1. 神の都
2101年1月1日
薄らと雪化粧がほどこされた古都は筆舌しがたいほどに美しく、幽玄夢幻の一切が浮遊するかのような恍惚の調べを奏でていた。
「雪の京都がこんなにも美しいなんて……」
白銀の古都を前にした柊は感嘆の言葉をもらした。
社寺が林立する京都においても最古の歴史を持つ賀茂御祖神社、通称下鴨神社で初詣を終えた柊と霧靄は、洛北の玄関口である出町柳駅へ向かっていた。
遡ることひと月前、21世紀最後となる定例会議において霧靄霞は『次元間通信』の謎を解くカギが京都に眠っているという仮説を立て、一人旅ではなく柊の同行を求めた。
柊もまた霧靄との旅を計画していたことを告げ、2泊3日の京都旅行が実現したのである。
「本当に不思議な街だよ、22世紀を迎えたのにここだけは時間が止まっている」
「京都はいつの時代も大きく変わることがなかった場所です。表面的には、ですけどね」
「そうだね。でも敢えて保存し続けることでその価値を何倍にも高めることに成功している。僕たち日本人にとっての神様って、やっぱりイエス様じゃなくて万物に宿る八百万の神々なんだと思うな。京都という街は確かに現実に存在するけど、どこか非現実的で、それが人と神との異なる時空を繋ぐ役割を果たしている、そんな感じがするよ」
「京都はあらゆる次元の扉が用意されていますが、それを開くには儀式が必要です」
京都と『次元間通信』には親和性がある、これは十分に説得力を持つ仮説であると柊も感じていた。
ふたりは出町柳駅発の叡山電車に揺られ、貴船神社を目指した。このレトロな列車は古都保存法により2020年頃のスペックを維持し、この22世紀も走り続ける。
「京都はインフィニット・ワールドでも大きく変わることなく保存されているけど、ここだけ切り取ってみればVRLの世界ともいえるね。記憶を保持したままではあるけど……」
「VRLでは記憶保持の通常モードは不可能です。それは人間的な豊かさを失う恐れが大きく、結果的に不幸を招くからです」
「そうさ。なのにどうして今それが可能になっているんだろうね。その謎もあと1年で解明するのかな……」
「それにはまず、木佐貫一の命題を解かねばなりません」
「違いない……」
「そう、違いない」
出町柳を出発してからおよそ30分、風流列車は京の奥座敷、貴船に到着した。
丑の刻参り、という俗習だけが独り歩きする貴船神社だが、元来由緒正しき名刹であり、水の神を祀っている。
この一帯は貴船川の清流を背景に食事を楽しむ川床が夏の風物詩として人口に膾炙しているが、冬に見せる雪化粧も変わらず人気を博している。
「どうだい、カスミン、何か解決の糸口になるようなものはありそう?」
「ええ。私の仮説はおそらく正しいでしょう。きっと見つかるはずです」
「それは頼もしいね」
『異次元』の片隅で黙々と思考を巡らしていた霧靄霞、その口から自信めいた言葉を聞くのは柊も初めてであった。
柊は外套のポケットから手を出し、手袋を忘れたことを後悔しながら祈祷した。
翌日、雪を降らせた低気圧は過ぎ去り、からっとした冬晴れとなった。
ふたりは霧靄の仮説に従い、『京都五社巡り』を開始した。五社とは平安神宮を中心に、北は上賀茂神社、東に八坂神社、南が城南宮で西に松尾大社を差している。1日で全ての社を廻るにはかなり骨の折れる行程だ。なお、四神相応の都、平安京を守護する玄武、蒼龍、朱雀、白虎が、それぞれの神社に紐づけてイメージされている。
疲れというものを知らないアンドロイド、霧靄霞は次々と社を巡り、一行は陽が落ちかかった夕刻、中央の平安神宮に辿り着いた。
「――ふぅ、やっとラスボスか……」
「柊さんは優しい方ですね。ハイヤーを使わないボクに文句も言わずについて来て下さるなんて」
「だって、それも関係あるからでしょ? 効率化を目指す君が意味のない時間を浪費するなんて考えられないし」
「ええ。もちろん理由があります。さあ、行きましょう」
霧靄は境内中央の龍尾壇を昇ったあたりで立ち止まり、断りなく柊の手を握った。
「え? カ……カスミン?」
柊は想定外の事態に狼狽したが、それよりも霧靄の手を通して伝わる異質な感覚にひどく焦った。
「う! な……なんだ……このざらついた感触は!」
霧靄は片目を閉じ、天を仰いだ。
「すみません、少しの間我慢してください」
2、3秒すると閉じた目を開き、反対の目を閉じた。すると薄暮に輝く一番星と白虎楼、蒼龍楼、そして霧靄の瞳を青白い閃光が結んだ。
それはおそらく一瞬の出来事であり、観光客が認知できる現象ではなかったようだ。柊は霧靄との接触を通し、形容し難い形而上学的世界の一端を垣間見た。
「……カスミン、今のって……」
「終わりました」
両目を閉じた霧靄はゆっくりと柊の手を離した。
「成功です。ボクのリミッターは解除されました」
「リミッター?」
「はい。しかし、これは第一段階に過ぎません。ボクの機能は解放されましたが、使用するためにはセントラルドグマとのコネクトが必要です」
「……それって昴さんのメッセージにあったアマゾニカとかいうシステムのこと?」
「その可能性は高いでしょう。さあ、目的は達成しました。戻りましょう。秋葉原へ」
「え? 嘘でしょ? 京都旅行はこれからじゃ……」
「では柊さんは残っていただいて結構です。ボクは先に帰ります」
「え……」
「問題ありません。京都はここでなくても、ボクたちの世界にもほとんどその姿を変えずに存在しています」
「いや……そりゃそうだけどさ……そうなんだけどさ、いや! やっぱ違うよ! カスミン、僕にとっての21、いや22世紀の京都はここにしかないんだ、カスミンと過ごす正月の京都は今ここにしかないんだよ。だから僕はあと1日、君と京都を楽しみたい!」
柊の目にはうっすらと涙が浮かんでいた。
コードネーム霧靄霞という次元立会人は、柊にとってはかけがいのない友人であり、紛れもなく血の通う人間であった。VRL空港のフライトルームで幾度となく霧靄と接し、このアンドロイドが他のそれとは違うことを、柊は無意識的に理解していた。2年以上に及ぶ共同生活の中でその思いは一層強固になり、選ばれし7人のひとりであるとさえ確信するようになっていた。
「……わかりました。柊さんの観光にお付き合いしましょう」
「いや、ごめん……うん、ありがとう」
柊が浮かべた涙によって、霧靄霞の自覚なきリミッターもまた解除されたのかもしれない。
「ねえ、カスミン、今日の五社巡りが意味することは何となく分かるけどさ、昨日の下鴨神社、貴船神社にはどんな意味があったの?」
柊は手に残る生ぬるい感触を気にしながら素朴な疑問をぶつけた。
「下鴨、貴船の両神社は縁結びの力があります。どちらもこの地では最も古い社になります。玄武、蒼龍、朱雀、白虎の四神と平安京を結ぶために、その力が必要でした。また、『7』という数字が持つ意味を鑑み、その2つの社を選択しました」
「なるほど……男女の縁結びとして人気のパワースポットだけど、縁というのは恋だけじゃないよね。人間は色々な縁によって生かされている。AI統治に至ったのも、巡り巡ってそうなった。それは紛れもなく縁だと思う」
柊は7つの神社が選択された意味を理解し、この世の不可思議な縁に思いを馳せた。
霧靄霞に性別はない。しかしその一事を以て感情を理解しないと、誰が断定できるだろうか。感情を発露させるリアクターが己に向けられた涙であっても不思議ではない。アンドロイドの表層的変化は成長として受け止められたが、感情表現に関していえば革命的ですらあった。
柊と霧靄は京都の旅を続けながら、未来においても変わることのない古都の結界が持つ非科学的な力に神を感じた。そこにVRLという概念は介在しない。
都の神々は、今この時代にふたりが確かに存在したという痕跡を夢幻の時空に忍ばせ、刹那の輝きを散りばめながら大気を震わせた。