5. 天才の足跡
2101年4月15日
ファベルジェ博物館の資料室で調査を続けていた凪は、これといった手掛かりを掴めないことに苛立っていた。ロシアで得られる情報には限界があり、メンデレーエフの血を引く秀島フジの足跡を辿るには長崎での調査が必要だと彼女は感じていた。
ちょうどその頃、イワン博士より一波に、『スノーマン・スクリプト』のアトリビュート解析に進展があったと連絡が入った。
一波は期待に胸を膨らませながら、博士の研究所へ向かう準備を始めると、凪からの着信を知らせる優雅なメロディが響き渡った。
「おう、どうした。何か見つかったか?」
「いえ、何も。メンデレーエフと日本人に関する有益な情報はこの国にはないようね。だから私は長崎……いや九州へ行こうと思うけれど」
「そうか……よし、分かった。だがその前にこっちへ来てくれないか。たった今博士から連絡があってね。スノーマン・スクリプトに関する暗号が解けるかもしれない」
「それは吉報ね。分かったわ。イワン博士の研究所ね」
「ああ、そうだ」
インフィニット・ワールドでは非効率要素をできるだけ排除し、限られた時間を有効に使うことを是とする。しかし凪はこれまで一波がもたらした非合理的な『勘』による福音の数々に驚嘆すると同時に感謝した。
緻密な理論とは対極にある野性的なその『勘』は、人間の防衛本能によるリミッターを超えた先にある、一種の特殊能力のように凪には思えた。それは即ち、インフィニット・ワールドでは使用する機会を失い、淘汰されてしまった能力と言えないだろうか。人類が生きる上で『勘』を必要としなくなるほどに平和が維持された世界、それがインフィニット・ワールドであり、それを可能にしたAIが提供する経験補完システム、即ちVRLは本当に人類に幸福をもたらしているのだろうか。
柊にはまだVRLの経験が一度も記録されていない。それゆえにこの『勘』はまだかろうじて生きているのではないか。彼が労働を選択したのは合理的判断ではなく、期待という『勘』によってではなかっただろうか。
凪は一波鋭というフィルターを通し、VRLに内在する歪な闇について意識するようになっていた。
凪は一波よりも一足早くイワン研究所に到着し、博士との再会を果たした。
「博士、お久しぶり。一波からよい知らせがあったと聞いたのだけど」
「シズク、ようこそ。役に立つかは分からんが、ヒントくらいは発見できたんではないかな。ところでメンデレーエフの孫娘については何か分かったのかい?」
立派な口ひげを弄ぶ穏やかなこの初老の男性が、情報工学の世界では第一人者として知られるイワン・マリコフ博士である。
「いえ、ここに手掛かりはなさそうなので日本へ戻って調査することにしたわ」
「そうかい。わしも日本へ行ったことがあるが、気候も民族も穏やかで、非常に過ごしやすかったと記憶しておる。そういえばハジメには一度も会えなかったのう。研究仲間でも会ったと言うやつはおらんし。あれだけの人物だというに不思議なもんじゃ」
「木佐貫さんは存在の痕跡をほとんど残していないわ。彼は本当に実在する人物なのかしらね」
「それは面白い問いじゃの。ありえないことではない。わしらは何者かが作り出す彼の幻影を見ているだけなのかもしれない」
「メディアに露出する彼の肖像はペルソナか影武者か」
「まったくじゃ。しかし現実にはハジメの名でサイレントテロが、そしてバイオテロが起こった。彼の実態にこだわったところで、その事実が変わることはない」
博士と凪が木佐貫一という存在そのものについて議論をしていると、研究室のドアをノックする音が聞こえた。
「エイくんかね、入りたまえ」
「失礼します」
一波が到着すると博士は早速本題に入り、依頼された解析結果を伝えた。
「詳しい話は専門レベルになるので省くが、スノーマン・スクリプトの応用時に行ったであろう膨大な処理のコマンドを分解し、ある一定の法則に従って並べ替えたところ、日本語らしき言語に繋がったものがあった。それがこれじゃ」
博士はメモ用紙にふたつの文字列を書いて提示した。
そこには【ichifujinitaka】と【harunoraicho】と記されていた。
博士が導き出したアトリビュートのヒントは日本語として解読可能な文字列であった。一波と凪は思考を巡らし、ここから導き出せる可能性を探索した。
「ありがとうございます、博士。これは間違いなく日本語です。特に『一富士二鷹』といえば日本の有名な諺です。まあ、正確にはそのあと『三茄子』が続きますが。そしてこれが意味するのはまさしくメンデレーエフの系譜でしょう。鷹はタカ、秀島タカで富士はフジ、タカの娘です」
一波は一つ目のキーワードを解析した。
「茄子は『事を成す』を意味する。つまりこのプログラムは成功する、ということを示唆している。あえて『三茄子』を入れなかったのは、この計画は隠密に行われていることを意味するわね」
凪は意図的に抜いた『三茄子』の推測を述べた。
「なるほど。まあこれに関してはそうだろう。とするともう一つの【harunoraicho】は何だ。漢字で書くと……」
一波はポケットからメモ用紙を取り出し、【春の雷鳥】と書き記した。
「このキーワードはきっと名前ね。そして間違いなく木佐貫さんのもうひとりの友達。いわゆる隠し落款ね」
「違いない。となると単純に『春の雷鳥』ではないな」
「ここからは日本人である私たちの仕事ね」
「そうだな」
一波は凪と共に日本へ戻ることを決めた。
「イワン博士、解析ありがとうございます。とても重要なヒントをいただきました」
「そうかい、それはよかった。情報工学の専門家としてもハジメの行方は気になっておる。わしの仕事が進展の手掛かりとなったのなら喜ばしいことじゃ」
2101年4月17日
一波と凪は極寒の地、サンクトペテルブルクに別れを告げ、故郷日本の九州は博多へと向かった。
「春爛漫! あったけえな……桜は散ったが、やっぱいいね、日本は」
「観光している暇はないわよ」
緊張の糸がほぐれ、気のゆるみが生じそうな一波の態度を見て凪が釘をさした。
「へいへい。分かってますよ」
「予定通り私は秀島フジの足跡を追うため長崎へ向かう。一波さんは『春の雷鳥』について調査をお願い」
「オッケー。季節もちょうど春だし鳥さんたちも生き生きしてる」
「ジャーナリストの勘、期待してるわよ」
凪は一波の影響からか、ジャーナリストという職種に興味を持つようになった。再び未来へ戻りVRLをプレイすることが可能となれば、ジャーナリストに関係した初期設定を試みたいと考えていた。
「勘は勘でもヤマ勘じゃねえからな。ま、期待はじゃんじゃんしていいぜ」
自称敏腕ジャーナリストは揚々と博多のネオン街に溶け込んでいった。
2101年4月19日
凪雫はヤドメクラウドへアクセスし、報告書をアップロードした。
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私と一波さんはメンデレーエフの血族に関する調査の最終段階に至り、日本へ戻り九州にて調査を開始した。
今回は真実に辿り着くまでそれほど時間を要さなかった。
ここに、もうひとりの木佐貫フレンズについて記す。
秀島タカの娘、フジは東京で関東大震災に遭遇したが生き延び、一度長崎に戻った後、結婚を機に大分へ移住した。そこで秀島フジは性が変わり、朝来野フジとなった。そう、朝来野春の朝来野だ。
その後一波さんを大分へ向かわせ、朝来野性の世帯全てを調べてもらった。なお、この朝来野という性のほとんどがこの大分県に分布している。
この調査により、もうひとりの木佐貫フレンズが判明した。
名前は、朝来野春。
【ハル】ではなく【シュン】と読み、男性だ。誕生日は私と同じ、3月11日。
同じ誕生日は柊君にとって許容範囲なのだろうか?
シュンが木佐貫フレンズであるという確証は、以下の事実から総合的に判断した。
イワン博士による『スノーマン・スクリプト』の解析で抽出されたキーワードのひとつ、【harunoraicho】は【春の雷鳥】ではなく【春野来朝】で、逆さに読めば【朝来野春】となる。
シュンはフジの血を継ぐものであり、偉大な化学者メンデレーエフの子孫となる。
彼は小中学校時代、神童と呼ばれるほどの秀才であり、15歳でアメリカへ留学したが16歳のときに置手紙を残し失踪する。彼は理化学の分野で既に大学修了レベルの能力を示していたと、当時の教員から言質を取った。
なお、置手紙にはこう書かれていたようだ。
『我が才を世界平和のために捧げる決心をした。目的が達成するまでは戻れない。心配はいらない。私はメンデレーエフの血を受け継ぐ者。また会う日を楽しみにしている』
シュンが失踪した2081年は、木佐貫一によるサイレントテロが発生した年だ。おそらく彼の手引きによって若干16歳の天才少年が闇に消えたのだろう。
木佐貫一はメンデレーエフの子孫であるシュンを仲間に入れたことをこの上なく喜び、『改変スノーマン・スクリプト』に隠し落款を入れた。
それが【ichifujinitaka】と【harunoraicho】だ。
以上のことからこのアサキノシュンが、もうひとりの木佐貫フレンズであると結論付けた。
おそらくシュンもローマにいると思われる。
また、シュンは朝来野ハルさんと無関係ではないと考えられる。もしかしたら遠い祖先なのかもしれない。
夜久さん、朝来野さん、木佐貫さんの懐へ近づくことは危険を伴うでしょう。くれぐれも用心して調査続行を。
私と一波さんは明日東京へ戻る。
2101.4.19 凪雫
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