1. エルサレムの邂逅 前編
凪雫は年明けを待たずに旅立った。
彼女のミッションは、一神教の聖地エルサレムを中心とした宗教上重要な地域において、『7人の12使徒』に繋がる情報を収集することであった。
木佐貫一が解き放った人工ウイルスCOVIMSANIAは、国連サイドのイスラエルにも甚大な経済的損失をもたらした。しかしこのバイオテロによる死者は、不思議なことに唯の一人もカウントされていない。
日本の全体主義体制は地道な活動を継続してきた民主主義勢力によって崩壊した。それにより両国間の緊張は緩和され、長らく続いた渡航制限は2097年、解除となった。
凪は1日の大半を国立図書館で過ごした。そして貴重なアーカイブから本件に関連性の高い事案をピックアップし、ヤドメクラウドにアップロードした。重要と思う人物には接触を試み、情報の裏付けまで行った。
文献調査を終えると凪はしばしば嘆きの壁を訪れ、祈りを捧げる人々の沈黙に耳を傾けた。また、ヴィア・ドロローサ(苦難の道)に幾度となく足を運び、イエス・キリストが背負った十字架の重みに寄り添った。
歯止めの効かないテクノロジーの暴走から隔絶されたエルサレムの日常は、彼女の心に不可侵の静謐スポットを誕生させていた。そうして浮遊する煩悩の多くは悠久の大河に呑みこまれ、精神は清められていった。
21世紀末のエルサレムは、彼女がVRLで経験したような、血なまぐさい抗争を想起させることはなかった。宗教上の争いが解決したわけではないが、争うことの愚に疲れ切ってしまったように思えた。木佐貫一がばらまいたコビムサニアによる『無気力化』は、解決が不可能と思われた難題をいとも容易く終わらせる結果をもたらしたのかもしれない、と凪は考察していた。
健やかな日々が半年ほど続いたある日の午後、凪はいつものようにゴルゴタの丘を目指し、ヴィア・ドロローサの緩やかな傾斜を登っていた。行程の中間に位置するベロニカ教会に差し掛かると、坂道を勢いよく駆け上がってくる少年と、それを追う気性の激しい男が背後から迫ってきた。
「待ってくれ! 誤解だ! 俺の話を最後まで聞いてくれ!」
少年を追いかける日本人は、何か大切なものを奪われたかのような必死の形相で少年を追いかけていた。
「しつこいおっさんだな、もう! この街でボクに追いつける奴なんているわけないだろ!」
金髪の少年は見た目に反して日本の言語を発した。
凪は胸騒ぎを感じ、目の前を通り過ぎようとした少年の前に躍り出た。
「うわ!」
体制を崩した少年は勢いよく転倒し、咄嗟の受け身を取りながらベロニカ教会の壁に激突した。猛追する男はあっという間に少年を捕捉し、彼の腕をしっかりと掴みながら凪の下へやってきた。
「ん?」
「あら」
凪と男はお互いの顔を凝視した。
「あなた確かイチナミとかいう……」
「……君はあの時の……そう、異次元にいた自称未来人……」
少年を追いかけていた男は真実を愛するジャーナリスト、一波鋭であった。
「まあいい、とりあえず礼を言おう。助かった。ありがとう」
一波は少年を捕らえるアシストをしてくれた凪に礼を述べた。
「いえ、別に。それよりこの少年は誰? 日本語を話すようだけど」
「あ、この子は少年じゃなくて昼埜藍という女の子だ」
「女の子……それは失礼。ところで何で敏腕ジャーナリストがスリなんかに遭ってるのよ」
VRLによって年齢に見合わぬ人生の経験値を持つ凪は一波に臆することはない。
「この子はスリじゃねえよ。木佐貫の居所を掴むための重要な情報を持った子だ。やっと見つけ出して話し始めたら逃げ出しちまってよ。参ったぜ……」
「くそ! 離せよおっさん!」
藍という名の少女が抵抗を試みるが、一波の腕はびくともしない。凪は木佐貫と関係があるという少女の前で腰をかがめ、目線を合わせた。
「藍ちゃん、さっきはごめんね。この辺りはあなたみたいな年齢のスリも多いし、勘違いしてしまったわ。怪我をさせてしまったお詫びと治療をさせてくれない?」
「……」
藍は凪雫が放つ独特のオーラと、どこか悲しげな、憂いを帯びた美しさに息をのんだ。
「――あんた誰だよ」
「私は凪雫。ある極秘調査の任務中なの」
「調査? じゃあ、あんたもこのおっさんの仲間なんだな!」
「んー、どうだろう。協働関係を結んだ過去はあったけど。私が木佐貫一という人物を調査しているのはね、人の命がかかっているからなの。だから私の調査は仕事じゃないしお金のためでもない。確かに木佐貫一の情報はお金になる。でも私はそういう人とは違うわ」
「おいおい凪ちゃん待ってくれよ、木佐貫探しは俺のライフワークだ。金なんて正直どうでもいい。二の次だ。しょうもねえゴシップ記事で金を稼ぎ、その金で木佐貫一を追っているんだ」
「……そう。ならいいわ。仲間として認めてあげるからその子の手を離して」
「そうかいそれはどうも!」
一波は苛立ちながらも凪のペースに飲み込まれ、藍を解放した。
「藍ちゃん、私は無理やりあなたを問い詰めたりしない。話したくなければ話さなくていい。だから、まず怪我の治療をさせてくれないかな。それは本当に申し訳ないと思うことだから」
「………」
昼埜藍は怪我を負わせた凪雫に対して生じた感情が怒りではなく、ある種の共感と憧憬であることに気づいた。
「……分かったよ」
藍は凪に従い、路地裏で怪我の応急処置を受けることになった。
「へぇ……手際がいいな。看護師経験でもあるのか?」
まるで救助のプロであるかのような凪の所作に、一波は不思議に思いながらも感心した。
「ええ。野戦病院で従軍看護師をしていたこともあるわ。あ、これあなたに言っても信じないお話だったわね」
「未来人設定ね……」
真実を追求する一波が、この非科学的現象を認めるためには情報が少なすぎた。
「はい、終わり。幸い骨折もしていないし、擦り傷程度ね。よかった。でもごめんね本当に」
「……いいよもう。ボクもおっさんが悪い人間だって決めつけちゃってたし」
「このおっさん、木佐貫のことになると目の色変えるし、さらにその目つきが悪いからね」
「おい! ったく酷い言われようだな……。ま、ご指摘に関して自覚がないわけではないが。この子には聞きたいことが多くてね、つい気持ちが表に出過ぎちまった」
「藍ちゃん、お詫びとしてご飯を奢るわ。ユーカリプタスなんてどう? なかなか美味しいと思うけど」
「……いいよ。レストランなんて好きじゃないし。それよりボクがいいとこ案内してやるよ。そこに行く途中でケバブ買ってくれない?」
「もちろん、いいわよ。そこはレストランよりいい場所ってこと?」
「もち! 絶景スポットだよ」
「あの……俺も行っていいよね? 一応お仲間認定されたんで……」
一波はばつが悪そうに確認した。
「何だよ、おっさんも来んのかよ……ま、いいや。凪姉ちゃんの仲間なら!」
藍は凪の魅力に引き込まれ、この人をもっと知りたい、という欲求が高まっていた。
「ありがとう藍ちゃん。おっさんが少しでも無礼を働いたら私がぶっ飛ばしてやるから安心してね」
「ほう、いいのかな? 俺はこう見えても柔道三段なんだぜ?」
「それはそれは。私、空手四段、合気道三段ですけど」
「マジ?」
「ええ」
「全く何者なんだか君たちは……はいはい、いいですよ。俺はおとなしくしてますから」
一波も凪についてはほとんど情報がない。彼女と藍の会話を聞くことでそれが補完できると期待した。
……後編に続く