episode.8
バレンタインというイベントはどうしてこうも面倒なんだろう。
「うわあ、社畜って感じだね」
「悪かったわね、じゃんけん負けたせいで買い出し係なの。」
亮太は大笑いしながら、頼む前から薄めのマンデリンを出してくれた。
腹の立つことがあると聞いてくれる、親友だ。
5年も未練たらたらだったのに、いざばったり会ってみたら、案外老けてたし、しょぼくれてるところも多いし、小さな違和感がぞわぞわと目につくし、あれ?こんなもんだったけ?となったのが現実だ。
元恋人に未練がある人は思い切って会ってみるほうがいいと、本気で勧めたい。
まあ、かといって、亮太への未練を盾に終わらせてきた小さな恋愛たちも、亮太がいなくとも別れたんだろうし、28歳で独身生活を謳歌する運命だったんだろうなと思う。
今までの年度末で一番すかっとした気持だった。春には昇進できると耳打ちされ、私はすっかり嬉しくなって、前から気になっていたベージュのチークを買った。シャンプーもそろそろなくなりそうだから買わなくちゃ。
帰宅してアロマディフューザーにスイッチを入れる時間が一番好き。イランイランの香りが部屋にふわっと広がると、静かにゴールした金曜日の夜に、癒しがじんわりと染みわたるみたいだった。
明日は土曜日だし、フレンチトーストを作ろう。
一人暮らしなのに、なんでかカトラリーが多いから、たまにごちそうを作って一人パーティーをする。唐揚げをうんとたくさん揚げて、映画を見ながら夜を過ごして。
分厚いコートは少し暑かった。黒いタイツも今週いっぱいでおしまいだ。
春だ、春が来るんだ。
わけもなく浮足立った。私はいい暮らしをしている。ものすごい範囲の広大な幸せじゃないかもしれないけれど、私の半径2メートルぐらいはとっても満たされている。
「新人の育成ですか?」
4月になった。私は入社7年目になった。
すっかりしっかりお局だ。
私より先輩で未婚の人はついに誰もいなくなり、ラスボス感が尋常ではないが、気もしない。自分の好きなように生きて、好きなものを食べて、自由に生きていきたい。
新入社員は3人で女の子が1人と男の子が2人だった。
「乃梨子が人を育てるとはね」
「実家で犬飼ってたもん。できるよ」
「新入社員を犬扱いするとは先が思いやられるね」
固めのプリンは好きじゃなくなったと言った時が一番、亮太が悲壮な顔をした瞬間だったけれど、おかげさまでカラメルなしのとろとろミルクプリンを作ってくれるようになったから、やっぱり変化って大事だと思った。
「さすが、今の若い子はキラキラネームだね」
“桐生颯 1997年9月13日生まれ…“
「ほんとだ、でもこの子顔かわいいから、全然名前負けしてないね」
「ちょっと、お前さすがに5歳も下の子に手出すなよ、おばさん、痛いぞ」
「何それ嫉妬?ウケる」
「親友としての忠告だよ」
まだ見ぬ新芽みたいに若い彼らは、いったいどんな世界を見てきたんだろう。
「すみません、今日からお世話になる、新入社員の桐生と申します。」
うちの会社には珍しいぐらい爽やかな子が入社してきて、軽率に眼福…!となった。
ふわふわの髪に柔らかそうな白い肌、透き通った目、鍛え上げられた綺麗な逆三角形の身体に引き締まった脚。これは目の保養だ。
「あの…」
まずい、痛い先輩にならないように気を付けないと。
亮太に言われた忠告がくすくすとお腹の中で笑っていた。
「桐生くんね、育成担当の芳澤です。これからよろしくね。」
新しい季節は出会いの季節だ。
私は、亮太というすごく重たい思い出をやっと解放して自由にすることができた。
記憶のランプの中に閉じ込めて、美化して、だるま落としのだるまみたいに高く高く積み上げて、たまに取り出しては満たされない気持ちを綺麗なままの思い出に叶えてもらって、そうしてなくならないように見張り続けて。
「そういうことか、そういう寓話なのかな、アラジンって」
「急に大きい声出すなよ」
「なんだろ、その、囚われた過去とかこだわりとか、そういうの自由にして全部忘れるってことなんじゃない?」
「そういう見方もあるな、乃梨子にしてはいいじゃん、冴えてる。」
亮太は突然結婚した。全然知らない人と。びっくりするぐらい心からおめでとうという言葉が出た。
やっとやっと、私は自由になったんだ、言い聞かせなくても自然に自由になれてたんだ、そう実感して嬉しくなった。
「解放してやるのに5年もかかっちゃったから、お前が独身のままおばさんになったのだけが悔やまれるよ」
「何言ってるの、これからジーニーは自由に生きていきますよーだ、こんな老け込んだアラジンなんかより、もっと若くてかっこいい人探すんだから。」
「あー乃梨子先輩、こんなところいたんですか、帰りますよ」
「桐生くん!よくここわかったね!ちょっと亮太!この子、あの爽やかネームの新入社員、じゃないや、もう2年目か。」
春が来るたびに、新しい出会いがある。新しい人と出会わなくても、春になるたびに人は成長した姿になっていくから。新芽が伸びて色が変わるように、新しい姿になっていくから。
いくつになっても、私はいい暮らしをしていたいと思うんだ。
確か3年前にも同じように思ったことがあった。でも、あの時とは全然違う。
違う意味で心から、いい暮らしをしていたい。
「午後の先に行く前にここでお昼食べません?」
「いいね、お店探しまでしてくれるとは、気が利く、さすが私が産んだ子。」
「僕ももうすぐ3年目ですからね?単に成長したんです。」
「唐揚げ定食いいじゃん」
「じゃあ、これ2つで。」
ふと、ふわっとイランイランの匂いがしたような気がして、なぜだろう。私はとても懐かしい気持ちになった。
懐かしくてくすぐったい、そんな幸福な気持ちになったから、きっといい暮らしができているんだろうなって、今みたいな平穏な毎日が続いていけるんだろうなって、根拠はないけれど、心からそう思って、私は嬉しくなった。