープだから、冷め切らないうちにいただくといいよ」

 背中に腕を回しながら、優しく身体を起こし、間にクッションを挟み込んでくれた。


 その瞬間また香るその匂いに、胸がどきどきしてくる。


「あの‥‥」

「ん?」

「えっと‥‥」


 躊躇いがちに問いかけたそこには、さも当然という顔をしてスプーンをもつエドモンド様がいた。

「まだ体力は回復してないからね。ほら、あーんして」


 いや、大丈夫です!

 一人で食べられます!


 奪い返そうと手を伸ばしたが、あっさりとかわされ、ぐらりと傾きかけてしまう。と、エドモンド様が腕を伸ばし素早く支えてくれた。まだまだ身体が全然いうことを聞いてくれない。


 そんな私を見て、彼は勝ち誇った顔で笑った。

「まだ万全じゃないのに無理するからだよ。ほら」


 そう言って、また、スプーンを口元に寄せてくる。


 …納得がいかない。

 とはいえ、どうみても他の選択権はなさそうな状況に、おずおずと口を開けた。


 小さく開いた口に、程よく粗熱が取れたスープが静かに入ってくる。

 塩分を抑え、溶け出した野菜の甘みが、荒れた胃に優しく染み入ってくる。


「‥‥美味しい」

 ゆっくり飲み込んだ後、思わずつぶやいた。


「よかった。少しずつでいいから、もうちょっと食べようか」

 ゆっくりとスープを口に運びながら、私が食べている様子を目を細めて見つめる。


 ‥‥食べづらいんですが!?



 木のボウルに注がれたそれを半分ほど食べ終わったところで、ふう、と一息ついた。まだまだ本調子ではないから、一度そんなには食べられない。


「もうお腹いっぱいかな?まあまだ無理はしない方がいいね」

 彼は食器を下げながら、食後の薬湯の準備を始める。


 ‥‥甲斐甲斐しい。

 誰だこの人は。

 いやエドモンド様だけれど。

 昨日までとはまるで別人のような。


 こくこくと薬湯を全て飲むと、彼はようやく安心した表情でベッドのふちに腰かけ、私をそっと胸に抱き寄せた。

「いい子で全部飲めたね」


 柔らかく微笑むと、柔らかな唇が私の眦に触れた。


「愛してるよ、アリソル」


 ひゃっ!!


 ふいに触れたその場所がはっきりと熱を持ち、耳まで赤くして狼狽える。

「え、エドモンド、さま!」

 咎めるような声にくすくすと笑いながら、彼は立ち上がった。


「今日から毎晩夕食までに帰ってくるから、一緒に夕食を食べよう」


「え?お仕事大丈夫なんですか?」

 驚く私に対し。

「大丈夫かどうかじゃなくて、そうするんだよ」

 小さくウインクした。


 いや、それ、もうちょっと前に気づきましょうよ。

 そう思いつつも、ふんわり浮かれる自分がいる。


 それからというもの、エドモンド様は本当に毎晩家に帰ってきた。

 そしてお土産に必ず何かしらを買ってくる。

 街で人気のビスケット、薔薇の花束、花の香りの紅茶‥‥。

 先日は綺麗な髪飾りを見つけたと言って、ほんのり耳を赤くしながら自ら髪に着けてくれた。着ける本人が照れるとこっちまで照れてしまうからやめて欲しい。


 これは、あれだな。

 プレゼントなんてもらったことがないと、夜会でばらした、あのせいだな。


 おかげで食後にお土産の焼き菓子でお茶の時間をすることも、いつのまにか楽しみになっていた。


 二人で食事を摂りながら、お茶をしながら。

 とりとめのない話をする。

 近衛騎士団のこと、部下の失敗や王宮内での小競り合いなど。

 どちらかと言えば無口な印象だった彼が、こんなにしゃべるとは思わなかった。


 両親に反発して、跡継ぎなのに騎士養成校に入校したこと。貴族学院と違って平民も多い養成校では荒ぶる男どもが多くて最初は苦労したこと。人よりガタイが大きいわけでも剣の腕が立つわけでもなく、ひたすら鍛錬したこと。

 ようやく騎士団に入団してみると、周りは脳筋ばかりで、喧嘩もトラブルも絶えず、あちこち駆けずり回って彼らの後始末ばかりしているうちに副団長まで昇進してしまったこと。


「結局、頭を使うほうが性に合ってたということだよね。今でも鍛錬はこんなに頑張っているのに」

 ぐいっと曲げて見せてくれたその腕には、確かに努力の跡がうかがえるしっかりとついた筋肉と、細かな傷跡がたくさんあった。


「まあ今考えれば、貴族学院で領地経営も学ばないことに不安を全く抱かなかったなんて、若気の至りと言うか。騎士団でむさくるしい野郎共に囲まれる日々は楽しかったけど、おかげでこの年まで女気ゼロだから。あの髪飾り一つ買うのにどれだけ冷や汗をかいたことか」


 そんな話にくすくすと笑う私を、彼は目を細めて見つめた。

 ふと、彼の視線が私の側頭部で止まる。

 視線の先には、彼にもらった髪飾りがあった。

 なんだかんだ言いつつも、気づけばいつもこの髪飾りを付けている。


「今日もつけてくれているんだ。嬉しいよ」


 すっとエドモンド様の手が伸びてきた。

 その手が私の髪に触れる。

 その瞬間、身体がびくんと揺れ、反射的に力が入るのが分かった。


 私の身体に緊張が走ったのに気づいた彼は、すっとその手を引いた。


「‥‥ごめん。無神経だった。怖がらせたね」


「‥‥‥‥いえ」

 

 重苦しい沈黙が流れる。

 せっかくの楽しくて穏やかな時間が、自分の態度一つで台無しになってしまった。


 楽しいと、彼をもっと知りたいと、そんな想いが湧きおこってくると必ず、合わせ鏡のように恐怖が心を支配する。

 彼のあの氷のような視線が、訴えても訴えても信じてもらえなかった能面のような表情が、心の奥底にへばりついて離れない。


 それは、信じることへの恐怖。

 この幸せを知ってしまったからこそ、もう一度あの状況に突き落とされたら、今度こそ耐えられない。だから、心に防御壁を張り巡らす。

 それが彼を傷つけていることは分かっていても。

 これ以上自分が傷つかないためのバリアーを。


 それでも彼は、いつだって嫌な顔をせず、根気よくこんな私に付き合ってくれる。

 いつの間にかその状況に甘えている自分に気づいていた。


「最近は毎日早く帰ってきてますが、お仕事は大丈夫なのですか?」

「いいんだよ。もともと辞める前の引継ぎに行っているのに護衛のローテが入っていた方がおかしいんだ。そうだ、明後日休みが取れたんだ。劇でも見に行かないか。ほら、今人気の、えっと、何だっけ」


 冬場の娯楽と言えば観劇ぐらいしかないため、その人気はとても高い。

 そのチケットを彼がとってくれたということに驚いた。


「え。名前もわからない劇なのにチケット取れたんですか?」


「いや。その。同僚の一人が譲ってくれて」

「‥‥まさか。脅してとったり」

「違う!!」

 彼は慌てて否定した。


「俺達の噂を知ってるからさ。せっかく仲直りしかけてるならどうぞって。まあ、奴らなりに罪悪感もあるんじゃない。俺が家に帰らなかったのは仕事が忙しかったからだけじゃないんだけどね」

「慕われてるんですね」


 街へお出かけ。

 彼と二人で。

 まるでデートみたいな。

 ‥‥デート、なのかな。これまで一度もなかったけれども。


 にこにこと笑いながら、何を着ていこうか、ふんわり浮かれている自分に気づいていた。



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