孤独と絶望の日々
1話目でいきなり立場が逆転します。
冒頭辛いシーンが続きます。
たくさんの感想、誤字脱字報告ありがとうございました。
皆様のご意見を受けて、アリソルの気持ちを追記しました。
おかげさまで8月26日、日間ランキング1位をいただきました!
ありがとうございます。
唐突に。
本当に唐突に。
アリソルは自分の前世を思い出した。
前世なのに、まるで未来のような。
文明の進んだ日本と言う国で、平凡ながらも男性と肩を並べて働いていた、そんな記憶を。
そして同時に今の自分の立場を理解した。
19歳という中途半端な年齢で突如前世の記憶が呼び出されたのは、決して心躍る冒険の始まりでもなければ、楽しいゲームの世界に飛び込んだわけでもない。
ただ自分が、アリソルが、自分自身の心を殺してしまったのだ。
この悲惨な状況に耐え切れずに。
アリソル・ハーディン伯爵夫人。それが現世の私の社会的地位。
とてもそうは見えない居住空間を見渡した。
伯爵邸の敷地内にひっそりと建つこの古い小屋にはベッドすらなく、固い板の上に薄いシーツと毛布があるのみ。
身に纏うのはメイドでも着ないような色あせて擦り切れた茶色いワンピース。
そこから見える腕と足はあまりにも痩せてハリもなく、栄養不足による髪の傷みも激しかった。
アリソルは侯爵令嬢に生まれ、よくある政略結婚でハーディン伯爵家に嫁いだ。
もともと仲が良いとは言えないこの両家を繋ぐ意味を持つ婚姻。しかも格上の侯爵家からの輿入れ。
本来ならばこのような待遇は到底ありえない。
しかし、式を終えて屋敷に戻ってきた彼女を待ち構えていたのは、仁王立ちした義母だった。
そしてアリソルを一歩も屋敷に入れることなくこの小屋に追い立てたのだ。
‥‥護衛騎士に色目を使ったなどとありもしない理由をでっちあげて。
それ以来、約一年間にわたり、屋敷のお金に手を付けただの、宝石を盗んだだのと冤罪を吹っ掛けられるために屋敷に呼ばれる以外、この小屋で人間以下の生活を強いられている。
どんなに訴えても縋っても、この屋敷の中に味方はいない。敵の中にただ一人放り込まれた彼女にとって、ここで戦う術など持ち合わせていなかった。
せめて実家である侯爵家が少しでも気に留めてくれればまだ救いがあったかもしれない。けれどアリソルを大切にしてくれた母亡き後、娘を駒としてしか見ていない父や兄がこの状況を知るはずもなかった。
寒さと空腹に耐えながら侍女たちの蔑みや暴力を受ける終わりの見えない絶望の日々に、アリソルの心は完全に壊れてしまった。
そして、人格を前世の自分に譲ってしまったのだ。
***
「何ぐずぐずしているの!伯爵様がお呼びよ!」
戸口では侍女がいら立ったように声を上げる。
アリソルはまた一つため息をつき、ゆっくり歩きだした。
侍女に続き、庭園を横切って大きな屋敷に入る。
本邸に入るのは輿入れしてからこれで5度目。
‥‥たったの5度目。
夫である伯爵様が帰宅した時だけだ。
‥‥夫。
形だけですらない、夫。
王宮の近衛騎士団の副団長を務める彼は、義父亡き後爵位を継いでもなおその座を辞さず、王宮に詰めっきりとなっている。
領地と伯爵家の事業を義母と家令に丸投げし、この家には数か月に一度しか帰らない。
そして帰ってくると必ず呼び出すのだ。
侍女に案内されて屋敷に入ると、アリソルは応接室の前で足を止め、心を落ち着かせた。
大きく息を吐いて見下ろす。
擦り切れた茶色いワンピース。
以前は彼に会う時だけはドレスと宝石で着飾らせられたが、彼の興味が一切自分「向かないとわかってからは、着飾らせることすらやめたようだ。
「失礼します。アリソルです」
「入れ」
抑揚のない低い声を確認し、そっと応接室に足を踏み入れた。
相変わらず不機嫌な表情の夫、エドモンド・ハーディン伯爵は窓際に立っていた。
義母から告げられる、私に関するありもしない醜聞を真に受け、日頃から私を忌み嫌っている。
「お久しぶりです伯爵様」
彼は私が「旦那様」と呼ぶのを許さない。
初夜も済ませていない二人の関係は、他人以下だった。
「お前、また我が家のお金をくすねて宝石を買い漁ったのか」
肩下まで伸びた銀の髪を一つに結び、濃紺の瞳がアリソルを見据える。すっと伸びた鼻筋にシャープな頬のライン。整った顔立ちだからこそ、冷たい視線が余計に畏怖の念を抱かせる。
「日ごろから贅沢するのに十分な費用を渡しているだろう。何故それで満足しない。母上が嘆いていたぞ。どれだけ説得しても男癖の悪さと金遣いの荒さが直らないと」
‥‥はあ。
全くこの男は何を見ているのかしら。
床を見つめながら、このバカげた状況を打破する方法を冷静に分析した。
昨日までの自分なら彼の声色だけで怯えあがり、ただうつむいて震えていただろう。
しかし人格がほぼ前世の自分に置き換わった今、どう考えてもこの男は最低だった。
ここは思いっきり反抗するべきでしょう。
くっと顔をあげた。
「伯爵様の目は節穴ですか?」
思いもよらない態度に彼が驚いた顔で目を瞠る。
一瞬の怯みを見逃さなかった。
前世では平凡な経理事務とはいえ会社で様々な人と渡り合い、男性と同等に仕事をしてきたのだ。この状況に怯えてなどいられない。
「伯爵様、今の私の姿見えてます?視力悪いわけじゃないですよね?この、擦り切れた服、そして、どこに宝石があると?それから見えます?この細い腕。食事もろくに食べさせてもらえず、ガリガリですけど!?十分な費用?1レニーももらってませんが?服も宝石も一度も買ったことはないですけど?輿入れ時に持参したドレスや宝石すら取り上げられましたが?そもそも私が嫁いでからこの一年、どこで暮らしていたかご存じですか?庭の端の古い小屋で、ベッドもなく、板の上で寝ているのですよ?」
まさか反抗されるとは思わなかったのだろう。その勢いに彼は少し後ずさった。
「こ、小屋?何を‥‥」
彼は完全に狼狽していた。この程度でうろたえるのか。
私の服装など、目に入れればすぐにわかるだろうに。
案外ちょろいのかもしれない。
アリソルは一気に畳みかけた。
「ご存じないのですね。まあ妻がどこで生活しているかなんて全く興味もなかったでしょうし」
明らかに彼の目に動揺が走った。
このチャンスを逃してはならない。
「そうだ。今から私の住処をご案内しますよ。どうぞご覧ください」
アリソルは彼の腕を掴むと、ドアに向かってつかつかと歩き始めた。
「は?どうして俺が‥‥」
抵抗しようとしているものの、その力は存外に弱い。
「あなたの妻がどのような生活をしているのか、きちんと自分の眼でお確かめになったらと言っているのです。何か不都合でも?」
彼はキョドキョドと視線を彷徨わせた。
「いや‥‥‥」
小さく息をはくと、彼は意外にもおとなしくついてきた。
突然の豹変に動転しているのか。
これまでの自分は常に大人しくて自己主張もせず、少しきつく言われるだけで怯えて俯いてしまうだけだったから。
彼の腕を掴んだままずんずんと庭を横切り、小屋の前に立つ。
ちらりと彼を見ると、こわばった表情のまま、それでもその目は真っ直ぐに前を見ていた。
もしかしたら多少は見込みがあるかもしれない。
彼の正義感に一縷の望みを託し、小屋の中に案内した。
「どうぞ」
促されて小屋に入り、神妙に辺りを見回す。
クローゼットのある一部屋だけの小屋。古くて小さいが衝立の奥に流しとトイレがあり、水が引いてあるのだけが救いだ。この設備のおかげで立てこもることが出来るのだから。
「‥‥これが、ベッド、なのか?」
大きく見開いた目の先には、私が日ごろ寝ている板。
それでもシーツと薄い布団があるだけ、最初よりはましになっている。
「そうですよ」
「‥‥‥‥食事は‥‥」
「食事?ああ。そろそろですね。ちょうどよかった。伯爵様、クローゼットの中に隠れて見ていてください。小さな穴が開いているので覗くことが出来ます。何があっても絶対に声をあげないで、出てこないでくださいね」
そういうと、戸惑う彼をぐいぐいとクローゼットの中に押し入れた。同じような擦り切れたワンピースが2枚かかっているだけのそこは、大きな男性も余裕で入ることが出来る。
彼を押し込めると同時に、ガンガンとドアをたたく大きな音が鳴り響いた。
「アリソル!開けなさい!食事を持ってきてあげたわよ!」
「はい。ただいま」
ドアを開けるとそこにはいつもの侍女が立っていた。手には固くなった小さなパンが一切れだけ。
‥‥今日はスープはなしか。
小さなため息をつく。
侍女は蔑んだ目でこちらを見ると顎をくいっと動かした。
「ほら、今日の食事よ。欲しかったらいつものように這いつくばって物乞いしなさい」
ああ、いつものことだ。
アリソルはフラフラと床に膝をつき、両手を床に付いた。
侯爵家の娘としての矜持など、とっくの昔に消え失せた。
ちなみに伯爵夫人としてのプライドや意識など、初めから、ない。
いつもならすぐにみっともなく乞いねだるのだが、今日はあえて言葉を発しない。
彼に侍女の態度を見せるためには、イラつかせた方がいいのだ。
案の定、沈黙を貫くアリソルに侍女が怒鳴りはじめた。
「何してるの!いつものようにしろって言ってるでしょ!」
彼女の声は一段と大きくなった。これでいい。
感情のこもらない声で唱えた。
「お優しいリーリア様、どうぞ伯爵様に見向きもされない哀れなわたくしにお慈悲を、一切れのパンをお恵みください」
そのセリフにようやく満足したらしい侍女がパンを投げてよこした。
そのパンに近づき、手を伸ばす。
「誰が手を使って食べていいって許した!?」
途端に侍女の足が飛んできてみぞおちを蹴り上げる。
ぐぇっと奇妙な声が上がり、軽い身体は飛ばされて壁に背中を強く打ち付けた。
私は胸を押さえてそのままくずれ落ちた。
「いつものように這いつくばって犬のように食べなさいって言ってるのよ!」
「手を使って食べるなんて贅沢なことは考えないことね」
言われた通り、這いつくばったままのろのろと進み、パンに歩み寄る。
そして手を使わずに食べきった。
当初は食べるたびにむせていたが、一年も繰り返せばすっかり慣れたものだ。
最近は侍女を怒らせないよう、手を使わず食べていたが、彼に事実を見せるため、あえて手を伸ばしてみた。ここまで思い切り蹴り上げられるのは予想外だったが。
今回はろっ骨にヒビも入ったかもしれない。侍女も久しぶりで手加減を忘れたか。
「ほら、床のパンくずも全部舐めなさい!」
言われた通りに床を舐め始めると、不意に侍女が私の頭を踏んづけた。床に頬を押し付けられ、顔を動かせない自分に侍女は上から歪んだ笑みを見せた。
「今日、お館様が王宮からお戻りになられたの知ってる?わたくし、また閨に呼ばれてしまいましたの。いつもいつも朝まで離していただけなくて。情熱的で本当に困ってしまいますわ」
勝ち誇ったように嘲笑し、様子を窺う。
しかし、私何の反応も見せないのを見ると、忌々しそうにふんっと顔を背けた。
「あんたはここで、お館様からお慈悲がもらえる日でも夢見てなさい。まあそんな日は永遠に来ないでしょうけどね」
吐き捨てるように言うと、女はバタンとドアを閉めて出ていった。
ふう、と小さく息を吐いて振り返る。
「‥‥伯爵様。もう出ていらしていいですよ」
かたり、と小さな音がして、彼がクローゼットから出てきた。
その顔は呆然として、真っ白になっている。
「君は‥‥‥‥いつもこのような仕打ちを受けているのか」
はあ。
今更ですか。
本当に本当に、今更ですか。
思わず大きなため息がついて出た。
「ええ。ずっと、こうです。こちらに輿入れしてから」
そして付け加える。
「あ、先ほどのパン、夕食じゃありませんから。一日一食、これだけ、です。たまにスープがつくときはありますけどね」
そして、ふっと、冷たい目で彼を見た。
「いかがでしたか?自分の眼でご覧になった心境は」
刃物のような鋭い言葉に彼はたじろいだ。
「いや、しかし‥‥」
は?
しかし?
まだ認めないのか、この男は。
少しだけ見直したかと思った彼の評価は、また地の底まで落ちてしまった。
絶望を感じながらも続ける。
「なんならもう少し見てみますか?夜中になるとまた面白いものが見られますよ」
そうして、愕然としている彼を小屋の外においだした。
***
エドモンドは理解が追い付かず、ただただ呆然としていた。
‥‥どういうことだ。
俺の妻は男漁りがひどくて金遣いが荒く、家のお金を横領し続ける悪女ではなかったのか?
父上が亡くなってから、母上のヒステリーにうんざりして、家には出来る限り帰らないようになっていた。
それでも領主である以上、最低限の仕事はあり、たまに顔を出す必要がある。
その度に母上から、アリソルがまた盗みを働いただの、男に色目を使っただのと訴えられ、面倒だと思いつつ彼女に釘を刺すようにしていた。
今回も、家に戻ってきたと同時に、母上がぎゃあぎゃあと騒ぎだし、またかとうんざりしながら彼女を呼び出したのだ。
二か月ぶりに会う妻は、雰囲気がすっかり変わっていた。
彼女はこんな顔だったか?
頬はこけ、大きく可愛らしかった瞳はぎょろつくほどになっている。華奢だった手足は骨が浮き出るほど細く、艶もハリも全く感じられなかった。
そこはかとない違和感を感じつつも、母上に言われたままに辛辣な言葉を浴びせた。
しかし、返ってきたのは嘲るような眼差しと冷たい言葉。
驚きと戸惑いの中にも何か引っかかるものを感じて、言われるがままに彼女についていった。
それが、まさか。
まさかこんなひどい状況に置かれていたなんて。
男漁りも、盗みも、なにもありはしない。
ただただ虐げられた悲惨な女の生活があるだけだった。
悲惨。
その言葉がピッタリと当てはまる。
むしろその言葉しか、ない。
混乱の中、あの侍女の言葉だけは信じて欲しくないという想いが湧き出てきた。
あんな女、見たことも言葉を交わしたこともない。
あんな女と浮気をしているなどと疑われるなんて、不本意もいいところだ。
「さっきの女なぞ俺は知らない。あんなヤツと話したこともないぞ。ましてや寝所をともにしたことなど」
俺は必死で否定の言葉を口にする。
あの、ふざけた侍女の戯言だけは真に受けて欲しくなかった。
しかし彼女は、まさにどうでもいい、という顔をこちらに向けて。
「はあ、そうですか」
ただ、すげなく答えただけだった。
それでも俺はどうしても納得できない。
「あの女はすぐに屋敷から追い出す」
そう宣言したが、彼女からは何の反応も返ってこなかった。
彼女はまだ言い募ろうとする俺を制すと、一旦戻れと追い出す様にドアに追いやられた。
言い足りなさを感じながらも、言われた通り二刻後に戻ることを約束して、屋敷に戻る。
呆然と立っていると、すぐに家令がかけてきた。
「こちらにいらっしゃいましたかお館様、夕食の準備が整っております」
家令に声をかけられるまま、ふらふらとダイニングに向かう。
そこには大きな鳥の丸焼きと、新鮮な野菜のサラダ、スープやテリーヌなど、様々なごちそうが並んでいた。
「久々のお館様のお帰りで、コックが張り切ったようです」
家令がにこやかに、どことなく得意げに報告してくる。
いつもならこんな心遣いに喜んだ自分だが。先ほどの悲惨な食事光景を見てしまった後ではちっとも味は感じられなかった。
彼女はここに嫁いでから、おそらくこのような食事は一度もありつけたことがないだろう。
「‥‥ありがとう。美味しかった」
そう伝えつつもほとんど残してしまった状態で、呆然と自室に戻った。
***
とにかく何も手に付かないまま約束の時間になり、またこっそりとあの小屋に戻る。
コンコン、とノックをする。
俺だ、と伝えると、すっとドアが開いた。
「夕食はお済みになりましたか?」
彼女のそのたった一言にひどく罪悪感を覚える。
「ああ。すまないが、またしばらくここで様子を見させて欲しい」
ちりりと刺す胸の痛みを隠すように伝えると、彼女は小さく頷いた。
すでに夜は更けてきており、これから何か起こるとは考えにくいのだが、彼女がそう言うのなら何かあるのだろう。ここまで来たら、全部自分で確かめたい。
ほどなくして遠くから男の声が聞こえてきた。
一人ではない。複数か。
途端に彼女の表情が強張った。
「伯爵様。何があっても声をあげないでくださいね」
彼女はわずかに震える唇をを一文字に結んで眉間にしわを寄せ、ドアから視線を外さないまま小さな声で囁いた。
今度はクローゼットに入る必要はないらしい。
隣にいられれば彼女を守れるかもしれない。こんな時なのに少しだけ誇らしく思ってしまう自分がいた。
話し声と足音は近づいてきて、ドアを乱暴にガチャガチャとゆすり始めた。
「奥さまぁ。淋しい哀れな奥様。俺たちが慰めに来てあげましたよぅ。ドアを開けてください」
ガタガタどドアをこじ開けようとしながら嘲笑うよう声が聞こえる。
アリソルは息をひそめてドアを見つめていた。
ドアの外の声は徐々に乱暴になっていった。
「おい!そこにいるんだろ?いつまでも閉じこもってないで、このドアを開けな!」
これは、この家の護衛騎士か。
「あー、そうそう。お館様は帰ってきて早々、今日もきれいな恋人を侍らせてご機嫌な夜を過ごしてるよ。あんたもどうせ旦那に見向きもされないだから。せめて俺たちが慰めてやるって言ってるんだよ。いい加減諦めて出てきな」
‥‥なんだこいつらは。
思わず声をあげようとするが、彼女に左手で制された。
腰をかがめて小さな声で尋ねた。
「あれは‥‥。我が家の護衛騎士達ではないか?」
彼女は小さく頷いた。
「大丈夫です。この小屋は庭師のアンディが頑丈に補強してくれていますから。彼らには破ることはできません」
そうでなければとっくに純潔は散らされてました‥‥とつぶやく彼女に愕然とする。と同時に、その言葉に強烈に反応する自分に気づく。
もしかして彼女はまだ生娘のままなのか?
こんな状況なのに浮かれてしまう自分がつくづく嫌になる。
庭師のアンディ。
自分が生まれる前からこの家に勤める、やたらと元気のいい爺さんだ。少なくとも彼女の味方をする人がいるという事実に、ほんの僅か安心した。
主の存在に気づかない外の野郎達は、さらに続けた。
「なあ、奥様よぅ。その身体でどれだけ男を喜ばせてきたんだ?俺ら二人じゃ物足りないか?まあせいぜい可愛がってやるからさ。出て来いって」
あまりの言い様に手のひらを強く握りしめすぎて血が滲みそうだった。
こんな状況でも彼女は毅然と顔をあげ、ドアを見つめている。そして俺を見て、また静かに首を横に振った。
その目でしっかりと現状を把握しろ。そう言われているようで、振り上げかけた拳を下ろす。
突然、別の男の声が響いた。
「お前ら、何をしてる!」
遠くから聞こえるこれは別の護衛騎士か。
その声を聞いた途端、ほっと緩むアリソルの表情にもやっとしたものを感じてしまう。
「お前達、自分のやっていることがわかっているのか!恐れ多くも奥方様に夜這いをかけるなど、どんな不届きものだ!すぐに去れ!」
「ちっ、セネガルか。面倒な奴が現れたな。今日はこの辺にしとくか」
下衆な男達は現れた正義の味方に怯んだのか、足早に去っていった。
突然訪れた静寂に、彼女はふうっと息をついた。
「奥様、大丈夫でしたか」
ドアの外から誠実そうな男の声がする。
「ええ、大丈夫。貴方のおかげよ。いつもありがとう」
その声には明らかに安堵の色が含まれていた。
「遅くなって申し訳ありません。本日は休暇をいただいておりまして」
護衛騎士の言葉に彼女の頬が緩む。
「あら、お休みの時までこちらに来ていただくのは申し訳ないわ」
彼女の言葉には多分に気安さが感じられた。
「いえ、本日はクロムフェルト伯爵令息にお会いしてまいりました。相変わらず奥様のことを大変心配しておりましたよ」
「まあ!ウェル兄さまが?」
その名前を聞いて、彼女の声のトーンが一段と上がった。
彼女がこのように気安く呼ぶ男は一人しかいない。ウェルス・クロムフェルト伯爵令息。彼女の従兄にあたる彼を、彼女はそう呼んで小さな頃から慕っている。
「はい。それで、干し肉と乾パンをいただいたものですから、お渡ししたくてお伺いしました」
「うれしいわ。今、窓を開けるわね」
アリソルはドアを開けてその騎士を迎え入れるのではなく、窓を開けて荷物だけを受け取った。その自然な流れに安心する。やはり彼女は男を招き入れてなどいないようだ。
「干し肉など、本来貴方様が召し上がるようなものではないのですが‥‥」
「何を言っているの?ウェル兄さまやあなたの差し入れがなかったら、今頃私はとっくに飢え死にしているわよ」
そのセリフにずきりと胸が痛む。
「ところで、本日はシーツの洗濯をされますか?するのであれば井戸まで護衛させていただきますが‥‥」
洗濯も自分でやらされてるのか!?
驚く俺を尻目に、彼女は答えた。
「ありがとう。でも実は先ほど侍女に蹴られたところがかなり痛くて。今日は重い物は持てそうもないの。少し体調が戻ったらまたお願いするわね」
先ほどの様子を思い出す。驚くほどの勢いで蹴り上げられていた。彼女は壁まで飛ばされていたのだ。
こんなにやせ細った身体だ。骨の一本や二本折れていてもおかしくはない。
「大丈夫なのか?」
思わず彼女に声をかけてしまった。
「‥‥奥様?どなたかいらっしゃるのですか?」
窓の下からいぶかしげな声がする。
「まさか!何でもないわ。」
「そうですか。もし痛みが激しかったり熱が出るようならおっしゃってください。何とか‥‥医者を‥‥用意しますので」
その言葉尻は弱く、歯切れの悪いものだった。
彼だって、医師が呼べないほど賃金が低いわけではないだろう。
となると、難しいのは‥‥ほかの使用人に見つからないように連れてくることか。
「大丈夫よ!でもどうしても辛かったら言うわね」
敢えて明るく振る舞うアリソルを心配し、しばらく窓の下でたたずむ様子を見せたが、何度も声をかけながらその護衛が小屋を離れる音が聞こえた。
突然の静けさに、気まずい沈黙が流れる。
砂をじゃり、と噛んだようなざらつきが喉の奥を覆った。
「君は‥‥。毎日こんな暮らしをしていたのか?」
彼女は無感情にこちらを見た。
「そうですよ。まあ、護衛達がいたずらに夜這いごっこをかけ始めたのはこの2,3か月ですけどね。あまりにも伯爵様がこの家に寄り付かないから、何をしても大丈夫だと判断したんでしょう」
そして、ふぅっと大きく息を吐き出した。
「まあ、彼らも本気ではないのでしょう。ただ揶揄っているだけて。本気であれば、私はとっくに彼らの慰み者になっていたでしょうから」
鈍器で頭を殴られだようだった。
そんな俺を見て、彼女は自嘲気味に笑う。
「どうでしたか?私の生活を実際にご覧になって。贅沢すぎましたか?」
何も言い返せなかった。
重苦しい沈黙の後、ようやく絞り出す。
「まさか‥‥。いや。でも。‥‥では、君に盗られたという金はどこに‥‥‥‥」
アリソルはやれやれと言うように眉を下げて言い放った。
「あなたのお母様に決まってるでしょう?」
その表情は、そんなこともわからないの?と言った顔で。
「私に盗られたと言っている金額なんてはした金もはした金。可愛いものです。実際にお義母様と家令が着服している金額なんてそんなものじゃないですわよ」
「家令!?なぜ、二人が!?」
思わず素っ頓狂な声を上げる。
彼女は心底呆れた顔をした。
「あの二人の関係に気づいていないのなんて、この屋敷では貴方だけではないですか?」
母上と家令が?
男と女の関係ということか?
いつから?
まさか、父上がご存命の頃からではないよな‥‥。
更に彼女は続ける。
「その様子では伯爵家の経済状態が今どうなっているのか、領地の人々の暮らしぶりがどのようなものか、貴方は全くご存じないのですね」
俺は彼女の厳しい問いかけに思わず後ずさった。
「いや、しかし、経営は順調だと母上も‥‥」
彼女は、はあ、と大きくため息をついた。
「こうだと聞いた。誰それがそう言っていたから。伯爵様の話はそればっかりですね。一度でも自分の眼で確かめられたことがあるんですか?」
彼女の射るような視線に、またもや口をつぐむしかなかった。何も言い返せない。
「‥‥もしかして、領地運営もうまくいっていないのか?」
アリソルは小さく肩をすくめると
「うまくいっているというのかどうかはわかりませんが、とんでもなく高い税率を吹っ掛けられていて、困窮した領民たちはこの冬を越せないかもしれないことは間違いないでしょうね」
は?
目を見開く俺に、ま、それは私も同じですが‥‥と小さな声が続いた。
そしてにっこりと、不気味な笑みを向ける。
「ちなみにその税金も、お母様の宝石やドレス、家令の着服にごっそり持っていかれていますよ」
‥‥信じられない。
いや、信じざるを得ない。
今この現状を見た後では、ヒステリックに喚き散らす母上より、彼女の言葉の方がよほど信憑性がある。
ふと、彼女の状態がおかしいことに気づいた。
ゆら、ゆらと頭がすこしふらついている。
「どうした?」
俺の問いかけに、彼女はゆっくり顔をあげた。その目元は苦痛でわずかに歪み、額にじっとりと汗が浮かんでいた。
「おい!!さっき蹴られたところ、痛むんじゃないのか!?」
「近づかないで!」
慌てて駆け寄る俺を押しのけるように彼女は手を払った。
だが、彼女は自分自身の手の勢いに負けてしまったかのようにみぞおちを押さえ、そのまま前かがみに崩れ落ちてしまった。
彼女に駆け寄り、両ひざの裏に手を回してそのまま抱え上げた。
‥‥信じられないほど軽かった。
これが一人の大人の体重なのか?
「離して!」
アリソルは一瞬逃げようと身をよじったが、さらに激痛を呼び込んでしまったのか、苦痛に顔を歪めた。
「動くと骨に響くぞ」
俺は彼女を抱えたまま小屋を出た。痛みに負けたのか彼女はおとなしく抱かれることにしたようで、ぐったりともたれかかってくれた。
「どこに連れていくつもり?」
力なくもたれかかりながらも咎めるような声がかかる。それを無視して、どんどん歩き進めた。
「屋敷だ。放っておけば今夜は熱が出るぞ。あんな場所に置いておけるか」
「その、あんな場所に一年も放っておいたのは誰?」
痛いところを突かれ、思わず彼女を抱く手に力が込もった。
「‥‥悪かった。だが、今はその怪我を治すことだけを考えて欲しい」
「今更‥‥‥‥!」
言いかけた彼女を遮って尋ねる。
「この屋敷の中でお前が信頼できるのは、誰だ?教えてくれ」
言い返そうとした彼女は一瞬黙り、少しの間をおいて、答えた。
「護衛騎士のノーツマン卿はいつも助けてくれるわ。さっき差し入れをくださったセネガル・ノーツマンよ。あと庭師のアンディ。メイドのローラはいつも気にかけてくれる。それからコックのジョーセフ。時々ローラやアンディを伝ってこっそり残り物をわけてくれたりするの」
残り物。その言葉に胸が痛む。
「信頼できるのはその四人だけよ」
四人。それでも。その四人の支えがなかったら、彼女の言う通り、今頃は命を落としていたかもしれない。
俺は騎士の宿舎に向かった。彼女は俺の腕の中でおとなしくしてくれている‥‥と思ったら、呼吸が浅く、速くなっていた。
急がなければ。
「ノーツマン、いるか?」
宿舎の前で、ドア越しに静かに声かける。
ドアはすぐに開いた。
「お館様!?こんな夜更けにどうして‥‥!」
彼は腕の中でぐったりとしている彼女を見て目を丸くした。
口を開きかけたノーツマンを制する。
「詳しい説明は後だ。彼女の骨が折れているかもしれない。屋敷に連れていくから、其方は腕の立つ医者を呼んできてくれないか。できれば女医がいい。すぐに来てくれる人に心当たりはないか?」
彼は上着を羽織りながら答えた。
「それでしたら以前から奥様の診察を頼みたいと思っていた医師がおりますので、すぐに走って呼んでまいります。しかし‥‥、お屋敷ですか?」
彼は不安そうに俺を見た。
「この状態であの小屋には置いておけないだろう。俺の寝室に寝かせる。医者を連れて部屋に来て欲しい」
「承知しました。ですがお館様。出来る限り大奥様に見られないようお願いします。でないと彼女の身が危ない」
「わかっている。お前も戻ってきたら、彼女の護衛に当たってほしい」
「もちろんです。すぐに戻ります」
彼は軽く頭を下げ、あっという間に闇に消えていった。
俺は屋敷の裏口から静かに入った。
この時間、母上はすでに部屋に戻っており、見つかる心配はほぼない。
それでも一番安全なのはやはり俺の部屋だろう。
「俺のベッドで申し訳ないが、我慢してくれ」
小さく囁いて彼女を横たわらせる。
彼女は自嘲気味に笑った。
「我慢なんて。この家に来てから初めてのベッドですのに」
信じられない台詞に俺は頭を抱えた。
疲労がたまっていたのだろう。横になった彼女の瞼はあっという間に降りてきて、うとうとし始める。
俺はベッドの横に腰を下ろし、彼女に顔を近づけた。
熱も出てきたのかもしれない。相変わらず息は浅く荒い。
そのこけた頬に手を伸ばし、顔に張り付いた髪をかき上げた。
「ん‥‥‥‥」
手が触れた箇所にびくりと反応し、彼女は顔を少しだけ背けた。
***
眠るアリソルの髪に手を入れ、何度も何度もかき上げながら、エドモンドはこれまでの日々を思い返していた。
始まりはよくある、家同士のつながりの政略結婚だった。
だけど、初めて釣り書きを見せられた時、心がドクンと躍った。
彼女だ。
何度か夜会で見かけたことがある女性。
金色の髪が輝き、大きめの紫の瞳が人を惹きつける。
つい何度も目で追ってしまっていた。
控えめだが、笑うと花がほころんだように空気が柔らかくなる。
夜会では、輪の中心と言うわけではないが、穏やかな友人と笑いあっていることが多い。こんな女性と結婚できるのなら政略結婚も悪くないな、と思ったものだった。
結婚式の彼女は本当に美しくて。
誓いの言葉で目を合わせた時、ふっと微笑んだその破壊力に俺の心臓はきゅうきゅうと締め付けられた。
この人と、夫婦になれるんだ。幸せな家庭が築けるといいな。
しかし、そんな甘い理想は一瞬で消え失せた。
大規模で華やかな結婚式を終え、初夜への期待を膨らませて寝室に向かう俺の前に現れたのは母上だった。
「あの女、結婚式の当日に護衛騎士をたぶらかして部屋に連れ込もうとしてたのよ。以前からふしだらな噂が絶えない女だったけど、実際目の当たりにするとひどいものね」
驚く俺に母上は続けた。
「伯爵夫人としてふさわしくなるよう、しばらくは私が責任もって指導することにしたわ。貴方はあんな女のことなんて忘れて、これまで通り近衛騎士団のお仕事頑張って頂戴」
視界が真っ暗になった。
裏切られた、だまされた、そんな思いがぐるぐる回る。
そっちがそう出るなら自分にも考えがある。
存在を丸ごと無視すればいいだけの話だ。
それからの俺は、アリソルの存在を忘れたかのように近衛騎士団の仕事に没頭し、それまで以上に家に寄り付かなくなった。
近衛騎士団の仕事は楽しかった。きらびやかな王宮で陛下や王妃様の身をお守りする仕事は誉れだったし、仕事終わりに仲間と詰め所で飲んだり、そのまま街に繰り出したり。
いい年してまだ青春が抜けきらないような気分になることもあったが、領地経営もささやかな事業も母上と家令が取り廻してくれている今のうちぐらいは、今ぐらいは楽しんでも罰はあたらない。そう思っていた。
「新婚なのに、こんなところで油売っていていいのか?」
同僚に聞かれるたびに、肩をすくめた。
妻の醜聞など言いふらすつもりはないが、気の知れた仲間内には実情を伝えていた。
彼女と閨を共にしたことがないことも。
「一度でも寝たら、誰の血かわからない子供を俺の子だと主張されて後継の座を乗っ取られるのがおちだからね」
俺のそんな話を聞いた同僚たちの反応は微妙で。決して盛り上がる話でもないのであまりすることはなかったが。
しかしそれは全て間違いだった。
彼女は、潔白で、高潔で、そして強い女性だ。
エドモンドに言いようのない喜びと、彼女を守りたいという強い思いが湧き上がってきた。
一刻ほど後、予想よりも早くセネガルが女医を連れて戻ってきた。俺よりいくらか年上の、気の強そうな女性の医師。
手短に状況を説明すると、その女医は厳しい表情で俺を睨むとベッドに向かった。
セネガルにドアの外での護衛を頼み、アリソルのことを二人に任せて部屋を後にした。
自分にはやらなければならないことがある。
今夜。
一晩で決着をつける。
家令と母上がしてきたことを、出来る限り調べ上げてやる。
これでも騎士団では仕事の出来る男としてこの歳で副団長までのし上がってきたのだ。その本領を今発揮しなくてどうする。
父上が使用していた執務室に向かうと、ドアに鍵はかかっておらず、書類はそのまま放置されていた。棚には乱雑に資料が立てかけられている。その仕事のいい加減さに呆れた。
夜もかなり更けてきていたが、一つ一つ丁寧に帳簿を確認していく。
調べ始めてすぐ、帳簿を放り出したくなった。
‥‥ありえない。
何だこれは。
横領、なんて生優しいものじゃない。
しかも、二人とも隠す気が全くない。
いや、正確には三年前には隠そうという努力の跡が見られた。
しかし自分が家にも寄り付かず、まったく家のことを顧みようとしないことが分かったからだろうか。だんだんとその手口は大胆になっていき、最近は大っぴらにお金をかすめ取っている。
俺は天を仰いだ。
あと少し気づくのが遅かったら、伯爵家の家計は手遅れの状態に陥っていただろう。このタイミングで教えてくれたアリソルには感謝しかない。
しかしあの小屋に閉じ込められていて、どうやってこの事実を知ったのか。
‥‥おそらくみんな知っていたのだろうな。俺以外全員。
俺はそれらの書類を全て持ち出し、クローゼットに入れると鍵をかけた。証拠保全は確実に。
新連載始めました。
亡国王女は愛を知る〜敵国の中で必死で生き延びていたはずが、どっぷりと溺愛されています〜
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よろしくお願いします。