晶、観察日記
「晶、観察日記」
朝、七時に鳴るアラームを寝ぼけながら止める。
スマホに仕事の連絡事項が送られてきていないか確認して、乱れた髪の毛をかき上げながら、チラっと同じベッドに寝ている妻を覗く。
どうやら、今日は寝たふりをしていないようだ。
穏やかに寝息を立てて、ゆっくりと肺が膨らんでは沈む様子を見ていると、何とも幸せな心持ちになる。
そっと起きないように、何も音を立てないようにそっと、彼女の額にキスをする。
そっと唇を離して、羽のような綺麗なまつげを見つめていると、どうしてか・・・瞼が持ち上がって目を覚ましてしまう。
「・・・美咲くん・・・」
俺が彼女に見惚れていると、いつもの透き通った声で俺の名を呼んだ。
自然と口元が緩んで右手を彼女の頬に伝わせると、布団から引き出した白い手は、大事そうに俺の手を包み込んだ。
二人だけの空間で、何も恐れることもなく、彼女と居られることが今の俺の全てだった。
やがて晶はしっかり両目を開いてニッコリ笑うと、体を起こして俺の背中に腕を回した。
その甘えた様子が可愛くて愛おしくて、いい香りがする彼女の髪に頬ずりしては、大きく呼吸して肺腑の奥まで吸い込む。
ありふれた桃色のパジャマ姿が、誰も見ることの無い特別な姿で、抱きしめながらまた何度も白い肌に触れたくなる。
「美咲くん?」
晶に埋まるように強く抱きしめ過ぎて、まだ薄暗い部屋の中で我に返った。
「・・・どうしたの?」
いつもの優しい笑顔が、気付けのように寝ぼけた頭を無理やり起こす。
「何でもないよ。・・・おはよう。」
「ふふ、おはよう♡」
キスを強請ってまた可愛く目を閉じる表情に、さらりと茶色い髪の毛が揺れて、衝動を飲み込みながらそっと唇を重ねた。
柔らかい感触に、朝からムラムラしそうなのを耐える。
そっと唇が離れると、パチパチとまた何度か瞬きする彼女の大きな瞳が、俺の心中を探るように見つめた。
「なんだか美咲くん・・・いつもと違う?」
「・・・いや、別に特に・・・何もないけど・・・」
ささっと触れていた手を解いてベッドから出る。
彼女からの視線が尚も刺さるけど、静かに洗面所へと向かった。
朝から妻に欲情してしまう体を鎮めながら、顔を洗って何気なく鏡を見た。
少しずつだけど、自分の面立ちが父に寄ってきている気がした。
「ふぅ・・・」
タオルで顔を拭うと、晶がパジャマのボタンに手をかけながら、ひょいっと洗面所に顔を覗かせた。
「私も顔洗っていい?」
「・・・ああ。」
彼女の肌着と胸元が露になって、思わず目のやり場に困って視線を逸らせた。
「あ、ごめんね?はしたないよね。洗濯しようと思って・・・。」
晶はヘアバンドをつけながら途中で脱ぐのをやめて袖をまくった。
返す言葉に困って洗面所を出て、自分も着替えを済ませるべくクローゼットを開けた。
スウェットをさっと脱いでシャツを取り、袖を通していると、ふと背中に視線を感じて振り返った。
すると晶が上だけパジャマを脱いだ肌着姿のまま、ニコニコと俺を見つめていた。
「・・・なに?」
「えっ・・・あ、ううん。えっと・・・美咲くんの着替えシーンを眺めていたくて・・・」
晶は拝むように両手を組んで、大きな目をパチパチさせている。
大きな窓のカーテンの隙間から、僅かに朝日が漏れているだけの薄暗い寝室で、何と言い返すべきか考えた。
いや・・・別に考える必要ないな・・・
俺が少し沈黙していると、晶は不安になったのか側に寄って顔を覗き込んできた。
「美咲くん・・・?やっぱり今日なんか・・・」
「可愛い顔して可愛いこと言って、そんな格好で側に寄られたら、俺だって遠慮しないよ?」
呆気にとられる彼女にキスして抱きしめた。
途切れる可愛い声を漏らすので、それを飲み込むように深く重ねる。
抵抗する力が弱くなってそっと唇を離すと、僅かな明かりでも分かる程彼女は赤面していた。
意外な反応に見つめ返していると、彼女は硬直して口をパクパクさせた。
「ふ・・・このまま押し倒してもいい?」
「え!!え!?何で!?」
「・・・したいから。」
晶の細い手をそっと取って、ベッドの方へ連れて行こうとすると、彼女はぐっと力を入れて立ち止った。
「あ・・・あのね?夫婦だからって目の前ではしたない格好してごめんなさい・・・。あ、あの・・・美咲くん今日も朝から取引先に行くって言ってたでしょ?急いで朝食用意するから・・・」
どうやら彼女もまた、当主だった頃のように、俺のスケジュール管理を徹底する癖が抜けきっていないようだった。
けど俺は・・・咲夜のように好きな相手に上手く甘える方法を知らない。
手を取ったまま黙っていると、晶はそっと体を寄せて触れるだけのキスをした。
そしてそっと優しい手を俺の下腹部へ滑らせる。
「・・・あの・・・したいならその・・・口か手で・・・」
晶の考えて出した答えの行動の訳くらい、俺は瞬時にわかる。
「・・・・いい。」
言葉にして正直な気持ちを伝えるのが苦手だ。
彼女から目を逸らして俺は寝室を出た。
この程度のやり取りで、すれ違ったり喧嘩をしたりするわけでもない。
彼女はその後も変わらず何気ない会話に応じながら、一緒に朝食を準備し食事を済ませた。
俺たちはいつも当主であるとき、1日の予定をいかに効率よく進めるかが勝負だった。
イレギュラーなことが起きてしまえば、仲介として更夜さんに連絡しなければならなかったり、余計な時間や金を使って解決しなければならない。
特に前任の父や由影様が優秀だったため、子供だと嘗められることも多く、効率を考えても感情論で事を上手くいかせまいとする者や、私欲で仕事の案件を頓挫させようとする邪魔者もいた。
常時気を張っていた。ピリつかせる程の、父に似た空気を放っていないと、なかなかいうことを聞かない連中もいたからだ。
だけど今はもう・・・俺も晶も何にも縛られてはいない。
畏まった口調で話す必要性もない。決まった時間に朝食を摂らなくていいし、予定を確認して決まった時間に帰宅しなければ、なんてこともない。
けれど更夜さんが懸念されていた通り、俺はずっと・・・当主である自分が抜けずに引きずり倒している。
淡々と皿洗いをする晶を見やった。
自分の妻にすら冷たくあしらってしまう始末だ。
一つため息をついて、ダイニングテーブルに手をつき重い腰を上げた。
すると晶はパタパタと小走りに俺のジャケットを持って戻ってきた。
「はい。」
スーツを持って俺が腕を通しやすく広げる彼女を見て、何かすごく悲しくなった。
「美咲くん・・・?」
感情が顔に出たのか、俺はパッと頭の中を切り替えてジャケットに袖を通した。
「ありがとう・・・」
口下手な自分が心底厄介だ。
晶はまた、俺の様子を気にかけて注視していた。
鞄を持って靴を履いていると、彼女はそっと俺の背中に触れた。
「ん?」
「・・・いってらっしゃいの・・・ちゅーは?」
いつもしていた覚えはないけど、恥ずかしそうな上目遣いに思わず心臓が跳ねた。
これくらいのことで照れてどうするんだ・・・何年一緒にいるんだ・・・
彼女の頬にそっと触れて腰を折って、またその柔らかい唇を重ねた。
「いってくる。」
「あ、あの美咲くん・・・」
「ん?」
「・・・今日は・・・何時ごろ帰ってくる?」
いつもよりぎこちなく尋ねる晶が、何を考えてるのかとまた先読みする癖が出たけど、その時ばかりは測りかねた。
いや・・・そういう癖も改めないと・・・
「・・・そうだな、順調だったら夕方には帰って来れると思うけど・・・。」
「そっか。・・・また連絡してね♡」
微笑む彼女の頭をそっと撫でて家を出た。
迎えの車が着いていたので乗り込みながら、尚も晶のことを考えた。
もしかして・・・寂しい思いをさせてるんだろうか
俺たちには色んなことがいっぺんに起き過ぎた。普通の生活を取り戻すには、まだまだ時間がかかる。
一緒に住むようになって1年は経っているけど、彼女の母である桜様が亡くなってまだ数か月だし、そういうことも考慮すると・・・まだ子供を作るには早いかもと思っていた。
窓の外に見える桜の花は、強風に煽られてもう葉桜だ。
ふと、ついこないだ4人で行った花見を思い出した。
あの時も綺麗だったな・・・
満開の桜の元、長い髪を風に揺らして微笑む晶
やっと夫婦になれた喜びを抱えながら、幼い頃と変わらず、彼女の隣に座っていられることが嬉しかった。
大きな桜の木の下に二人で居ると、何度も小さい頃を思い出した。
あの頃は隣にあるその手を取ること自体おこがましく思えて、繋ぐことは出来なかった。
当主として本家で一緒に仕事をしていた時は、何度も何度も彼女に触れたいと思いながら、立場があるからと非情に振舞って耐えるしかなかった。
けど花見で一緒にいた時は、咲夜と小夜香ちゃんが二人きりでぶらついていた時、俺たちも二人きりで、寄り添って手を取り合えた。
その時間が俺にとって、どれ程感慨深く愛おしかったか・・・。
こんなに晶のことを想って、思い出を振り返って愛おしくなって、けれど・・・俺はその一片すら伝えられているのかわからない。
そう思う度に、彼女は自分も同じ気持ちでいると、嬉しそうに言葉にしてくれていた。
更夜さんの自宅でしばしパソコン作業した後、頼まれた取引先に向かった。
最近は営業業務を担っている。
事務であろうと何でもやるのだけど、更夜さんが肩代わりしていたすべての仕事を経験しなければ、そもそも会社を引き継ぐことなど出来ないと思ってのことだ。
更夜さんは、せっかく弁護士資格を持っているのだから、順当に弁護士事務所に就職してもいいと言ってくださったが、それではいけない。
更夜さんは元々医者だ。これ以上本家のものを背負わせたくはない。
さっさと所有している広大な土地の買い手を見つけて、税金の問題を解決させて・・・
「戻りました。」
あれこれ考えながらまた更夜さんがいる書斎へ顔を出すと、彼は椅子ごとゆっくり振り返った。
「美咲くん」
「はい」
「・・・ちょっとこっちに」
手招きされて近づくと、更夜さんは眼鏡を外して目の前に立つ俺をじっと見つめた。
その灰色の瞳を見ると、つくづく日本人離れした端正な顔立ちがマネキンのように思えてしまう。
「眠れてるか?」
「・・・え・・・はい・・・特に寝不足ではありません。」
「そうか。じゃあ何か悩み事でも?」
そう言われて何とも発言に困った。
「悪い、俺の聞き方がダメだな・・・。ん・・・調子はどうだ?」
「・・・えっと・・・」
本家に居た頃から、更夜さんは頼りになる上司だ。
俺が意図を推し量るなんておこがましい。
「調子は・・・悪くありません。健康です。・・・もちろん精神面でも。」
すると更夜さんはふっと落とすような笑みを見せた。
「そこ座りなさい。」
デスク脇にあるカラフルなラグを指さされて、俺は不思議に思いながら座り込んだ。
更夜さんはコーヒーを一口飲んで、頬杖をついてなんとなしに言った。
「思い通りにいかないことに、悩む年頃なんだろうなぁ・・・」
更夜さんはそう言いながら、窓の外を眺めた。
「俺は美咲くんくらいの時、産まれたばかりの小夜香の世話に奮闘してた。まぁ・・・世の中の男の子は、普通に大学生をしている年だが・・・。」
「・・・そう・・・ですね。」
「どうしてわざわざ飛び級したんだ?」
「それは・・・」
「・・・美咲くんは気負い過ぎてるな、色々と。甘え方を知らなければそうもなるか・・・。」
更夜さんは、皆まで言わずとも俺の色々を察しているようだった。
「かと言って俺も人のことを言えた義理じゃないな・・・」
苦笑いを落とす彼に、俺は問いかけた。
「・・・更夜さんは、島咲家に生まれたことを後悔したことはありますか。」
「ない。」
意外にも更夜さんは即答した。
「・・・そ・・・ですか・・・。」
「だがそれは俺が変人だからだろう。普通は・・・・という言い方は悪いな・・・典型的な人間であれば、遊びたいとか、自由にしたいだとか、欲を抱いて面倒事からは逃げようとするものだと思う。そう考えると美咲くんも晶も変人ということになってしまうが・・・。俺たちには真面目に後を継ごうという、縛られたような意志を持っていた。遺伝子なのか何なのか・・・そういう一族なんだろう。でなければ500年も続いてはいなかっただろうし・・。けれど俺たちの先祖がそうしてきたのは、惨たらしい現実と支配があったからだ。そこから急に解放されたとなれば、野に放たれた身として、さて新しい現実をどう生きようかと・・・悩む気持ちも分かる。」
「・・・悩むことはあっても、今までそつなくやれてたんですが・・・」
俯いてそうこぼし、チラリとまた顔色を窺っても、更夜さんはまるで父親のように慈しむ表情をしていた。
「大丈夫だ。どれだけ疲れたりしんどくなったりしても、今はもう夫婦でいるなら、寄り掛かってみればいい。相手はそれが嬉しいものだからな。」
「寄り掛かる・・・」
「・・・うまく伝えられなくてすまん・・・。どうしても・・・咲夜くんでも晶でも美咲くんでも、元気なさ気にしていると心配になるんだ。」
胸の中でモヤモヤ抱えているあれこれを、上手く言葉に出来ないことをわかりながらも、更夜さんの何かに応えたかった。
「俺はその・・・・咲夜のように上手く言葉に出来ないんですけど・・・。晶のことを考えると、時々どう接していいものかわからなくなるんです。産まれた時から一緒にいるのに・・・。彼女は心労が祟って自分を見失っても、それでも俺を支えるために当主である道を選んでくれていました。本当は・・・小夜香ちゃんのように、普通の女の子として生きていたかったはずです。けどそうはしなかった・・・。それは彼女なりに通したい筋があったのだと思いますが、いざ今・・・夫婦として一緒にいても、心の内にある深い所に触れようと思うと・・・足が竦むんです。」
情けなさを晒すことが人に対する甘えなら、きっとこれは話していいことだと思った。
「彼女の中で、色んな思いが巡っているのは分かっていました。散々迷っていたことも、本当に・・・愛していた相手が誰で・・・何を諦めて、葛藤して妥協して・・・悔しくとも辿り着いた今が、俺と夫婦になることだったのなら、晶は今はもう・・・悩んでいないのかとか・・・。本当は・・・聞くのが怖いんです。」
「・・・そうか。」
解っている。
彼女が妥協で俺と結婚したわけでないことくらい。
けど・・・心の内に残っている想い人を、今はどう思っているのだとか、そんなことを聞く勇気はない。
「なるほどな。何となく・・・美咲くんが不安に思う理由はわかった。」
更夜さんは目の前のパソコンの電源を切って、俺をリビングへ招いた。
静かに陽気が差し込む暖かいリビングで、更夜さんは背を向けてコーヒーメーカーで飲み物を淹れた。
仕事はいいのだろうか・・・と思っていたけど、俺は促されるがままテーブル席についた。
更夜さんはまた一口カップを傾けた後、手元に視線を落とした。
「俺が今交際している恋人の名前を、橘 小百合と言う。」
「・・・小百合・・・」
「もちろん名前で選んだわけじゃない。ただの偶然にしては少し苦い話ではあるが・・・」
「・・・そうですね。」
「小百合はもちろん俺が妻を亡くしていることを知っているし、同じ名前だと言うことも知っている。だからどうということはないし、俺は特に今更気にしていない。たぶん今は、彼女もそこまで気にはしていないと思う。ただよく口にするのは、自分は相応しくないのではないかとか・・・劣等感のようなものを感じるらしい。」
劣等感・・・
「俺は特に愛妻家だったこともあって、亡くなった相手には愛情で勝てないんじゃないかとか、気持ちに差が生まれることも考えはするんだろうと思う。・・・それは美咲くんが悩んでいることに近しいか?」
「・・・はい・・・。」
晶がずっと、想いを寄せていた相手はもうこの世にはいない。
「美咲くん・・・晶は確かに由影と同じく、繊細な心を持ち思慮深く、相手のことを優先して考える癖があるように思う。けれどあいつとは違って、桜様に似たのか・・・実は誰よりも前向きで、切り替えも早いし、目の前のことに一生懸命で、自己肯定感は高い人間だと思う。」
「そう・・・ですね。」
「何が言いたいかというと・・・確かに側使いであった渚のことを、晶は好いていたかもしれない。幼い頃から恋心を抱いていたかもしれない。けれど同時に、パートナーとして一緒に生きていくべきは美咲くんだと、ちゃんとわかっていたはずだ。恐らく二人が付き合う仲になった頃から。晶はちゃんと美咲くんだけを見てるように思えた。公私ともに誰よりも美咲くんを想って、考えて解ろうとしてきたはずだ。それは理解しているだろうと思う。当主であった癖が抜け切れていないやり取りを、二人が取ってしまうこともあるだろう。けれど相手を想って行動するということは、愛情がなければ出来ないことだ。美咲くんもそうだろう・・・。」
「はい・・・。」
「それに、由影も桜様も・・・嘘が下手な人だった。」
「・・・え?」
更夜さんは懐かしむような笑みを落として言った。
「二人とも具合が悪いのに無理する癖があった。医者である俺にそんなことを隠しても意味はないのに、それでも頑張ろうとして、物事に一生懸命で愚直なところは同じだった。どんな嘘をついても顔に出ているのに・・・。晶もそうだろう・・・美咲くんを一番大切に思っている気持ちは嘘じゃないだろうし、彼女が未だに気持ちが揺れて悩み続けているようには見えない。相手の気持ちを知るのが怖いというのはよくわかる。だが晶が、美咲くんを傷つける答えを抱いているわけがない。俺だって伊達に産まれた頃からお前たちを見てないよ。」
更夜さんの言葉に、だんだんと胸の内が締め付けられた。
何故だかわからないけど、泣きたい程の気持ちだった。
「後・・・そうだな・・・家族には、甘えられるだけ甘えるといい。泣きたければ泣けばいいし、辛かったらそう言えばいい。俺も苦手分野ではあるけど、感情表現というものが人間らしさであり、ストレスを溜めない方法であり、愛情表現でもあるらしいからな。」
「・・・はい。ありがとうございます。」
「さ・・・コーヒー飲んだら仕事に戻るぞ。残業なんてさせないからな。」
更夜さんはまた静かに微笑んで言った。
その後無事定時で仕事を終えて、出先から直帰することとなった。
晶に一報を入れて、家から離れた街並みを歩いて駅に向かっていた。
ふと、横目で見ていた店先に、沢山の花が見えて足を止めた。
そうだ・・・晶は桜も好きだけど、アザレアが好きだと言ってた。
由影様が好きだったらしい・・・あれも確か春の花だったはず・・・
ふらっとそのまま花屋に吸い込まれるように入った。
足元にある色とりどりの花に目移りさせていると、接客されていたお客さんのお子さんだろうか、幼稚園児くらいの女の子が、そっと俺の側へ寄ってきた。
じーっと見つめてきたので、しゃがみ込んで目線を合わせた。
「・・・どうかした?」
「お兄ちゃん外国の人~?」
「・・・いや、違うよ。」
「ふぅん・・・お兄ちゃんテレビに出てる?仮面ライダー?」
「・・・?仮面ライダー・・・・?」
俺が何のことだろうと首を傾げていると、その子のお母さんが会計を済ませて慌てて声をかけてきた。
女の子は帰り際に手を振って俺にニコリと笑ったので、振り返して店から出るのを見送った。
可愛いな・・・いいなぁ・・・
「お客様、何かお探しですか?」
「ああ・・・えっと・・・アザレアはありますか?出来れば・・・白のもので。」
「はい、アザレアですね・・・。こちらにございます。」
鉢植え・・・そうか、低木タイプの花なのか。ツツジによく似ている。
何故由影様はお好きだったんだろう・・・帰ったら聞いてみるか。
白のアザレアは、花びらを大きくいっぱいに広げて咲いていてとても綺麗だった。
「プレゼントですか?」
女性店員さんににこやかに尋ねられて、思わずつられて笑みを返した。
「ええ・・・妻が好きなので・・・。」
「あっ・・・そうなんですね・・・。花言葉も素敵だからかな。」
「花言葉・・・」
「ええ、白いアザレアは確か~・・・・あ、そうそう、『あなたに愛されて幸せ』だったと思います。」
それを聞いて何となく、由影様が好きな理由が分かる気がした。
彼もまた、奥方である桜様に贈ったんだろうか・・・。
「これください。」
小さな植木鉢ではあったけど、寄せ集まって綺麗に咲いている姿が何とも可愛かった。
晶はどんな顔をするだろう・・・そういや、花をプレゼントに買って帰るなんてこと、したことなかったな・・・。
彼女は家の庭で園芸をしている。好きなものや季節の花を植えて世話をしているので、プレゼントするという考えそもそもがなかった。
若干どんな反応をするか不安に思いながらも、久しぶりに電車に乗って帰宅した。
「ただいま。」
俺が玄関を開けると、彼女はキッチンから小走りに俺を迎えに来た。
「おかえりなさい♡」
「晶・・・あの、これ・・・」
「?なあに?」
「アザレアだ・・・。好きだと言ってただろ?」
晶は驚いた表情をして、袋を受け取って鉢植えを取り出した。
「わ・・・素敵・・・。ありがとう。」
感嘆の声を漏らして、彼女はしばしそれをじっと見つめた。
そしてパッと俺を見て、嬉しそうに言った。
「少し・・・美咲くんに内緒話があるの。聞いてくれる?」
「・・・あ?ああ・・・」
彼女は玄関を開けてドアの近くに鉢植えを置いて、さっと水をやって戻ってきた。
スーツから部屋着に着替えて、何やら少し胸騒ぎのようなソワソワした気持ちを抱えたまま、またリビングへ降りて、彼女とソファへ座った。
「それで・・・話って・・・・」
「ふふ・・・あのね?誰にも内緒よ?」
「・・・・ああ・・」
晶は笑みを浮かべたまま視線を落として、記憶を思い起こすようにゆっくり話し始めた。
「お父さんがアザレアを好きだっていうのはね、お父さんの部屋庭先に植わっていたから知ってたの。甲斐甲斐しくお世話をしてて、いつも愛おしそうに見つめて・・・。だからね、或る日お父さんがいない時に、お母さんに聞いたことがあったの。『お父さんはどうして白いアザレア好きなの?』って・・・まだ私が10歳くらいの時だったと思うわ。・・・そしたらね?お母さんね?お父さんと同じように、愛おしそうに微笑んで言ったの。『お父さんは子供の頃からアザレアが大好きで、いつか自分が面倒見て咲いたそれを、白夜様に差し上げたいと思っているからだ』って。」
「・・・・父さんに・・・?」
「ええ。花言葉は・・・貴方に愛されて幸せ・・・。」
「・・・それは・・・・どういう・・・・」
「お母さんはそれ以上は何も言わなかったわ。私も、ふぅん・・・白夜様が好きなお花なのかな?って思ったくらいで。花言葉を改めて知ったのはつい最近だけど、その時何となくわかったわ。・・・・お父さんは、白夜様がお好きだったのよ。密かに・・・自分の内に秘めた初恋?だったのかもって・・・。」
頭の中が疑問でいっぱいになった
由影様が・・・父さんを・・・
「お母さんはきっと知っていたわ。もしかしたら本人から聞いていたのかもしれない。」
「そ・・・そんな・・・二人がもしそういう関係だったのだとしたら・・・堂々と浮気してたっていうことに・・・」
「それは定かじゃないわ。もしかしたらそうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。けど一つ私にわかることがあるとしたら、お父さんは間違いなくお母さんを心底愛していたと思う。」
「・・・なぜ、そう言える?」
「ふふ・・・だって二人一緒にいるのを見ていたらわかるもの。私の前でも構わずイチャイチャする人達だったのよ?お父さんいつもお母さんと一緒にいるとニコニコして、『愛してるよ桜』って口癖のように言ってたもの。だからお母さんはね、きっとお二人の関係性を知っていたけど、白夜様を好きなお父さんを許していたし、理解していたと思うの。それにあんなに相思相愛な二人だったし、お父さんがお母さんをあからさまに傷つけるような、わかりやすく関係を持っていたとも思えないわ。」
晶はそう言って立ち上がってキッチンへ戻った。
彼女がそう思って言うのなら、やはりそうなんだろう・・・。
確かにあの由影様が、桜様を裏切るような行為をすると思えない。
だとすると・・・結婚する以前に二人は恋仲だった・・・とか・・・?
更夜様は何か知っているだろうか・・・いや・・・別に今更詮索することでもないような・・・
ボーっと同じくキッチンに入って、紅茶を準備しながら考え込んでいると、晶は思い出したように言った。
「あ!・・・美咲くん、おかえりなさいのちゅーしてないよ?」
「・・・・あ、ああ・・・。別に今までもそんなにしてない気がするけど・・・どうしたんだ?」
「んふふ♡どうしたもこうしたもないの。だって大好きだから。美咲くんを愛してるからするのよ?」
恥ずかし気もなくそう言って、晶はキスをせがむように目を閉じた。
そっと唇を重ねて離れると、目の前の彼女は目を丸くして見つめ返した。
「美咲くん?」
思わず目の前が滲んで、ふいと顔を逸らした。
「晶・・・例えば今、亡くなった渚から貰った手紙を読み返したとして・・・会いたいと思うか?」
「・・・え・・・ん~・・・そうね、会って話せる機会が奇跡的にあったなら、言いたいことはあったかもしれないわ。」
「じゃあ・・・また会えたとしたら・・・渚と一緒に居たいか?」
「・・・・?どうして?」
チラリと彼女を見ると、不思議そうに小首を傾げた。
そして少し思案するように視線を落としてから言った。
「私が結婚したのは美咲くんよ?・・・それが私の答えよ。」
短くそう答えた彼女は、動かずにいた俺の手元にある茶缶を取って開けた。
「ごめんなさい、私何か・・・美咲くんを不安にさせるようなことしてたのかしら・・・。」
「・・・いや・・・」
「・・・渚のことは、家族愛の延長に少しの恋愛感情があったと思うの。それを彼もわかってた。でも私も彼も、自分の気持ちが報われる関係を築こうとはしてなかったし、それを望んでもいなかったの。最初から渚は、私の気持ちに応える気なんてなかったし、私もそれを強要してはいけないとわかってたの。だから・・・何となくほんのり・・・好きだなぁと思ってたというか・・・彼と私の『愛してる』って意味は、ずっと家族として愛してるし、それは死んでしまっても変わらないよっていう想いなの。」
「・・・・そうか・・・。」
晶は淡々と手早く紅茶を煮だして、カップに注いでくれた。
「私を想ってアザレアを買ってきてくれたの?」
彼女は長い髪を耳にかけて、覗き込むように俺を見た。
「・・・うん。贈り物をしない時でも、俺はずっと考えてるよ。」
ポツリとこぼすと、晶はこらえるようにプルプルする。
そしてそのままガシっとしがみつくように抱き着いた。
「美咲くん・・・もっと無遠慮に甘えてくれていいんだよ?私の方が一つだけ年上でお姉さんだもん、甘えられたいなぁ♡」
「・・・・今朝も甘えてたよ俺は。」
思い出してそう口をこぼすと、晶はじっと俺を見つめて、手を引いて歩き出した。
そのまま階段を上がって寝室に入って、静かにベッドに腰かける。
「あの・・・あのね!美咲くん・・・あの・・・」
「・・・どうした?」
同じく隣に腰かけると、晶はぎゅっと両手の握りこぶしを膝に置いたまま、意を決したように口を開く。
「あの・・・あ・・・そろそろ・・・えっと・・・あ・・・赤ちゃんほしいなって・・・・美咲くんはどう・・・?」
次第に顔を赤らめていく彼女を凝視しながら、停まった思考をどうにか稼働させた。
「・・・俺は・・・」
何だか気恥ずかしくて笑ってしまうと、晶は照れたように俺の手をペチペチ叩いた。
「こ、こういうことはどうしたらいいのかわからなかったの。そりゃ子供は授かりものだから・・・出来たらいいねぇくらいなのかもしれないけど・・・美咲くんにもし、時期的に今は困るとかそういうのがあったらいけないと思って・・・。話し合うべきことでしょ?」
「そうだな。俺はもちろんほしいよ。会社を引き継ぐタイミングもあるけど・・・何より優先したいのは自分の家族だから。そう簡単に授かれるものでないのだとしたら、早い方が俺は嬉しい。」
晶はまたもじもじしながら照れていたので、我慢出来ずにそのまま押し倒した。
日が落ちて夕日で明るかった室内が、そのうちどんどん暗くなっていくのを感じながら、空腹を忘れて彼女を貪った。
「晶・・・今日は何を作ろうと思ってた?」
横になって抱き合いながらそう尋ねると、晶はニコリと笑みを返した。
「ビーフシチューを作ってたの。もう温めるだけだから。」
「そうか・・・。火をかけたままとかじゃないよな?」
「んふふ、そんなドジしません。美咲くんが帰った時に火は止めたわ。」
彼女の頬を撫でながら、更夜さんがおっしゃっていたように、もう少し愛情表現を・・・また晶が言っていた通り無遠慮に甘えたくて、心中を打ち明けた。
「俺・・・晶のことも含めて、周りのことばかり考えてしまって・・・。更夜さんの迷惑になるから、早く卒業して会社を継ごうとか、晶が桜様を亡くしたばかりだから、子供はまだ早いかなとか・・・。本人たちと話し合って決めることばかりだけど、つい先回りして自分が出来ることを探してしまって・・・。先々のことばかり目がいって・・・そういう癖治さないとなぁ・・・」
「大丈夫よ、だんだん治ってきてるわ。もっと肩の力を抜いて、そこまで考えすぎずに、もう誰も美咲くんのことを監視したりしないから。警護してくれてる人はちゃんといるけど・・・もう何も私たちの生活を脅かす存在なんていないの。大丈夫よ。」
晶のその瞳は何故か自信あり気で、いつもの変わらない表情に違和感を覚えた。
今朝俺に対して、彼女が何か雰囲気が違うと思ったように。
「根拠は?」
俺が問うと、晶は目線をゆっくり泳がせて口元に手を当てた。
「何でかしら・・・そんな気がするの。女の勘よ♪美咲くんとこの先・・・子供と一緒に平和に暮らしていける未来が、ちゃんと想像出来るの。想像出来るなら、その未来はちゃんと実現出来ることだと私思ってる。」
その時ふと思った。
「先見の明・・・」
「え?」
「由影様はそういう能力を持っていらしただろ?元々そこまで使用することはなかったと聞いたことあるけど、受け継いでいる能力なら、晶もあるのかなと思って。」
晶は目を細めてふふっと柔らかく笑った。
「そうなのかな・・・もしかしたらそうなのかもね。・・・お腹空いたし、ご飯食べましょ。」
そっと起き上がって床に落ちた服を拾い上げる彼女の、細い背中を眺めた。
由影様は・・・密かに父を慕っていた。
彼は歴代の松崎家の当主でも、名君と名高かった。
それは父の右腕として優秀だということもあるけど、あらゆる能力に長けていた方でかつ、人格者であり、能力の才にも恵まれていたからだ。
だが少し気にかかることがあるとすれば、父が生前俺に当主の業務を説いていた時、由影様のことについて言及されていたことだ。
父はいつも言葉足らずで、物事の詳細をいちいち説明する人ではなかったけど、何となく覚えていた言葉がある。
『由影のことは気にするな。あいつは俺の露払いだ。闇深いから関わろうとする必要もない。』
「露払い・・・か・・・」
「・・・なあに?」
ボーっとダイニングテーブルに頬杖をついて呟いた言葉に、晶は鍋に火をかけながら聞き返した。
「いや・・・何でもない。」
不思議そうに小首を傾げる晶に、可愛らしいと思いながらも・・・何かつい勘ぐって探りを入れようとしてしまう自分がいてやめた。
能ある鷹は爪を隠すものだ。松崎家の当主たちはきっと、俺たち高津家当主の右腕として影のように存在し、あらゆることを始末しながら生きていてくれたのだろう。
普通の生活を取り戻した今、また歴史の紐を解くことは無用で、また晶に何かを尋ねることも愚問だ。
彼女が見ているという穏やかな未来を、護れるように生きて行こう。
「ねぇねぇ美咲くん!白夜様とお父さんって~・・・10代の若い頃から恋仲だったのかしら・・・お父さんがどんな恋してたか聞いとけばよかったなぁ。」
「ふ・・・どうだろうな。」
イキイキしてビーフシチューを装う彼女は、ニコニコしながら今日も楽しそうに夕食を共にしてくれた。