episode.1
ラベンダーにローズマリーを足すと、緊張がほぐれるらしい。イランイランはストレスを解消するし、ベルガモットにジャスミンを足せばよく眠れる。思い切りハッピーになりたいときはバニラに蜂蜜を垂らすなんて手もあるそうだ。うーん甘そう。
もう1時間もこうしてアロマオイルの効能を見ている。やっと金曜日だ。
やっと最後のカーブを曲がって、私は今週も静かにゴールした。
熱烈に伴走してくれる人はいないけれども、粛々とゴールして汗を拭き、自分をねぎらう時間が私は大好きだ。
一人ご飯用の小さな鍋で、レトルトの回鍋肉を作って、十五穀米を炊いて。毎週見ている恋愛ドラマは今日が8話だ。
お風呂から出て、ストレッチをして、SNSをチェックして、欲しかったリップが割引していたから思い切って買った。すんごくピンクのリップ。外に出かけてしまいたくなるみたいな、夏のリップ。
私はいい暮らしをしている。
そう確信している。入社してまる5年経って仕事にも慣れて、好きなものを心地よく食べて、たまにほしい口紅も買って、ボーナスが出たらこうやってアロマディフューザーを買ってみたりもできるし、一人暮らし用の卵焼きフライパンも買った。
友達に誘われたら躊躇なくカフェに行けるし、思い立ったらレイトショーも観に行ける。特にお財布も、時間も、世間体も気にしなくっても。
ものすごい範囲の広大な幸せじゃないかもしれないけれど、私の半径2メートルぐらいはとっても満たされている。
恋人なんていなくっても。結婚なんてしなくっても。
結婚のラッシュも出産のラッシュも過ぎて、誰と会っても何をしても、自分をきちんと保てるようになった。平穏だ。
今の私はいい暮らしをしていると思う。叶えたい願いはなんだって、自分の力でこうやってぷちぷちと包装紙の丸を潰すみたいに心地よく叶えられる。
アロマディフューザーのスイッチをぽんっと入れて電気を消した。
イランイランの甘い香りが金曜日のややシワの当たった心にスチームアイロンをかけるみたいに、柔らかく湿らせてなじませていく。私はうつらうつらした。心地のいい初夏の夜だった。窓の外からは誰かの楽しそうな笑い声が聞こえて静かに遠くなっていった。
喉が渇いて起きるとまだ朝の4時だった。しかも今日は土曜日だ。普段ならあと2時間で起きるのに。沸騰した砂糖水が急にカラメルになるみたいに、おもむろにぼっこぼこ音を立てて私の心は弾け飛んだ。幸せが顔の細胞から滲んでいくのを感じていた。
付けっぱなしで寝てしまったから、アロマディフューザーはもうライトが落ちていて、スリープモードになってすやすやと眠っていた。我が家に来て一日目だけれど、もうすっかり昔から我が家の一員みたいな顔をして枕もとに陣取っていた。
「…ん?」
異変に気付いたのは、起きてから焼く予定で冷蔵庫に仕込んであるフレンチトーストに、杏ジャムをつけようか、メープルシロップにしようかとわくわくと考えながらハンドクリームを塗りこんでいた時だった。
そういえばなんとなく、さっき目が覚めた時から、いや違う、これにスイッチを入れてしばらくして、ぼんやり薄目を開けていた時から、なんとなく見られているような、ちくちくと引っ掻いたような、微かな視線が気にはなっていたのだ。
アロマディフューザーがことん、と音を立てた。ぶるるんと一回震えて、スイッチが切れているはずなのに白い霧がごほっと噴き出してあたりは真っ白になった。イランイランの香りが鼻に充満する。私は思わず目を閉じた。
「…」
怖くて声も出せなかった。
どう見たって知らない男がベッドのそばの床で寝息を立てていた。こんなわかりやすく犯罪に巻き込まれたことは初めてだけれど、おそらく騒いだら怖い目に合うのだろう。
脳みそをフル回転して後ずさりし、携帯と財布だけを後ろ手に取って、摺り足で後ずさって部屋を出ようとした。
「ちょっと、どこ行くの?」
突然むくりと起き上がって、その男はにやりと笑った。背筋が凍った。
何もばちが当たるようなことをした覚えも、恨みを買うようなことをした覚えも、勘違いされてストーカーされるようなことをした覚えもはないのに。
これから散々怖い目に合って、明日の朝発見されて、ニュースになって。親は泣くだろうし、もしかしたら適当で無責任な報道をされて、たくさんの勘違いを生んで私の保ってきた大切なプライドもズタボロになってしまうかもしれないし、本当に本当に無理だと思った。
そもそも誰だかわからない人にこうやって侵入されるほど私はセキュリティが甘かったんだろうか。毎日寝る前に5回は戸締りを確認するし、おかしなことは何もなかったのに。
そんなことを0.01秒の間に考えながらも、そんなことを考えている場合でもないので、靴も履かずにとりあえず逃げようと思った。
「出かけるなら持って行ってよ、主人と離れるのは得意じゃないんだ。」
玄関でがっしりと肩を掴んだその男はイランイランのいい香りがした。
ふわふわの髪に柔らかそうな白い肌、透き通った目、鍛え上げられた綺麗な逆三角形の身体に引き締まった脚。恐怖の中に、なんでこんな綺麗な人が、私によからぬことを企んでいるんだか、全然わからないと思って、ますます混乱していった。
「こんな夜中に出かけたら風邪ひくじゃん。それに変な人いたら危ないよ?」
ああそうか。
ここが自分の家で、付き合っていると勘違いしてしまったたぐいのサイコパスか。
随分と身軽で白いTシャツにデニムという恰好で財布さえ持っていなさそうな雰囲気だけれど、これは実際はのこぎりとか持っているくちだと思った。本当にもう終わりだ。
「聞いてるの?とりあえず、出かけるときはこれ持って行かないとダメ。俺消えちゃうかもしれないでしょ?」
アロマディフューザーを差し出しながら不服そうな顔をした。意味の分からないことを言って。呆然としている私の顔をおかしそうに見ていた。
「あ、もしかして、もしかしてだけど俺のことなんか不審者だと思ってる?」
1時間後、私はこの男と一緒に部屋に舞い戻っていた。
男は、アロマディフューザーから出てくる妖精らしく、1000年ぐらい古風なランプの中に住んでいたけれど、技術革新とともにランプを持つ人も減ってきたし、5年ぐらい前からアロマディフューザーに引っ越したらしい。
アロマディフューザーの持ち主のことは主人として認識し、願い事を3つ叶えることができるそうだ。
ただその願いには一応ルールがあって、誰かを生き返らせたり、誰かを好きにさせたり、願い事を増やしたりするのはNGだそう。チャームポイントは前向きな性格らしい。まあ最後のはどうでもいいけれど。
「そんな訳の分からない説明、信じるバカがどこにいるのよ。」
「いや、だってすごく納得がいくでしょ?読んだことないの?アラジン。」
「あるけど、どう考えたってフィクションだし、そんな手口で侵入するなんて荒唐無稽すぎるじゃない。何が狙いなの?お金?通報しないからお願いだからちゃんと本当のこと言ってよ。」
「…本当のこと言ったのに。」
「どうやって信じろって言うの?そんな話」
男はしばらく考えて、突然思いついたようにアロマディフューザーを掴んだ。
「ねえ、これ、スイッチ切ってみて、で、10秒したらまたスイッチ入れてみて?」
いいからいいからと、なだめられ、恐る恐るスイッチを切ると、男の姿はどこにも見当たらなくなった。
呆然とした。男の説明が仮に本当だとすれば、確かに主人がスイッチを切れば、妖精はアロマディフューザーの中に戻るはずだ。そしてまたスイッチをオンにすれば出てくる。
「よかった。切られたままもう会えないかと思ったよ。」
「事実は検証しなきゃ。あのまま消えられたら、余計気味が悪いでしょ。」
ちなみに一度戻ってしまうと再起動するに10秒かかるから、スイッチの入切は10秒待ってからやらないといけないらしい。随分現代的なアラジンだ。
誰がどう聞いても嘘くさい、おかしな話なのに、不思議と私はこの男の話に納得し始めていた。
「あんた、名前は?」
「ジーニー。」
「まんま過ぎない?」
「この手の妖精は全部ジーニーなんだよ。正確に言えば俺は本家ではないんだけど、その辺の難しい説明はややこしいから理解できないと思うし、気にしなくていいよ。」
散々ややこしいことを言っておいて、何を言っているんだと内心思いつつも、こいつが本家のジーニーだろうと、分家のジーニーだろうとどうでもよいので、聞かないことにした。
外はだんだんと白んでいった。
チャイを飲みながら映画でも観て、のんびりと過ごすはずの土曜日は、突然に訪れたジーニーのせいで慌ただしく始まろうとしていた。