500万円の壺を買わされた俺がいかにして英雄となりえたか
騙されて買った壺の前で、あぐらをかいて、じっとしていた。500万で買ったんだ、これはたいそうな代物だろうと、さながら自己催眠を施すように、ぶつぶつとつぶやいていた。
そうこうしていると、仕事の疲れでウトウトしてくる。いかんいかんと叱咤するも、やはり眠い。ブラック企業で堆積した慢性疲労は、めったな日曜休みでも回復できない。
オッサンは寝まい寝まいと争ってるうちに、眠ってしまった。
「起きなさい。ねえったら、起きなさい」
と聞き馴染みのない女の声がする。
オッサンはまさか、こんなボロ屋のしかも俺の部屋などに女の声などありえない、とまぶたを持ち上げることはなかった。
しかし女の声はしつこく、なおも続く。ついには肩をゆすられる感覚がしっかりと意識に付着した。
これはどうしたことだろう。
オッサンはまぶたを薄く開けた。
女はしゃんと正座したまま、澄んだ黒水晶のような瞳でまっすぐオッサンを見下ろしていた。
やせた丸顔に乳色の健康的な肌。化粧っ気のない中で唇だけがみずみずしい桃色をのせていた。
オッサンはというと、タイの涅槃像のように半身を畳にふせて、寝そべっていた。
それが急に恥ずかしくなって、ゆっくりと起き上がろうとしたけれど、支えにしていた腕が痺れ、倒れ込んだ。
「ゆっくりで構いませんよ」
しびれがひくと、起き上がって向かい合うように正座した。壺はちょうど2人の間を取り持つように置かれていた。
聞けば彼女は壺を介してこの世界を訪ねてきた ふくろうという女性で、かの国では王と第4王妃との間に生まれた王女様だという。
その突飛な話を信じさせるだけの気品と美貌は確かに備わっていた。それにまとう衣服もこの世界に馴染まず、かといってコスプレ衣装のような偽物を感じさせない生活感がある。
そそのかされて壺をのぞいてみる。
薄暗く黒い底が、川の水面のように透き通り、波紋を浮かべた。
壺の先には青々とした草原と牧歌的な村落が広がっていた。
顔を抜き取るとボロの6畳。うるわしき王女がにこやかに笑っている。
「信じてくれましたか?」
「確信に変わりました」
天日干しした2枚の座布団を取り込んで敷き、その上に座らせて、緑茶を振る舞った。
「私はもうじき殺されます。見ず知らずの者に。おそらく敵国のさしむけた刺客なのでしょう。そして変化のたくみな女が私として生きていくのです。私には3日先の未来が見えます。見えた未来が外れたことはありません」
なら、予知を公表すればどうでしょうと申し上げたが、首を横に振るだけだった。もちろんそんなことは王女様だって考えたことだろうことには、動転して気づけなかった。
「あなただけでも私が生きたこと、そして死んだことを覚えていて欲しいのです。これだけが、私にできるせめてもの反逆。それに、小さい頃から試してみたかったのです。家宝にまつわる伝説、水盆に霊山でとれた水をそそぐと異世界につながるという話を」
王女は寂しそうにやわらかな眉をおとした。話しているさなかにも気苦労からか、疲れからか、老け込んだように見えた。
王女はじっと窓の外を除き、時間がないからと立ち上がった。その瞳に、人生の終わりが決まった者の悔しさや、絶望がふくまれていた。しかし、小さな安堵も紛れ込んでいた。
彼女が去った後、オッサンはもう一度あぐらをかいて、じっとしていた。けれど今度は深々と考え事にふけっていた。
オッサンの無益な人生にはじめて意味らしい意味が宿った。
自堕落で12年と勉強から遠ざかり、就職活動すら満足に行わなかったオッサンの心に、はじめて闘志がやどった。
次の日、オッサンはスーパーで震災用の懐中電灯を2つ、マッチのセットを3つ、パンツを3枚、カンパンとチョコを3つずつ買った。
登山専門店でちっちゃく収納できるブーツを二足、折り畳み傘と耐熱手袋を二つずつ買った。
自宅にある底深のフライパンを登山用リュックに詰め込んだ。
アマゾンで軍用シャベルと、水5ダースを購入した。
オッサンは壺の前に立ち、深呼吸する。
もしかするとこっちには戻ってこれないかもしれない。例の水盆がなくなっているかもしれになかった。割られているかもしれなかった。はたまた壺が割られるかもしれなかった。
それでもいいと思った。
こちらの世界にいたところでブラック企業に心身ともにむしばまれて死ぬ。
なら、今不思議と胸を突き動かされる激情に身を任せてみたい。
王女様がやったように、壺の中に足を突っ込んでみる。すると荷物もろともすさまじいい吸引力にひっぱられた。
オッサンに初めて夢ができた。
助け出して王女様ともう一度お茶をする夢。
それが実現することを、まだ知らない。
これを書いているのが5度目のお茶会が始まる前だということも、当然知らない。