続くざまあと、少しだけ近づく距離
まだざまあは続きます。
でも心の距離が少しだけ近づきます。
馬車で三日かけてエドモンドがようやく領地に入った時、領主邸で出迎えてくれた使用人の様子は、とても歓迎されているとは言えなかった。
これまで放置してきたつけが回ってきたということだろう。
「伯爵様、遠いところをよくお越しくださいました。家人一同歓迎いたします」
先頭であいさつした領主代理は、しかしその後、厳しい表情で続けた。
「しかし、もし今回の訪問がさらなる税の引き上げであれば、どうかお考え直しください。領民たちはもう限界です。食料の備蓄も乏しく、正直この冬を越えることさえ難しい状況なのです」
屋敷に入ってもいない段階でこの声掛けか。
小さくため息をついたが、後ろに控える使用人たちの切迫した表情を見ると、それもやむを得ないのだなと理解した。
「税を引き上げるつもりはない。むしろ母上と家令が領民に過度な負担をかけていた状況を是正するために来たのだ。詳しく話を聞きたいから、全員広間に集まってほしい」
それからの三か月間は本当に目まぐるしく過ぎていった。
基本的な対策は、アリソルと考えた方向性を変えない。
アリソルと二人、タウンハウスで議論を重ねた三日間は充実した日々だった。
この冬だけでも税の負担を最低限まで引き下げようと主張した俺に対し、彼女は従前の税率に戻すだけにとどめるべきだと主張した。
一度下げた税率をまた戻すのはとてもハードルが高いのだと。
それでは立ち行かない領民に対しては、炊き出しや燃料の配布が効果的だと言う。物資を直接手渡すことにより、義母の運営により植え付けられた伯爵家への悪印象を払拭し、新領主エドモンドの印象をよくすることが出来ると。
次から次へと打開策を提案してくる彼女の頭の回転の速さに脱帽すると同時に、溌溂とした眼に釘付けになった。痩せて落ちくぼんでいてもその目には強い意志と光が宿り、生き生きと輝く。
ああ、この目が好きだ、と、はっきりと自覚した。
彼女の美しい瞳が。
意志の強い、はっきりした瞳が。
あんなに俺を警戒していたのに、領地経営の話になると途端に夢中になり、考えを巡らせる真剣な表情が。
全てが、愛しい。
まだまだ胃の調子が戻らなくて、シェフ渾身の栄養満点スープを嬉しそうにちびちび食べる様子もまた、可愛らしくて微笑ましかった。
たった三日。
一緒にいられた時間はそれだけ。
でも何よりも濃密で、有意義で楽しかった。
領地に行ってまた離れ離れになってしまうことに後ろ髪を引かれるほどには。
改めて、彼女が好きだと気付いてしまうほどには。
だけど。だからこそ。
彼女に認められる働きをしたい。そう思った。
実際、彼女の提案は劇的な効果を発した。
元家令の資産の差し押さえが出来るとすぐ、アリソルはその金を全て領地に融通してくれた。おかげで炊き出しや備蓄品の購入が出来、領地はこれまでになく活性化している。
それもこれも夫人のおかげだと喧伝することで、領民は新領主よりもまだ見ぬ領主夫人を慕っているように見える。
それでいい、と思う。
この先の未来を、彼女と夫婦として盛り立てていくのであれば、彼女の評判をあげることが大切だ。それに、領民から彼女を褒める言葉が聞こえてくると、自分まで嬉しくなった。
彼女は経済感覚が素晴らしく、やりくりに長けていた。
差し押さえ分をすべて送ってしまえばタウンハウスでの必要経費が賄えない。一年のほとんどを王都で過ごした両親のおかげで、もはや領主邸となっている感があるタウンハウスでは、必然的に必要経費も多くなる。そう心配する俺に彼女は笑って答えたのだ。
「伯爵様。お母様が何に一番散財していたかご存じないのですか?宝石ですよ。ある意味一番ラッキーです。資産が宝石として残っているのですから。少しずつ売っていけば月々かなりの収入になるのです。タウンハウスでの冬支度はそれがあれば十分ですよ」
宝石は一度に売ってしまえば足元を見られるし、良からぬ評判も立ちかねないから、少しずつ売るのがいいのだと彼女は言った。
そして、だから領地に送った金は心配することなく領民に還元して欲しいというのだ。
そんな状況を、彼女は定期的に細かく報告してくれていた。
ルビーのネックレスを一つ売却したこと。
そのお金で使用人たちの暖かい冬用の制服と毛布を購入したこと。
領主邸の使用人の冬服も暖かいものに新調して欲しいこと、などなど。
決してラブレターとは言えない簡潔な手紙。だけど言葉の端々には使用人や領民への思いやりが溢れていて。読むだけで心が温かくなる。
手紙にはあふれるほどの母のドレスの処分についても触れていた。
高級な素材を使った高価なドレスでも、宝石と違って売りに出せば二束三文になってしまう。それをもったいないとアリソルは、デザイナーを口説き落とし、一枚ずつリメイクしてから売りに出し始めたというのだ。
一枚ずつ手をかけているので悠長な話だが、そのまま売るのとは雲泥の差の金額になるらしい。
彼女が王都で生き生きと働いていることを嬉しく思う一方、毎日のように一緒に仕事をするというそのデザイナーが男だったらと気にしてしまう自分が情けないが。
そのくせ直接聞く勇気はなく、新しい家令に探りを入れて女性だという返事に安心してしまうところもやっぱり情けない。
ちなみに団長から紹介してもらった家令が若い男であることも少し気にしている。
もう少し年上が良かったと愚痴ると、そんなベテラン簡単に融通できるかと叱られてしまった。
しかし彼も、経験が少ないながらも真面目に仕事に取り組む、信頼のおける男であることは間違いない。
アリソルの賢さと堅実さを嬉しく思いつつも、切り詰めすぎていないか、ちゃんと食事はとっているか、夜は冷え始めたから暖かくして寝るように、などとつい心配事ばかり手紙に書いてしまう。
そんな俺の手紙に触発されたのか、少しずつ、彼女の手紙にも業務以外のことが増えていった。
たかが手紙と笑われようと、彼女の心がほんの少しでもほぐれたように感じ、ふとした瞬間に見せるはにかんだような笑顔を思い返して頬が緩む。
俺はそれを原動力として領地運営に精力的に携わっていった。
領地に赴き、手ずから温かいスープを注いで分け与え、毛布をもって家々を回る。毎晩疲れ切って電池が切れたように眠る日々だが、充実していた。
領地の冬支度の目途が立ち、春に備えて種の購入を済ませたところで、ようやく王都への帰途に就いた。
王宮で行われる、秋の収穫を祝う王家主催の舞踏会。本格的に冬を迎える前の、大規模な夜会である。
それに二人して出席するために、このタイミングで王都に戻ることは当初からの計画だった。
しかし途中、土砂で覆われた道路に立ち往生してしまい、タウンハウスに到着したのはなんと、舞踏会当日の午後だった。
「お帰りなさいませ」
慌てて駆け込んだ彼を、すでに準備が整ったアリソルがホールで出迎えてくれる。
久々に会う彼女はすっかり美しさを取り戻していた。
まだまだ細身ではあるものの三か月間で肉付きも良くなり、スラリとしたマーメイドドレスがよく似合う。
このドレスが元は母のドレスをリメイクしたとは到底思えなかった。
大きく開きすぎていた胸元は繊細な銀糸のレースで上品に覆われ、もともと上質な濃紺の生地が光に反射してキラキラと煌めく。裾には胸元と同じ銀糸で刺繍が贅沢に施され、神秘的なほどに美しいドレスに仕上がっていた。
俺の眼の色の濃紺の生地と髪の色の銀の刺繍。思わず頬が緩んでしまうのが分かった。俺の色に合わせてくれたのか、と期待に胸が高まる。
薄く施した化粧と、ふっくらとハリのある頬。大きめの瞳に長いまつげが揺れている。
初めて夜会で見かけた時の、愛らしい彼女がそこにいた。
こんな美しい女性が自分の妻だと自慢したい気持ちと、妻なのに他人のような関係である事実の狭間でジレンマに陥る。
「ただいま戻った。‥‥その。とてもよく似合っている。身体も‥‥、元気に、健康になったようで、よかった」
頬が赤らんでいることを自覚しつつ、すっかり変身した妻を褒めると、彼女はふふっと微笑んだ。その笑みの柔らかさに、この三か月間で彼女の傷も多少は癒えたのかとホッとする。
「ありがとうございます。レンジャー夫人のおかげですわ」
彼女はちらりと後ろに控えたデザイナーを見た。
「今まではお義母さまのドレスをリメイクするだけでしたが、これからは少しずつ、希望する方のドレスのリメイクも請け負おうと思っていますの。ほら、貴族の方々っていつも同じドレスを着るわけにはいかないのです。でも毎回買う程の余裕がない方もいますし。そんな方には少し印象を変えるだけで変わることを教えてあげられればと。それに、大切な形見のドレスを保管されている方もいるでしょう?大切にしているのに、流行遅れで着られないなんて話を聞くと、やっぱり勿体ないなって。ですから、そういう方の手助けをしてあげたいのです」
なんて高尚な想いなんだ、と感動した瞬間、彼女は悪戯っぽく口元をあげた。
「そういうわけで、今日のドレスは広告も兼ねていますのよ。なかなかの仕上がりではありませんか?レンジャー夫人にも張り切っていただきました」
確かに、これだけ高貴なドレスなら、誰もが欲しがるに違いない。
さあ、貴方様も湯あみして身なりを整えてください、時間はありませんよ。
そう追い立てられ、俺は急いで支度を整えた。
前回の夜会で俺に対する社交界での評価はどん底まで落ちてしまったが、それすらどうでもいいと思える程、彼女をエスコートするのは誇らしかった。
腕に手を添えるアリソルを微笑んで見下ろすと、ニコッと微笑み返してくれる。
それだけで心臓は大きく跳ね、天にも昇る心地になる。
戻ってすぐに夜会に顔を出さなきゃならないなんて。本当は二人っきりで話がしたい。
領地のこと、王都での事業のこと。
話したいことはたくさんあるのに。けれど、今日はまず、この夜会を乗り切らなくてはならない。
二人が会場に入ると、前より明らかに柔らかい眼差しが二人に注がれた。その雰囲気にほっとする。
今回の夜会は順調だった。
まずは二人で二曲ほど踊る。
腕の中で曲に合わせて緩く揺れる彼女からは、ほのかに甘い香りが漂う。
腰に回した手も、首筋にかかる息も、何もかもが熱を持ち、脳天をしびれさせた。
どうして俺は今まで一度も彼女と踊らなかったのか。
結婚前は警備に忙しく夜会に参加しなかったとはいえ、いくら母親の頼みでも、一度も妻のエスコートをせず、他の女性をエスコートしてダンスするなど、どう考えてもあの頃の自分は最低だったろう。
曲が終わり、すっと手が離れた瞬間、アリソルは夫人たちに取り囲まれた。ふんだんにレースをあしらったこのドレスについて質問攻めにあっている。彼女の思惑通りに進む様子に、笑いを噛み殺しながら側で見守った。
「素敵ですわ、そのドレス」
「本当に。そのレースはどちらでオーダーされたのですか?」
「伯爵様のお色を使われるなんて。お二人は今、幸せなのですね」
その言葉に頬を染めてうなずくアリソルを見て、俺は舞い上がった。俺達はうまくいっている。そう思っていいのだろうか。
今後のこと。夫婦としての交わり、それを求めてもいいのだろうか。
そんなふわふわした気持ちに水を差すのは、またしてもクロムフェルトの奴だった。
「アリソル、久しぶり。すっかりきれいになって。元気なようで安心したよ」
アリソルも、俺が褒めた時の倍ぐらい頬を染めて、嬉し気に答えている。面白くない。
「そのドレスも綺麗だね。よく似合っているよ。ハーディン伯爵からのプレゼントかい?」
その問いに、アリソルは一瞬目を大きくして、そしてはじけるように笑った。
「まさか!伯爵様からプレゼントなんて恐れ多いこと、考えたこともありませんわ!」
その瞬間、ざわわっと周囲にさざ波が立ち、厳しい視線がエドモンドに注がれた。
ああ、まただ。前回と同じ展開だ。
「‥‥ハーディン伯爵夫人は、ご主人からプレゼントをもらったことがありませんの?」
隣にいたご婦人がおずおずと尋ねる。
アリソルは涼しい顔で答えた。
「ええ。一度も。焼き菓子一つ、薔薇一本すらいただいたことはありません」
その回答にまたしても恐怖に満ちた悲鳴が聞こえてきた。
いつの間にか隣にやってきた団長が小さな声でそっと尋ねた。
「‥‥嘘だろう?ハーディン。婚約時代にも、結婚してからも、何かしらチャンスはあったろう?」
懇願されるように尋ねられたが、俺は無言を貫くしかなかった。
それはすなわち肯定を表す。
残念ながら、これまで何か贈り物をしたという記憶が全くなかった。
周囲が俺を見る目は、もはや魔王レベルの扱いだった。
「アリソル。離縁したい時はいつでも力になるぞ」
クロムフェルト伯爵令息がアリソルの肩をポンと叩き、いかにも親切そうに声をかけている。
「わたくしも力になりますわ!」
声をあげたのは先ほど俺を恐怖の目で見ていたご婦人。俺は日に日に四面楚歌になっていくのを感じ、遠い目をした。
「ですが伯爵様はここのところずっと領地で頑張って来られましたから」
アリエルは控えめに視線を落として殊勝に答えるが。
今更、なんのフォローにもなっていない。
わかっていてやってるだろう。
今日の夜会ではっきりした。
俺はまだ、アリソルに許されたわけではないのだ。
***
帰りの馬車に揺られながらエドモンドは考えていた。
アリソルは俺を恨んでいるのだろうか。
‥‥恨んでいるよな。
これから二人で暮らしていくということにただ浮かれていた自分を殴りたくなる。
沈んだ気分のまま屋敷に戻ると、馬車を降りた瞬間、俺は屈強な男三人に捕らえられた。
「何をする!」
抵抗もむなしく、男達にがっちり押さえ込まれて動けない。
「おとなしく付いてこい」
乱暴に引きずって連れていかれたのは、いつかの小屋だった。
アリソルが一年を過ごした、あの小屋。
もう秋も終わりかけているというのに、暖炉はもちろんなく、板の上には薄い毛布が一枚あるだけだった。
小屋の中に突き飛ばされ、抵抗する間もなく服に手をかけられ、夜会用に着ていた近衛騎士団の正装を乱暴に全てはぎとられた。俺も思いっきり抵抗したから三発ほど殴られて顔にひどいあざが出来た。
そして、色あせて擦り切れた茶色のシャツとズボンを放り込まれ、ガチャリと外から扉が閉められた。
「おい!開けろ!」
どんどんとドアを叩くも、外からは何の反応もない。
大きくため息をついて周囲を見回した。
三か月間使われていなかった小屋は埃が積もっているが、トイレと流し場はあり、閉じ込められても当面の間は生きていけそうだ。
アリソルが指示したのだろうか。
‥‥それ以外に考えられないよな。
同じことを経験しろ、という意味かもしれない。
寒さをしのぐため、投げ入れられた粗末な衣服に身を包むと、固い板の上に寝転がった。
騎士団の訓練で野営も経験しており、板の上に眠ることはそれほど苦痛だとは感じない。忙しいときは食事を抜くことも多いエドモンドは、しばらくはここでやり過ごすしかないだろうと、ごろんと横になった。
やることが何もなく退屈で死にそうだが、アリソルがこれで満足するのなら耐えるのもありかもしれない。そんな風に楽観的に考えていられるのは2日目ぐらいまでだった。
さすがに3日目には何かしらの食糧が与えられるだろうと思っていたのだが、3日目になっても何も誰も音沙汰がない。
この頃になると、思考が空腹以外の何も考えられなくなっていた。毎日やることもなく、ただ暇で、そして腹が空いている。
4日目になると、もしかして忘れられているんじゃないだろうかとゾッとしてきた。水だけで生きていくのも限界だ。これまでじっと耐えてきたが、たまらずドアをガンガンと叩く。
「おーい!いつまで閉じ込めておく気だ!領主としての仕事もあるんだ!ここから出せ!」
その音を聞いたのか、ガチャリとドアがようやく開いた。
ドアに立っていたのは見慣れない顔の護衛騎士。新たに雇ったのか。下卑た笑みを浮かべながら言い放った。
「うるせえ男だな。ほら、お望み通り食事を持ってきたぞ。食べたかったらそこに這いつくばれ」
ああ。
俺は確信した。
やはりこれを命じたのはアリソルだ。アリソルが屋敷の使用人全てを味方に付けて、ここに追いやったのだ。かつての自分の仕打ちをやり返すために。
彼女の恨みは、憎しみは、それほどだったということか。
俺はフラフラと床に手をついた。
「へえ。食い物のためにはプライドもなにもないんだな。ほら、その調子で物乞いしてみろ」
俺はアリソルが置かれていた状況を思い出していた。
「‥‥‥‥パンを、お恵みいただけないでしょうか」
想像以上にキツかった。屈辱で、胸が張り裂けそうだった。
男はニヤリと笑うと、床に固くなったパンを放り投げた。
「ほら、恵んでやるよ。手を使わず這いつくばったまま食え」
ノロノロとパンに近寄り。口を開けてパンに食らいついた。その瞬間、むせて咳き込んでしまう。その様子に男が嘲笑った。
「ほら、パンくずが落ちてるぞ。しっかり舐めろ」
クローゼットから見たいつかの景色をなぞるように男は命じた。
言われた通り床を舐めると、男の足が俺の頭を踏みつけた。ギシギシと、床に挟まれた頭の骨が鳴る。
「いいザマだな。奥方様を虐め抜いて、女のケツばっかり追いかけてるからこうなるんだよ。自業自得って奴だ」
‥‥彼はアリソルの味方だ。
思い返せば、彼女に言われるがまま、使用人を全て入れ替えてしまった。今のこの家に、俺の味方はいない。
だが。
俺は彼女が受けた仕打ちをされ返しているだけだ。それが、これほどまでに心を抉られる日々だったとは。彼女はこれを一年も続けたのか。
は‥‥。
思わず自嘲の声が漏れた。
何を勘違いしていたのだ。
俺は。彼女を地獄から救ったと思いあがっていた。
本当は、あの地獄に落とした張本人だったのに。全て母や使用人のせいにして、自分には非がないなんて思っていた。思い込もうとしていた。
なんて滑稽なんだ。
こんな男が彼女に好かれたいと、夫婦として過ごしていきたいと思うなんて。
あの夜会で浮かれてしまったからこそ、俺の色を纏って頬を染める彼女を見て、期待してしまったからこそ、この仕打ちは堪えるものがあった。
だが、これが彼女の答え、真意なのだろう。
それだけ、恨まれることをしたということだ。
それからの日々は、ただ茫然と、同じことを繰り返すだけの日々だった。
まだ秋の終わりで寒さは何とかなるものの、空腹だけを考える日々。
王宮で陛下を警護していた、同僚と飲み明かした、領地で駆け回った、そんな充実した日々は遥か遠い。
一日一食持ってくる男どもは、俺がまるでアリソルに夜這いを駆けようとした間男のように、彼女の気を引こうとする愛人であるかのように、貶める。
少しずつ、自尊心がへし折られ、心が抉られていった。
***
アリソルは屋敷の窓から小屋を見つめ続けていた。
彼をあの小屋に閉じ込めてからもうずっと、ため息ばかりをついている。
何度も何度も計画を立て直して、覚悟と決意をもって実行したはずなのに、心なんて全く晴れない。
彼がお腹を空かせているとわかりながら食べる食事は全く味気なくて。
何をやっていても空しい。
せめて自分の与えられた役割ぐらいは全うしたいと頑張ってもミスばっかりで、レンジャー夫人に迷惑をかけまくっている。
思い返せば、彼が領地に行っている三か月間は楽しかった。
頑張って家のことを切り盛りして。成果が上がれば手紙で報告をする。
返ってくる手紙で褒められれば嬉しくて。
一人でいるのに一人じゃない。
あの三か月間は、彼に認められたくて頑張っていたのだと今ならわかる。
そう。わかっている。
こんな最低な仕返しをするぐらいなら、彼から離れればいい。
この家から出ていけばいいだけなのだ。
それが可能なほどには、一人で生きていけるほどには、事業の目途はついてきた。
なのに、こんなことをしてまでこの家にしがみついているのは。
彼に反省してもらいたいから?
心の底から謝罪してもらいたいから?
いいえ。違う。
私は。こんなひどい仕打ちを受けてもなお、彼の気持ちが変わらないことを確認したいのだ。
彼を試して。
どれだけ傷つけられても私を必要だと、側にいて欲しいと言って欲しいのだ。
‥‥私がそうであったように。
求めても求めても振り向いてもらえなくて認めてもらえなくて。苦しくて辛くて。それでもなお、彼を諦めきれなかったあの頃の私のように。
結局のところ、彼の側にいたいのだ。
許すことも出来ないくせに。
こんな仕打ちを実行して初めて、滑稽なほど彼に縋っている自分に気づいたのだった。
***
永遠にも思える日々もまだたった十日しか経っていないという事実に気づいて愕然とした頃、いつもの男たちがドアを開けた。
「奥方様がお呼びだ。ついてこい」
暗くなりかけた庭園を横切り、言われるがまま、おとなしく付いていく。
通されたいつものダイニングには、質のいいデイドレスを着たアリソルが座り、テーブルには様々な料理が並んでいた。
飢えた狼のように腹を空かせていた俺はごくりと唾を飲み込む。連れてきた男たちが嘲るように笑うと、伸びた髭にみすぼらしい服装も相まって、ますます恥ずかしさがこみ上げてきた。
「おかけください伯爵様」
彼女の感情のこもらない声が聞こえた。
俺はその場にまるでふさわしくない服装のまま席に着いた。
「いただきましょう」
アリソルは何でもないという風に声をかける。
彼女に続いてカトラリーを手に取った。
彼女の様子をチラチラと盗み見ながら食事をすすめる。
静かな食事が続いた後、ようやく彼女が口を開いた。
「どうでしたか?私の暮らしを体験した感想は」
ああ。やっぱり。
「‥‥申し訳なかったと、思う」
俺は小さく頭を下げた。
それを聞いた彼女の顔が歪む。もしかしたら望んだ答えではなかったのかもしれない。
「君は、あんな暮らしをしていたのだな。たった十日間で分かった気になったというつもりはない。せめて、君と同じ時間、同じ暮らしをすべきなのかとも‥‥」
「ふざけないで!!」
突然の大声に遮られた。
「私が追いやられた境遇は、いつ終わるとも知れない、一生続くかもしれない恐怖と絶望でした。あと何日耐えれば終わるなんて生易しい状況で、分かった気になられたら迷惑です!」
初めて目にする彼女の激情だった。
俺は呆然として、何も言うことが出来なかった。
すっかり項垂れる様子を見て、ふっと彼女の表情が和らぐ。
「まあそれに。伯爵様にこの生活を続けていただくことは実際無理なんです」
へ?と顔をあげると、
「入りなさい」
彼女はドアに向かって声をかけた。
その声に応じてゾロゾロと入ってきたのは見覚えのある男達。両手を重ねて握りしめ、びくびくと怯えるように背中を丸めて入ってきた彼らは、小屋で見た騎士服とは違い、平民のなりをしていた。
「彼らは‥‥」
戸惑いながら問いかけると、彼女は少しだけ微笑んだ。
「うちの使用人に、あのような無礼者はおりません。だから、旅の劇団員の方々に頼んだんです」
劇団員‥‥。目を丸くする自分を見て、まるで悪戯成功とでもいうように、アリソルはくすくすと笑った。
「大変だったんですよ。下手をしたら不敬罪で自分の首が飛ぶような仕事。頼んでも頼んでも全然引き受けてもらえなくて。細かい契約書を作成してようやく引き受けてもらって。何日も前から演技の特訓をして」
壁側に並んだ男たちが一斉に頭を下げた。
「伯爵様!申し訳ありません!ですが俺達、頼まれた仕事をただ全うしただけなんです!」
驚きつつも、彼らを責める気など全くなかった。
アリソルは彼らに話しかけた。
「あなた達は皆、良い働きをしてくれました。大変満足です。当初の金額より少し色を付けておきましたから、家令から受け取ってください」
そう言われると、男達は何度もお辞儀をしながらそそくさとダイニングを後にした。
また二人になった席で、彼女は笑った。
「本当に。これだけの意趣返しにどれだけのお金をつかったことやら。たった十日間で、ですよ。一年なんてとてもとても。この家が潰れてしまいます」
その笑顔があまりにも眩しくて。
混乱しながらも、思わずつられて笑ってしまった。
と、突然アリソルがふっと眉を下げ、真面目な表情になる。
「どうですか。幻滅されましたか?」
は‥‥?
幻滅?
誰が、誰に?
彼女の言葉の意味が理解できない。
「私はこんな女です。どんな仕打ちをされても女神のように笑って許すとか、聖女のように過去のことは水に流すとか、そんな慈悲深い人間ではありません」
彼女の真意を測りかね、言葉を発することが出来ない。
そんな俺に向かい、彼女は小さく息を吐くと、意を決したように告げた。
「こんな暗くてみじめな過去を持ち、夫である伯爵様に心を開くことが出来ない陰湿で面倒な女より、幸せな人生だけを送ってきた、かわいらしい純粋無垢な奥方様を迎え入れるべきかと」
混乱のあまり、思考が停止する。
「‥‥離縁したい、ということか」
俺はようやく絞り出した。
彼女は厳しい表情を崩さない。
「私に決定権などありません。離縁したとて、あの父のことですから、価値の下がった私など、年の離れた好色貴族の後添えに入れられるのが関の山でしょう。私に出来るのは、せめてひどい性癖がないことを祈るぐらいです」
好色爺だと!?
一瞬で血が沸騰するのがわかる。
「俺はアリソルと別れるつもりはない!」
気づけば大声で言い放っていた。
アリソルは驚いたように目を瞠る。
その表情を見て、鈍い俺もようやく気付いた。
そうだ。俺は、俺の気持ちを彼女に一切伝えてこなかった。
「みじめな過去だと?そもそもそれは俺のせいだろう」
「ですがそれは‥‥」
「どうか聞いてほしい。俺は、自分の過ちを棚に上げて他の女に乗り換える程堕落していないつもりだ」
思わず声を荒げた自分に気づき、一つ息を吐いて心を落ち着かせる。
「俺は、これまでこの家が、俺が君にした仕打ちを許してもらえるとは思っていない。君が俺を信用できないのも、心を開けないのも仕方がないと思っている。それでも。俺は」
ぐっとこぶしに力を籠める。
「この家を、ハーディン家を共に支えていくのは君がいい。君に、側にいて欲しいと思っている」
彼女は息をつめて俺を見た。深紫の瞳が俺を映す。
「今更何を言ってると思うだろうが。俺は、初めて君を夜会で見かけた時からずっと気にかかっていた。結婚の相手が君だと知ってどれほど嬉しかったことか。だからこそ、男の影をちらつかされて頭に血が上り、事実を確認しないまま君を虐げてしまった」
「だが」
一旦言葉を止めて、深く息を吸う。
「アリソル、君の気が強くて理論的なところも。周りの人に慈悲深く思いやりがあるところも。心の痛みを隠して無理に微笑むところも。そのくせちょっとしたことですぐに笑うその癖も。全部全部。‥‥愛しく思う」
呆然と俺を見ていた彼女の視線が泳ぎ、何か言葉を発しようとして、止まる。
「慌てなくていい。過去の仕打ちを許してくれなんて言わない。ただ、未来を、二人で共に歩んでいくことを、許してもらえないだろうか」
問いかけるような紫の瞳が俺を見据え、幾ばくかの沈黙の後、彼女の口が開いた。
「‥‥二人で。歩む」
「ああ」
「‥‥私はまだ過去に囚われたままで、前に進めていません。伯爵様を許すこともできません。それでもよろしいのですか?」
「かまわない。無理に心を曲げる必要はない。俺が、自力で君の信頼を勝ち取っていく」
「‥‥伯爵様と、この家で」
「エドモンド、と、呼んで欲しい」
少し強引だったかもしれない。彼女の眼が丸くなって、そして、ふわりと微笑んだ。
「‥‥はい。エドモンド様」
二人の視線が重なり、微笑みあう。俺はポリポリと頬を掻いた。
「せめてこの服装じゃない時に言いたかったなぁ。恰好がつかない」
アリソルはくすくすと笑った。
「素敵ですよ、旦那様。でも、すぐに湯あみして身なりを整えていただかないと、近衛騎士団の団員さんから矢のような催促が来ているのですよ。副団長はいつ戻ってくるのかって。あ、一応王都での業務の区切りがつき次第お伺いしますと伝えてありますので」
はあ?俺は呆れた顔で返した。
「この三か月はやめるための布石だったろう?戻るって言ったって形だけの引継ぎのために一、二日顔を出すだけのはずだったのに、どういうことだ?」
アリソルは肩をすくめた。
「さあ。でも、旦那様は団員の皆様から頼りにされているのですね。誇りに思います」
‥‥そんなことを言われたら、頑張るしかないだろう。