2. 天才の系譜
ロシアが誇る偉大な化学者、ドミトリー・メンデレーエフは、1869年『元素の性質と原子量の関係』において、元素の性質変化に周期性があることを学会で発表した。元素周期表の基礎となる周期律の発見は高く評価され、物理のアインシュタイン、生物のダーウィンと並び称されるほど、彼の化学における功績は大きかった。
メンデレーエフにはウラジーミルという息子がいた。
ウラジーミルは海軍少尉時代に長崎を訪れた際、日本人の秀島タカとの間にフジという娘をもうけていた。そのメンデレーエフの孫娘となるフジは関東大震災で被災し、亡くなったとされていたが、21世紀後半に発見された書簡から生存していたことが判明した。
一波は稀代の化学者が遺した日本との縁に以前から着目しており、この天才の血を継ぐ者は必ず存在し、木佐貫一に何かしら関与している可能性があると睨んでいた。
メンデレーエフが教壇に立った所縁の地、サンクトペテルブルクで新世紀を迎えた凪と一波は、昼埜星とは別の、もうひとりの木佐貫フレンズについて調査をしていた。
一波は街に到着するといの一番に、ある書庫の調査申請書をロシア政府に提出した。その書庫はファベルジェ博物館の一角にあり、多くの重要文書が保管されていた。この街を代表する著名な化学者メンデレーエフに関する資料もそこに存在する、と彼は予測した。
そうして2月10日に許可が下りると一波はその業務を凪に一任し、彼自身はあるスクリプトの解析を、その道の権威と共に進めるために走り回っていた。
連日地道な事務作業に精を出す凪の前に、機動部隊の一波が姿を現した。
「……ねえ一波さん、この調査、多くを勘に頼り過ぎていないかしら」
真冬のサンクトペテルブルクの最高気温は摂氏零度に届かない。エアコンの効きが悪い書庫で膨大な資料を丹念に調べていた凪は、思いのほか骨の折れる紙媒体の調査にいささか辟易していた。
「基本的に奴は痕跡を残さない。だから勘は重要なファクターになり得る。それに勘とはいえ当てずっぽうではないんだがね……」
「その自信はどこから来るの?」
「学者ってのは普通、名誉欲がある。もらえるものならやっぱり欲しいよな、ノーベル賞。だが木佐貫一は自身も含めそんなものに目が眩む奴に興味はなかった。奴が欲しているのは世俗的な欲のない天才だ」
「昼埜星もそうだった?」
「ああ。あいつは学会に興味なんてなかった。机上の空論で戯れるのではなく、社会を変えることのできるアクティビストを求めていた。そんな人間は一握りだろう。だから絞りやすいといえばそうともいえる。俺のように考える奴がいればの話だが」
「……なるほど、さすがジャーナリストね」
「そりゃどうも。とにかく何でもいい、手掛かりになりそうなものはピックアップしておいてくれ。あと、こんなところに軟禁状態にしちまって悪いな。頑張るのも結構だが無理して体を壊さないように」
一波は凪を労いながら、急ぎ足で書庫を後にした。
21世紀初頭のアメリカにおいて、国家による市民監視システムの実態を暴露した元諜報員、エドヴァルト・スノーマンは母国を追われ、ロシアに亡命した。木佐貫は彼の名を冠したスクリプト、『スノーマン・スクリプト』を開発し、サイレントテロの際に活用したと言われている。
一波はその暗号技術について調査をしていた。理工系学問には縁のない一介のジャーナリストが抱いた期待とは、木佐貫がスクリプト開発を行った、もしくは応用した際に、彼らを特定する痕跡を残してはいないか、ということであった。
木佐貫とその信者に学会的名誉欲がなくとも、自らの創作物にかける愛情への見返りはどこかに求めるはずであり、その承認欲求を満たす痕跡を、アトリビュート(属性)の内に遺していると、ジャーナリストの勘は訴えていた。
彼はそれを炙り出すために『スノーマン・スクリプト』の研究家を訪ね、解析を依頼していた。
「イワン博士、どうでしょう? 何か日本的な響きのあるアトリビュートは見つかりましたか?」
「まあ、当然じゃがコードの中にはない。あるとしたらスクリプトの法則の組み合わせで浮かび上がる、一種の怪文書のようなもんじゃろう。その解析にはもう少し時間がかかろう」
白銀の口髭を弄びながら一波に返答した初老の男性は、サンクトペテルブルク工科大学の名誉教授、イワン・マリコフ博士であった。
「分かりました。引き続きお願いします」
一波はスクリプトの解析をイワン博士に託し、自身はスノーマンに関する情報を収集するため、広大なロシアの地を駆け廻った。