2. 接点
2099年末、柊一行に接触を試みた夜久は『異次元』からの帰りに霧靄霞からメッセージを受信した。この驚くべき現象は一介のアンドロイドが自由意思に目覚めたことを示唆し、彼は計画の変更を余儀なくされた。『木佐貫黙示録』を解くために、ホムンクルスである霧靄霞の覚醒は必須条件であると、彼は1パーセントも疑うことはなくなっていた。
2100年の正月三が日を終えると、夜久は春に変更したミッション『霧靄霞の覚醒』を伝え、ロンドンへと向かわせた。霧靄霞は霧の都で目覚める、というゲン担ぎを込めつつ、彼は朝来野春の母性に期待した。
2100年6月16日
アメリカ合衆国ワシントン州、シアトルの中心にそびえるIT企業のオーソリティ、アメイジング(Amazing)社のセントラルタワーは、世界を冷ややかに睥睨していた。
テクノロジーの全てはここに集結し、ここより誕生する、とさえ囁かれるサイエンティストの楽園に、夜久昴の姿はあった。インフィニット・ワールドの住人であると同時にハッカーである彼にとって、この時代のテクノロジーは子供向けの練習プログラム程度の、易しい暗号に過ぎない。
夜久がアメイジング社に潜入して既に半年が経過していたが、『次元間通信』の謎を突き止めることはできず、彼は仮説の再検討を迫られていた。
「ヘイ! スバル! 飲み行こうぜ! 地下街によ、『High & Low』っていうグレイトでクレイジーなミュージックバーができたんだぜ!」
100キロを超える巨体を揺らしながら、同僚のジョンは夜久を新規オープンの酒場に誘った。
「すまねえジョン、ちょっとやりたいことがあってね。また今度誘ってくれよ」
「オーマイガッ! そりゃ残念だがオッケーだぜスバル。また今度な! マジでクレイジーなミュージックバーだからよ、お前も絶対気にいるぜ!」
「おう、分かったよ。ただ俺が好きなのはダウナー系だ。クレイジーなのは大歓迎だがな」
「オ、オーイエス! ダウナー系な! 俺も聴いてみるぜ!」
アッパー志向のジョンはばつが悪そうに夜久の下を去っていった。
「グレイトでクレイジーか……たまには息抜きもいいか」
夜久はつぶやきながらアメイジング社が所有する世界最高峰の基幹システム『アマゾニカ(Amazonica)』にアクセスを試みようとした。とその時、スバルコードを介した一通のメッセージを受信した。
「ん? 凪くんからか……」
エルサレム滞在中の凪雫から〝重要〟と書かれたレポートがヤドメクラウドにアップロードされた。夜久は天才プレイヤー凪があえて重要と付したメッセージを、期待と不安をもって開封した。
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皆さんごきげんよう、エルサレムの凪です。
今回報告する内容は今後の調査に大きな進展をもたらすものと考える。
現地で知り合った昼埜藍という少女を介して得た情報を鑑みると、この子の叔母にあたる昼埜星は『木佐貫黙示録』の署名にあった『with 2 dear friends』のひとりである可能性が高い。それについての詳細は別ファイルを参照して欲しい。
この情報を得るにあたり、重要な役割を果たしたのが一波鋭というジャーナリストだ。彼には以前『異次元』で出会い、この世界に関する情報を提供してもらった経緯がある。
そこで協働という緩い関係を築いたが、その後特に連絡を取ることはなかった。それが偶然にもここエルサレムで再会した。
彼は10年以上木佐貫一を追い続けているジャーナリストだ。
私は彼が私欲ではなく信念で木佐貫を調査していることを理解し、彼も私たちについての一切を無条件で、期間限定で受け入れることに同意した。
よって1年半後の『最後の審判』まで私は彼と行動を共にし、調査を行うこととした。
昼埜星の所在は残念ながら不明だ。
『7人の12使徒』に木佐貫フレンズがカウントされるのかは分からないが、可能性を排除しない。
私たちは引き続き昼埜星と、もうひとりのフレンズについて調査をする予定だ。
取り急ぎ、連絡まで。
2100.6.16 エルサレムより凪雫
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「ほう……さすがだな、凪雫。運も持ち合わせた天才か。無敵だな」
夜久は昼埜星のプロファイルを開き、目を通した。
そこには彼女が木佐貫信者であり、大学の卒論でサイレントテロの上書きをしたスーパーハッカーであること、その後失踪し、現在行方不明であること、そして件の昼埜藍とは現時点で接触が取れないことが記されていた。
夜久は早速『昼埜星』のリサーチを開始した。しかし彼女は仮にもスーパーハッカーと呼ばれる人物であり、一般的なネットワーク上に痕跡を残しているとは考えられなかったため、ダークウェブも含めて解析を試みた。しかし得られた情報はどれも信ぴょう性の薄いものでしかなかった。
電脳ネットワークに存在しない情報を入手するためには、対象と接触した可能性のある人物を調査するしかない。幸い彼はIT王者のアメイジング社に籍を置いている。このヒューマンネットワークを介し、接触者の記憶を収集することは可能と判断した。
夜久昴は知っている。どのような人間であろうとも、この世から完全に名前を消し去ることなど不可能であることを。
昼埜星の調査は思いのほか難航したが、『次元間通信』は『アマゾニカ』が深く関与していることを夜久は突き止めていた。
アメイジング社の聖域である『アマゾニカ』の階層は深く、想定で11を数えた。足がつくハッキングは実行できない。夜久が安全に侵入できるのはせいぜい第3層目までであり、それでは『アマゾニカ』が持つポテンシャルのほんの一部しか活用することができなかった。
凪のメッセージからおよそ1ヶ月が経過したある昼下がり、威勢のいい声が再び職場に響き渡った。
「ヘイ! スバル! 今夜はダウナー祭りなんだぜ! 飲むしかねえだろ! それにな、聞いて驚くなよ、あのスピカ女史も誘ってるんだぜ!」
夜久からダウナー系ミュージックの神髄を叩き込まれたジョンのプレイリストは、アッパーとダウナーが入り乱れるカオスと化していた。
「ほう、そうかい。そりゃいいね! で、スピカ女史って?」
「おお、そうか。入社半年のお前は知らなくて当然だな。彼女はな、アマゾニカ設計に携わった天才のひとりだ。表には出たがらない人でね。開発チームにすら名前が載っていないんだ」
夜久は驚くと同時に希望の光が差したように感じた。
「へえ、それは何とも。ぜひお話を伺いたいもんだね。というかお前どうしてそんな天才と知り合いなんだよ」
「例のバーさ。ちょうどダウナーな曲が流れてよ、隣に座っていた女がうれしそうだったんで話しかけてみたんだ。お前に教えてもらった知識をふんだんに使ってな! で、その女がスピカ女史でさ、意気投合したってわけ。あ、そうそう、彼女はそもそもアメイジング社の社員じゃない。フリーランスのプログラマーってとこだな」
「なるほど、俺の講釈が役に立ったってことか、そりゃめでたいぜ!」
夜久はスピカの記憶の中に、昼埜星が存在することを期待した。
シアトル発祥の地、パイオニア・スクエアは19世紀末に起こった大火災により街の再建を余儀なくされた。低い海抜によって被害が拡大したため、街全体が数メートル嵩上げされることになり、それによりかつての街は地下に沈み、放置されることとなった。20世紀後半はこの沈んだ地下街を巡る観光ツアーが人気を博していた。
21世紀後半になるとこの地下街の再開発が始まり、アンダーグラウンド特有の怪しさを放つショップが軒を連ねるようになった。
ミュージックバー『High & Low』はその地下街に数か月前オープンし、ジャンル別イベントを定期的に開催することで音楽マニアから高い評価を得ていた。
その日はいつもより早めに業務を切り上げ、ジョンは夜久と共に『High & Low』の扉を開いた。
店内はダウナーミュージックと物憂げな照明が適度に混ざり合い、ほどよい倦怠感を醸し出していた。既に入店していたスピカは年代物のシングルモルトを口にし、気だるい音の波に浸っていた。
ナチュラルボブのブランヘアーに切れ長の瞳、ダブルライダースにスウェットパンツというメンズライクなファッションからは、天才プログラマーの面影などどこにも感じることはなかった。
「ヘイ! スピカお待たせ! 今日はダウナーミュージックの師匠、スバル・ヤドメを連れてきたぜ!」
「はじめまして、夜久昴です。スピカさんのことはジョンから聞いています。お会いできて光栄です」
眼鏡の位置を整え、いささか緊張の面持ちで夜久はスピカに挨拶をした。
「君がスバルくんね、よろしく。日本人もようやく就労が認められるようになったのね」
「ええ、その節は色々とご迷惑をおかけしました。木佐貫は世界を混乱させました」
「杓子定規の挨拶はいいわ。彼は天才、それも次元の異なるレベルだわ」
「……そうですね」
「まあまあ、とりあえず飲もうぜ! 俺はいつものバーボンロック、ダブルで!」
ジョンの関心は音楽よりも酒のようだ。
「俺は……ジンライム、ください」
夜久はスピカと尽きない音楽談義に花を咲かせ、程よくアルコールが体内を循環したころを見計らい、天才プログラマーに訊ねた。
「スピカさん、実は俺、探している日本人女性がいるんです。アカリ・ヒルノという名前を聞いたことはありませんか?」
「女性って、もしかして昔の恋人とか?」
「いえいえ、そんな恐れ多い、尊敬しているプログラマーです。スピカさんみたいにちょっと謎が多い人なんです。俺もアメイジング社に入社できたことですし、一度お会いしたいな、と思いまして。でも消息不明なんですよね……」
「へぇ……そんなに優秀なプログラマーなら知っていそうなものだけど、ヒルノ……ね……」
「まあ、実をいうとその名前で活動しているか、それすら分からないんですけどね。とにかくミステリアスで、それがまた伝説化しているというか、日本人そういうの好きなんで……」
夜久もスピカも苦笑いし、汗をかいたグラスの中身を飲み干した。
「そうね、私には日本人そのものがミステリアスだわ。あのキサヌキは今どこで何をしているのかしら……」
「木佐貫に会ったことはあるんですか?」
「いえ、残念ながら無いわ。日本人ってみんな隠れるのが好きなの?」
「それは偏見ですよ。彼らはやはり特殊です。昼埜さんも似たようなもんです」
夜久が諦めかけたそのとき、胸ポケットの端末からスバルコードの着信を知らせる振動を確認した。
「ちょっと、ごめんなさい」
断りを入れ、夜久は端末を取り出し更新履歴を確認した。アップロードされたのは凪雫からのメッセージと画像ファイルであった。
夜久の表情はダウナーからアッパーに変化した。
「スピカさん、この右上の女性に心当たりはありませんか? 7年前くらい前のものと思われますが……」
凪から届いた画像は、昼埜藍から入手した親族の集合写真であった。メッセージには昼埜藍との接触に成功したことが添えられていた。
夜久はそこに写る7年前の、おそらく21歳の頃と思われる昼埜星の肖像をスピカに開示した。
「……この子は……そう、見覚えがあるわ!」
「本当ですか!」
「ええ。でも、名前はヒルノでもアカリでもない、確か Alnair Hilton だったわ。とても優秀だったし、すらっとした長身で、そう、頬にカシオペヤ座のほくろがあったのよ。印象的だったから覚えてるわ」
「アルナイル……ヒルトン……彼女とはどんな関係なんですか?」
「アマゾニカの構造を学生向けにレクチャーする講座があったのだけど、それに参加した子ね。でも日系5世のアメリカ人って話だったけど」
「……そうですか……あ、なるほど……」
夜久はアルナイル・ヒルトンが昼埜星であることを確信した。
Alnairとはつる座アルファ星の呼称であり、アラビア語で輝くもの、という意味があった。Hiltonは単純に昼の語呂合わせに過ぎない。
「アルナイルさんですが、今どこにいるかご存じですか?」
「さあ……短期の講習だったし、関係はそれっきりだったのよね。どうしてるかしら。私も会いたいわ」
「そうですか……では何か印象に残ったエピソードとかありませんか? 何でも結構です」
「そうね……あ、そうそう、最後の講義が終わった後に質問してきたことがあったわ。変わった内容だったから今でも覚えてる」
「……それは何でしょうか」
「確か、アマゾニカは世界で一つしかないのか、という質問だったわ」
「え? それは一つですよね。何でそんなことを聞いたんでしょう……」
「まあ、一つといえばそうなんだけど、厳密にいうとバックアップがあるわ。公にはなっていないけどね」
「え? それって本家と同じように動くんですか?」
「理論上は動くけど、それ単体では動かないわよ。システムってそういうものでしょ」
スピカの言う通り、同じマシンがあってもアマゾニカはパーソナル・コンピュータではない。それを動かすためには緻密で巨大なシステム環境が必要だ。
「アルナイルさんには何てお答えしたんですか?」
「アマゾニカは世界で唯一無二だけど、世の中にパーフェクトはない。セーフティネットのないアマゾニカを、あなたは考えられる? って返したわ」
「なるほど、それで……」
「彼女はちょっと気味の悪い微笑を含んで、確かこう言ったわ。『ありがとう、希望が持てたわ』と」
「ほう……中々面白い方ですね。印象に残る理由が分かりました。スピカさん、その人は間違いなく俺が探しているヒルノアカリです」
「え、そうなの?」
夜久は日本語名とアルナイル・ヒルトンとの符合を説明した。
「へえ……でもどうして偽名を使ったのかしら? いや、でもそれはあり得ないわ。アメイジング社のIDチェックは厳しいはずよ」
「偽名じゃないと思います。そちらも本名なんですよ。彼女は恐らく二重国籍を持っています」
「あ、そういうことね……」
「ところでスピカさん、アマゾニカのバックアップってどこにあるんですか? まあ、教えられるとは思いませんが、ヒントくらい欲しいかな、なんて」
夜久は期待せずに訊ねた。
「それは残念だけど分からない。私も気になって開発リーダーに聞いたことがあったわ。ヒント頂戴って」
「で、何って言ったんです? リーダーは」
「それがね、『恋をすれば解ける』ですって! まったく私もおちょくられたものだわ!」
スピカは追加のボウモワを一気に飲み干した。
「恋、ですか……それはまた難題ですね。星の数ほどパターンが存在する。アマゾニカで解析してみましょうかね」
夜久は冗談交じりに返答したが、薄らとその解に気づいていた。
「ヘイ! スバル! いいだろここ。で、スピカ女史とのサイエンストークは終わったのかい?」
ふたりの話が落ち着いたのを見計らってジョンが参入してきた。
「なんだよ、お前の方こそいいのかよ、あの娘が目当てなんだろ?」
夜久はカウンターでシェイカーを振る小柄なブロンド女性を指した。
「え? あ、もしかしてバレてた? いやー、かわいいよね! 彼女! あ、いいよね音楽も! 最高だぜダウナー!」
ジョンは音楽よりも酒よりも、バーテンの女性がお目当てのようだった。
「スピカさん、ジョンは今恋をしています。彼に聞けば正解が分かりそうですね」
「ふふ、もう解ってるじゃない。そう、そこにあると思うわ、私も」
「ありがとうございます。今日はとても興味深いお話を聞けました。また音楽の話でもしましょう」
「そうね、君が何をしようとしているか分からないけど、過剰な自意識は危険を呼び込むことになる。もし窮地に陥ってしまっても冷静さを失わないで。答えは必ずどこかにあるから」
「ええ。肝に銘じます」
夜久はかつて凪からも同じような忠告を受けたことを思い出し、自分は他人からどれだけ自信家に映るのだろうかと、少しばかりブルーになった。
2100年10月15日、夜久昴はアメイジング社との労働契約を変更し、フリーランスのプログラマーとして籍を置くこととなった。
彼は調査期間の延長と今後の行動指針を文書にしたため、ヤドメクラウドにアップロードした。
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私はアメリカでの調査から、この世界における最重要システムであるアマゾニカのバックアップがローマに存在すると推測した。
アマゾニカはまだ謎が多い。アメイジング社で私がアクセスできた機能はその一部に過ぎない。木佐貫はアマゾニカの短期講習を受講した昼埜星を介し、それにアクセスしていると思われる。
つまり、木佐貫とふたりのフレンズはローマにいる可能性が高い。
シンギュラリティに向けた最終テストはそこで行われていると考える。
従って私はローマで春と合流し、昼埜星を探す。
調査にはもう少し時間がかかりそうだ。
すまないが柊くんと帰国組で熟考に入っていただきたい。
2100.10.18
Subaru Yadome from USA
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同日、凪雫からもメッセージがアップロードされた。
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申し訳ないが私たちも調査期間を延長したい。
私たちはこれからロシアへ向かう。
理由はもうひとりの木佐貫フレンズに関する情報収集のためだ。
10年に及ぶ一波さんの調査によれば、そのカギがロシアにある可能性が高いとのこと。
夜久さんの報告によれば、その人物はローマにいるようだが、その正体を知るためにはロシアへ行く必要があると考える。
終了次第戻る。
2100.10.18 メッカより凪雫
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日本に残る柊はこのメッセージを受け、自身の現状を綴った。
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皆さん、本当にお疲れ様です。
調査期間延長の件、承知しました。引き続きよろしくお願いします。
僕の方ですが、お店の仕事も一通りこなせるようになり、魚もさばけるようになりました。楽しく過ごしています。
皆さんが大変なのは重々承知していますが、僕は楽しむことから探れることがあると信じています。
だから真剣にこの生活を楽しんでいます。特にゲームの世界は魅力的です。
ドクター木佐貫の命題はゲーム的要素があると考えます。
僕は僕なりに解を模索します。
では、皆さん、どうかくれぐれもお気をつけて。
また異次元で語れる日を心待ちにしています。
追伸:岬ちゃんと今泉先輩が恋人同士になりました!
2100.10.18 柊周
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