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   兜首

作者: 神山仁

  1、

 激しく降り注ぐ豪雨の中、味方とも敵方とも解らぬ法螺貝と陣鉦、陣太鼓が鳴り響く。

「俺は死なんぞ。死んでたまるかッ」

 悍馬が暴れ狂い、兵たちの喚き声と断末魔が渦巻く戦場から逃れようと、小平太は、死に物狂いで野太刀を振り回し、襲って来る槍の穂先と薙刀の刃を交わしながら、泥飛沫を蹴り上げて必死に駆けた。

 出世を夢見て参陣した訳ではない。無理矢理に召集されて、先の尖った五尺の棍棒を握らされたのだ。

 もともと小平太は、半武半農の郷士などではなく、戦とは無縁の普通の百姓である。それが、領主の池田信正の足軽頭を勤める、戦で死んだ親父の従兄弟の河窪忠吉に、借金の肩替わりとして、強引に合戦に狩り出されたのだ。

 だから与えられた武器も、槍ではなく、一本の樫の棍棒だけであった。

 棍棒も五尺もあれば、太刀よりも長く、しかも先を鋭く尖らせているから槍の代わりにもなる。使い方によっては、太刀以上の強力な武器となるが、それは手馴れた者が使えばの話しであり、小平太のように合戦の経験が無い者に、そうやすやすと使いこなせる武器ではない。

「雑兵に武器は、これで充分じゃ」

 と、忠吉に槍では無く棍棒を握らされた時、小平太は、忠吉の仕打ちに増悪を燃やしたのだった。

 だが、その親父の従兄弟の足軽頭とも、この豪雨の乱戦の最中にはぐれてしまい、何処にいるのか解らない。

 敵に討たれたのか。それとも無事なのか。

 無数の旗指物が乱雑する中、幾度も辺りを探し求めたが、敵味方が入り乱れている上に、顔面や甲冑が血糊と泥塗れのため、誰が敵で味方が誰なのか、まったく区別が付かなかった。

 こうした状況下の中で、忠吉を探し出すのは不可能であった。それに今は、忠吉に構っている暇などない。敵の武者から奪い取った野太刀を、狂ったように振り回しては、己れの身を守るのが精一杯であった。

 敵兵と斬り合い、敵将の首級を掻き取るよりも、この地獄の修羅場から逃げ出す事しか、小平太の頭にはなかった。

 それに、自分たち百姓から、年貢を搾り取る事しか考えていない領主のために戦って死ぬのは馬鹿げている。

 無駄死には、親父一人だけで沢山だ。

 また、今回の合戦にしても、小平太たち領民にとって理解しがたいものだった。

 そもそも畿内が、動乱の渦に翻弄される切っ掛けとなったのは、十九年前の永正四年(一五〇七)六月、室町幕府の実権を牛耳っていた管領職の細川政元が、三人の養子の管領家の相続を巡っての拗れから、公家の九条家から養子に招いていた、細川澄之を担ぐ薬師寺長忠と香西元長の手によって暗殺された。

 〝政元謀殺される〟

 この凶報に、真っ先に仇討ちの兵を挙げたのが、政元の養子の一人、細川高国であった。

 高国は、実家の父、和泉の守護職の細川政春の協力を得て、和泉の軍勢を主力に京都へ攻め込み、澄之派の反乱分子を討ち破って一掃する事に成功したのである。

 ところが、管領職に就いたのは高国ではなく、政元のもう一人の養子の細川澄元だった。

 澄元の父親の細川義春は、四国の阿波の勝瑞城を本拠に、讃岐、土佐、そして淡路の守護職をも兼ねる、細川宗家に次ぐ実力者である。それに対して高国の実家は、守護家と言っても、和泉半国だけの守護職にしか過ぎない。

 こうした実家の力関係から、政元の敵を討った高国が管領になれず、仇討ちの挙兵に出遅れた澄元が管領職に就いたのだ。

 当然、管領職に就けなかった高国は面白くない。と言って、澄元と管領職を争う武力も無い。こうした高国の不満の火種を抱えながらも、細川一族の内紛は一応の収まりを見せたかに思えた。

 しかし、薄氷の上の平和は長続きはしなかった。

 永正五年の初め、中国地方の大名の大内義興が、政元の死によって権威が薄れた細川管領家の隙を狙って、政元によって将軍職を逐われた、前将軍足利義伊を担いで畿内へと進出して来た事により、幕府内は混乱状態となった。

 だが、澄元の管領職に不満を抱き続けていた高国は、大軍を率いての義興の上洛を好機と捉え、丹波に布陣した義興の許に走り、義興の軍事力を利用して、現将軍の足利義澄と管領澄元を京都から放逐したのである。

 大内義興は、中国の周防ノ国を本拠に、長門、石見、安芸、九州の筑前と豊前など六ヵ国を領する大大名である。義興の上洛の狙いは、幕政を牛耳ると共に、明国との勘合貿易を今以上に拡大するためであった。

 義澄と澄元が近江へ敗走すると、義興と高国に伴われて入京した義伊は、悲願の将軍職復帰を果たすと、高国を管領職に就かせて、義興を管領代として山城の守護職に任命したのである。

 こうした幕府の実権を握ろうとする大内義興の野心と、将軍家の内紛、高国と澄元の管領職を巡っての紛争は、摂津の豪族たちをも巻き込み、応仁ノ乱が終結して間もない畿内を、再び戦乱へと導いたのだ。

 その紛争も、前将軍の義澄の病死と、七年前の京都平等院の合戦で、澄元の宿老の三好之長が、高国の軍勢に敗れて自刃した上に、阿波に敗走した澄元自身もが病死した事によって、将軍家と管領家の紛争は一応の決着を見たのだが、まだ紛争の火種は燻り続けていた。

 三好之長の孫の三好元長が、中央政権の奪還を狙って、阿波から京都の政変を窺っていたのである。

 一方、京都でも義興が、将軍義伊と管領高国と不仲になり、尼子経久との対立を口実に、永正十五年(一五一八)八月、義興は管領代を辞して周防へ戻ったのだ。

 二人の有力者の一人の義興が領地へ戻った事によって、幕府の実権は高国一人に握られた。高国は管領としての支配を確実なものとするため、己れの意に添わない者は誰であろうとも、追放したり処刑などしては粛清した。

 将軍を蔑ろしては、その恐怖政治の非道振りに嫌気をさした義伊は、大永元年(一五二一)三月、密かに京都を抜け出して、旧澄元派の本拠地の四国の阿波へと逃れたのであった。

 しかし、高国にとって将軍の逐電は、大した事件ではなかった。京都から将軍が不在ならば、新しい将軍を作ればよい事だった。

 そこで高国は、己れの権力地盤を守るため、かって自分が京都から放逐した前将軍義澄の嫡子の義晴を京都に招くと、義伊の将軍職を剥奪したのである。

 以来、幼将軍義晴を担いだ高国の許、幕府政治は、いつ砕けても不思議ではない高国の独裁下に置かれたのだった。

 が、緊迫した独裁政治がいつまでも続く筈がない。

 紛争の火蓋を切ったのは、旧澄元派の反攻ではなく、高国陣営の崩壊であった。

 戦端の起こりは、高国配下の丹波の豪族、柳本賢治の義兄の香西元盛が、高国の一族によって謀殺された事によって勃発したのだ。

 義兄を謀殺された賢治は、憤激して高国に訴えたが、高国は聞き入れず、一族の者を庇護したのである。そこで賢治は、丹波の実力者の波多野氏と計り、丹波の豪族たちを集結させて、高国に反旗を翻したのであった。

 高国に反旗の狼煙を挙げたのは丹波衆だけではなかった。高国によって粛清された豪族たちの一族も、賢治の蜂起に共鳴して、反乱軍に加わったのである。

 その数は二万を越えた。

 それに対して、高国の管領軍は兵が集まらず、反乱軍の勢いを阻止する事ができなかった。

 そして、丹波衆を主力とした柳本勢は、今年の大永七年(一五二七)二月、将軍義晴と管領高国を近江へと敗走させて、京都を占領したのだった。

 しかも同じ二月、四国の阿波から、三好元長が、将軍義晴の弟の義維と、前管領澄元の嫡子の細川晴元を奉じて、和泉の堺に上陸したのである。

 以後、畿内は、近江の六角定頼の許へ逃がれた、将軍義晴を奉じた細川高国の勢力と、京都を支配した柳本賢治の丹波勢。そして、義維と晴元をの二人を担いだ、三好元長の勢力が乱立する三国鼎立の様相となった。

 当然、三勢力の鼎立は、摂津の豪族たちにも影響を与えた。

 こうした現状の中、領主の池田信正が、突然、伊丹元扶の領内へ攻め込んだのである。

 池田信正と伊丹元扶とは、領地が隣接している関係から、ほんの数日前までは、共に高国派の陣営で旗指物を並べていた味方同士だった。ところが、三好元長が堺に本拠を置いて、和泉を完全に牛耳ると、信正は細川晴元の陣営に寝返り、伊丹領へ侵攻したのだ。

 元々、信正と父の貞正は、旧澄元派の武将だった。三好之長が敗北した平等院の合戦のさいに、父貞正が討ち死にした上に領地の大半を失ったが、信正が高国に従属する事によって、何とか領地を回復する事が出来た。そして、旧澄元派の畿内進出を密かに待っていたのである。

 当初、攻め込んだ池田勢が有利に展開していたが、合戦が長引くと、態勢を整え直した伊丹勢が盛り返し、合戦は膠着状態となっていた。

 どれ程の時間が過ぎたであろうか、小平太は、肩で大きく息を吐きながら、鎮守ノ森の大杉に凭れて座り込んでいた。右肩に血が滲んでいるが、深傷ではない、ただの掠り傷だ。

 何度も大きく息を吐いて、気持ちが落ち着くと辺りを窺った。遠くの方で、雨の音に混じり、馬の嘶きと兵たちの怒号が響いて聞こえるが、近くに人影は見えなかった。

 ただ、鬱蒼とした森の中に、今の乱世を彷彿させるような、崩れかけた古びた社殿が見えるだけだった。

 どうやら、戦場から離脱する事が出来たようだ。

「助かった。死なずに済んだ……」

 安堵感が込み上げてくると、自然に躰中の力が抜けて、それまで膠着したまま握っていた野太刀を手から離した。

 この野太刀は、合戦の最中、棍棒を失ったすぐ後、槍を握った敵の武者に死に物狂いで体当たりをして、無意識に鞘から奪い取ったものである。

「眠い……」

 緊張が緩み、今までの疲れが一気に吹き出したのか、冷たい九月の雨に打たれながらも、小平太は、睡魔に飲まれた。

 〝帰りたい〟

 今直ぐ、この戦場から逃げ出して、母親と千沙が待っ村へ戻りたかった。

 眼を瞑ると、母親の桔梗と幼馴染みの千沙。そして、七年前、忠吉と一緒に池田家の雑兵として、平等院の合戦に参陣して討ち死にした、父親の佐助の顔がちら詰いた。

 七年前の蒸し暑かった五月、澄元の宿老の三好之長は、京都を奪還するべく、五千の軍勢を率いて京都に進入すると、平等院に布陣して細川高国の軍勢と対峙した。

 ところが、反三好勢力を集結させた高国勢は五万の大軍にも膨れ上がり、合戦の勝敗は戦う前から決していた。三好勢は、高国勢に撃ち破られて敗走したのだった。

 この時の合戦で、佐助は討ち死に、それに対して忠吉は、敵の武者の首級を三ッも掻き取る手柄を挙げて、負け戦だったにもかかわらず、池田家の足軽頭に出世したのである。

 だが、その当時、忠吉の手柄と佐助の討ち死にを疑問視する噂が流れた。

 つまり、戦場で敵の武者三人を討ち取ったのは佐助であり、忠吉は戦場に行ったが、合戦には参加せず、もっぱら市街戦のどさくさに紛れて、十数人の雑兵たちと徒党を組み、公家屋敷や商家などに押し込んでは、金品などを略奪していたという。しかも、佐助は討ち死になどではなく、佐助の手柄を横取りするために、忠吉が殺したと言うのだ。

 証拠は無いが、現に戦場から戻ると、忠吉は、雑兵から一気に足軽頭に出世しては、一カ村の領地をも与えられた。また、何処で資金を調達したのか、土倉(金貸し)の商売も始めたのである。

 それに対して、一家の働き手を失った小平太の家は傾く一方で、僅かな田畑から採れる収穫物も、年貢として領主に徴収されてしまい、二人だけの家族にも係わらず、その日暮らしがやっとの有り様となっていた。

 こうした生活苦の上に、桔梗が病気になったため、母親の薬代を得るために、小平太は、心ならずも忠吉から少しばかりの銭を借りたのだった。それが今では利子が積り、借りた以上に借金が膨れ上がってしまい、その借金の肩替わりに、まだ十七歳にも関わらず、小平太は、忠吉の配下として合戦に駆り出されたのである。


 どのくらい眠ったであろうか。僅かな時間なのであろうが、雨の音に紛れて、甲冑が擦れ合う音と、誰かが近ずいて来る気配に、小平太は、本能的に目覚めた。

 〝誰か来る〟

 敵か味方なのか、小平太は、素早く野太刀を掴んだ。

「その太刀を返して貰おうか」

 野太い声がしたと思うと、槍を持った大柄な武者が、小平太の前に立ちはだかった。

「若造、素直にかえせば殺しはせぬ。太刀をそこに置いて去れ」

 武者は、槍の穂先を小平太に向けて、ゆっくりと近ずいた。

 戦の経験が無い雑兵だと分かっていても、油断はしていない。

「い、嫌だッ」

 吠えたつもりだが、口許が震えて声にならない。

 身震いしながらも、小平太は、無意識に野太刀の切ッ先を武者に向けた。

 見ると、武者の鞘には太刀が無い。すると今、小平太が握っている野太刀は、この武者のモノなのか。が、野太刀を武者に渡せば、小平太は、間違いなく斬られてしまうだろう。

「そうか、仕方あるまい」

 小平太の自衛的反応に、武者が握る槍の穂先が、小平太の顔面を襲った。

「ヒィーッ」

 躰を左に転がし、辛うじて槍の一撃を交わした。

「逃げても無駄じゃ」

 尻餅を着いたまま後退りする小平太に、武者は容赦なく攻撃の手を緩めなかった。

 顔面、胸、腕や足などに槍を突きまくった。そのたびに小平太は、野太刀を振り回して、槍の穂先から逃れた。

 だが、こうした抵抗がいつまでも続く筈がない。左足の股を傷付けられ、小平太は、朽ち果てた石灯籠を背に追い詰められた。

「ハァハァ……」

 肩で大きく息を切らせながらも小平太は、辛うじて野太刀を握り締めていた。

「大人しく返せば死なずに済んだものを、愚かな奴じゃ」

 小柄で華奢な躰付きなのに、普通の太刀よりもはるかに重い野太刀を振り回す小平太に瞠目しながらも、左足を傷付いた小平太に止めを刺そうと、渾身の力を込めて、槍の穂先を小平太の胸に走らせた。

「わァーッ」

 死にたくない。

 小平太は眼を瞑り、襲って来る槍の穂先に向けて、遮二無二に野太刀を振り上げた。

 手応えがあった。

 腕に衝撃が走り、野太刀が何かを斬った鈍い音がした。

 恐る恐る眼を開けると、小平太は息を飲んだ。

 何と、武者が握る槍の柄が真ッ二ッに斬られ、槍の穂先が、小平太の足許に転げ落ちていたのだ。

「己れッ」

 小平太のような、名も無い若い雑兵に、野太刀を奪われた上に、愛用の槍の柄をも叩き斬られたのが、余程腹立たしかったのか、武者は顔面を紅潮させては、穂先を失った槍の柄を捨てるなり、悪鬼の形相で小刀を抜き放ち、小平太に襲い掛かった。

「ちくしょうッ」

 小平太も死に物狂いで、野太刀を振り回して抵抗したが、敵う筈がない。

 野太刀を奪われ、武者に組み伏せられた。

「俺は死ぬのか……」

 もう駄目だ。

 小平太は、恐怖と絶望で躰が膠着した。

 その時だ。小平太を抑え込んでいた、武者の腕の力が急に緩み、低い呻き声を漏らしながら、小平太の躰の上に崩れた。

 小平太は、無我夢中で、動かなくなった武者の躰を押し退けて立ち上がった。

「あッ」

 驚愕した。矢が武者の首を貫いていたのだ。

「誰が……」

 油断なく、小平太は、辺りを見回した。

 誰もいないー。

 誰かが、何処から矢を放って、小平太を助けてくれたのか。

 気付くと、辺りの所々の木々に、数本の矢が突き刺さっていた。また、草の中にも矢が落ちていた。

 戦場からの流れ矢だ。

「戦場から離れているのに、此所まで飛んで来るのか」

 少しの距離だとはいえ、戦場から離れている筈なのに、流れ矢が飛来するとは、だがその流れ矢のお陰で、小平太は、命拾いしたのだ。

 ひと呼吸して、気持ちを落ち着かせると、小平太は、絶命した武者の顔を覗き込んだ。

 幾度もの戦場を駆け抜けて来た〝兵〟なのであろう。兜の中に見える髭面には、風格が漂っていた。

 また、上等な甲冑を身に纏っているのを見ても、嘸かし名のある武者なのであろうが、誰が放ったか解らぬ弓矢の流れ矢で討ち死にするとは、哀れとしか言いようがない。

「どうする……」

 武者の屍の前にしゃがみ込んだまま、小平太は、殺されかけた自分が助かり、自分を殺そとした武者の呆気ない最期に、人の運命など分からぬものだと考えさせられた。

 現に今、もしこの武者の首級を掻き取れば、明日から小平太は、池田信正の家来としての道が約束されるのだ。

 そうすれば、朝早くから夜遅くまで、田畑を耕さずに済む。それに手柄の恩賞として、幾ばくかの褒美も貰えるかもしれない。その褒美で、忠吉に借金を返せる。

 小平太は、ごくりと息を飲んだ。今まで考えもしなかった、功名心が込み上げて来たのだ。

「待ていッ。その首は儂の物じゃ―ッ」

 小平太が、小刀で武者の首を掻き取ろうとした時だ。突然、何処から現れたのか、忠吉が泥飛沫を上げて駆けて来るなり、小平太を突飛ばした。

「何をするッ」

「うるさいッ。この兜首は、儂が掻き取るんじゃ。百姓のお前にはやらぬッ」

 叫ぶなり、忠吉は、狂ったように、小刀で武者の首級を掻き取った。


 2、

 紅葉に飾られた山々から、吹き流れて来る秋風が冷たい。

 十月となれば、秋も終わりに近い。

 そうした冷たい風の中、合戦で田畑を荒らされた農民たちは、来年の収穫に備えて、田畑に鍬を入れて耕していた。

 小平太もまた、肩口と左足の股に傷を負っていたが、額に汗を流しながら畑に鍬を入れていた。僅かな米と粟と稗しか育たない貧しい畑だが、父親の佐助が、荒れ地を耕して畑にしたモノだ。少々の傷の痛みぐらいで、畑仕事を休む訳にはいかない。

 ただ、再び合戦が勃発すれば、また強引に戦場へ狩り出されると思うと気が重たかった。

 今回の合戦は、領民とって迷惑以外の何物でもなかった。その上合戦は、当初は攻め込んだ池田勢が優勢だったが、時が経つにつれて、態勢を整え直した伊丹勢が反攻に転じ、池田勢は伊丹領から押し出されて、反対に領内に攻め込まれたのだ。

 もし、堺から三好勢の援軍が無ければ、合戦はどうなったか分からなかった。

 結果、合戦は、敵の首級を多く掻き取った池田勢が優勢勝ちとなったが、領地の切り取りでは、両軍痛み分けの引き分けで終わったのだった。

 そのため、死に物狂いで戦いながらも、小平太のような足軽雑兵には手当てが無く、手柄を挙げた者でさえ、恩賞も少なかった。

 だから雑兵たちが手にしたのは、合戦が終わった後、敵兵の屍から剥ぎ取った、甲冑や刀槍などの略奪品だけだった。。

 小平太もまた、忠吉が首級を掻き取った武者の屍から、後ろめたい思いで、野太刀と槍の穂先を持ち帰った。

 だが、今回のように勝敗が定まらず、恩賞の少ない合戦に置いて、唯一、大きな恩賞を授かった者が一人いた。

 親父の従兄弟の河窪忠吉である。

 忠吉だけが、何故、大きな恩賞に在り付けたのか。

 それは、忠吉が小平太を突飛ばして、強引に首級を掻き取った武者がー。

 〝赤鬼ノ権六〟

 の異名を持つ、伊丹元扶の侍隊将として、敵から恐れられていた、赤間権六だったからだ。

 この手柄によって、忠吉は、足軽頭から一気に、三ヶ村の扶持を与えられて、百人の配下を預かる侍隊将に出世したのである。

 赤間権六は、それほどの兜首だったのだ。

 西の空が朱色に染まり始めた頃、畑仕事を終えた小平太が家に戻ると、一頭の馬が繋がれていた。

「忠吉かッ」

 うるさく、また来ているのだ。

 小平太は、苦々しく顔をしかめた。

「忠吉ッ、何しに来た。また母ァを苛めに来たのかッ」

 家に入るなり、小平太は、鍬を握り締めたまま、土間板に腰を降ろしている忠吉に向かって吠えた。

「小平太、人聞きの悪い事を申すな。儂は、貸した銭を返して貰いに来ただけじゃ。それにもう二度と、儂の名を気安く呼ぶではないぞ。儂は今までは、池田家の侍隊将じゃから」

 厳つい顔で、小平太を睨み据えると、忠吉は、小平太が握っている鍬を取り上げた。

「何するんじゃーッ」

「この鍬は、利子貸わりに貰っておく」

「そんな……」

 小平太の顔が青ざめた。

「その鍬を持って行かれたなら、明日から畑が耕せなくなる」

「儂の知った事か」

 忠吉は、小平太を突っぱねると、囲炉裏の側で、藁布団に横たわる桔梗に向かってー。

「さっき話した通り、十日したらまた来る。それまで銭が出来なかったら、このボロ家と畑は貰うからなッ」

 銭が出来ないのを承知の上で、返済期限を区切り、無理難題を言い渡した。

「ちょつと待てくれ。あんた、合戦で俺の手柄を横取りして侍隊将になったんじゃろう。だったらもう少しまってくれてもいい筈だ。銭は必ず返すから」

 小平太が忠吉から借りたのは、小指の爪ほどの小粒銀五個だった。それが今では利子が積もり、小粒銀二十個にも膨れ上がっていたのだ。

 借りた銭を返すのは当然だが、余りにも法外な利子と無茶な要求に、小平太は、忠吉の痛い所に噛みついた。

 土間と板間だけの粗末な家だが、病気が治り切っていない母親のためにも、どうしても手放したくなかった。

「阿呆か。誰がお前のような若造の言う事を信じる。儂が掻き取ったのは〝赤鬼ノ権六〟の首ぞ。その赤間権六が、お前のようなクソガキに討たれたと誰が信じる。考えてからモノを言えッ」

 しっこく食い下がる小平太に、忠吉は、吐き捨てるるように突っぱねると、鍬を持って家から出て行った。

「お母ァ、何故だ。どうして忠吉は、俺たちを痛ぶる……」

 憎々しそうに、馬上の忠吉を見送りながら、藁布団に横たわっている母親に、忠吉が何故、何故、自分たち母子を苛めるのか問うた。

「憎んでいるんだよ。死んだ父ちゃんと私の事を……」

 桔梗は、ゆっくりと起き上がり、ポッリと言った。

「どうしてだ」

 忠吉が、母親と亡くなった父親を憎んでいる。

「昔、忠吉は、私に何度も言い寄って来ていたんだよ。でも私は、忠吉が嫌いで相手にしなかった。そして死んだ父ちゃんの佐助を選んだからだよ……」

 悔しい思いを飲み込んだまま話してくれた母親の言葉に、小平太は、何もかも得心した。

 忠吉が執拗に、小屋のような粗末な家と、僅かな米と粟や稗しか収穫できない畑を欲しがる訳が……。

 忠吉が屋敷に戻った頃には、夕陽もどっぷりと落ちていた。

「これを納屋へ放り込んでおけ」

 馬から降りると、忠吉は、出迎えに現れた小者に、馬の手綱と、小平太から奪い取った鍬を手渡した。

 忠吉の屋敷は、池田家の居城から離れた農村にあった。小平太が住む村の隣村だ。

 侍隊将の屋敷らしく、忠吉の屋敷は土塁と柵に守られていた。敷地内は、ニ棟続きの母屋と、小人用が住み込んでいる建屋。そして、銭と米を納めている蔵がニ棟。他に馬小屋と納屋があった。

「お帰りなさいませ」

 忠吉が玄関に入ると、奥の勝手口からニ十歳前後の女が現れた。

 忠吉の女房ではなく、比叡山の麓町の遊廓から買った、琴音という名の遊女だ。

「娘を連れて来ているか」

 忠吉は、琴音に言った。

「はい」

 琴音は頷いた。

「琴音、千沙を儂の部屋に連れて来い」

 忠吉は、琴音に言い渡すと、自分の居間へと入った。

「クククッ、佐助、儂の恨みを思い知ったか」

 忠吉は、込み上げて来る喜びを堪えきれず、低い笑い声を上げた。

 佐助と忠吉の生まれ故郷は、四国の阿波の山里であった。二人共、互いに三男坊と四男坊とあってか、幼い頃から共によく遊び、何するのも一緒だった。

 二人共、冷飯喰らいのまま、田舎に燻っていても先がないと理解していた。そんな折り、細川家の宿老三好之長が上洛すると耳にした二人は、田舎から抜け出す好機とばかりに、三好勢の雑兵として上洛に参加したのである。

 だが、その頃は、管領細川政元もまだ健在であり、幕府内の派閥争いが合ったものの、戦が起きる気配など全くなかった。

 そこで二人は、京都から離れて摂津の池田領に入り、互いに協力し合って、荒れ地を耕して畑を作り始めたのだった。

 そんな二人の前に、村娘の桔梗が現れた。佐助も忠吉も、一目で桔梗の美貌と朗らかな明るさに魅了されてしまい、二人の間に桔梗を巡っての溝が生まれたのである。

 佐助は、荒れ地の開墾作業の間に、桔梗に話し掛けたり、山柿や野苺などを手に入れると、桔梗に手渡しては喜ばせた。

 一方、忠吉も桔梗の気を引こうと、荒れ地を耕すの放棄しては、猪名川で川魚を釣ったり、山で兎や野鳥などを狩っては、桔梗にではなく、桔梗の父親に手渡しては取り入ろうとした。

 忠吉の風貌は、厳つい顔付きの佐助よりも、目鼻が整った見映えがする顔付きだった。だから桔梗は、必ず佐助よりも自分を選ぶと確信していた。

 そこで忠吉は、愛想よく桔梗を口説きながらも、桔梗の父親の気を引く事にも力を入れたのである。

 しかし、桔梗と父親が選んだのは、口達者で見映えの良い忠吉では無く、働き者の厳つい顔付きの佐助の方だった。

「何故じゃ」

 惚れた女にそっぽを向かれた。

 理解出来ない徹底的な敗北に、忠吉は、荒れ地を開墾するのを諦めて、そのまま村から抜け出すと、池田家に足軽雑兵として入り込んだのである。

 以来、忠吉とって、佐助と桔梗は憎しみの対象となった。佐助を妬むだけでなく、佐助と桔梗の死さえも、神仏に祈願するほどであった。

 池田家の雑兵になったのも、戦場で手柄を挙げてひとかどの武士に出世すれば、佐助と桔梗を見返せると考えたのだ。

 だが、世の中は、自分の思い通りにはいかなかった。

 雑兵の身分では、与えられる武器は五尺の棍棒一本だけであり、また雑兵でも、忠吉のような新入りのよそ者は、旗指物持ちか、荷台車を押す役目しか回って来なかった。

 しかも、いざ合戦となっても、戦う相手は雑兵ばかりで、兜首を狙うなど夢のまた夢であった。

「儂は蟻と同じじゃ」

 一生地面に這いつくばって生きるのは嫌だ。

「ならば……」

 池田家の雑兵になって二年が過ぎた頃、忠吉は考えを改めた。武士としての道が開けないのならば、盗賊となって銭を掴み盗るだけだ。

 侍隊将への夢に見切りを付けた忠吉の決断は早かった。

 陣触れで召集されて戦地へ赴くと、忠吉は、合戦には参加せず、敵味方の区別なく、十数人の無頼漢の雑兵たちと徒党を組み、合戦のどさくさに紛れて商家などなに押し込んでは、金品などを略奪したのであった。

 特に京都での合戦の折りには、忠吉たち盗賊にとって、荒稼ぎの場だった。京都には、公家屋敷だけではなく、豪商や土倉(金貸し)などが多く軒を並べて折り、市街戦の最中を利用して稼ぎ捲った。

 田舎の商家や民家に押し込むのと違って、奪い盗る銭の額も多ければ、略奪する品物も高価な壺や黄金造りの仏像、上等な着物から異国の置物と、豊富な略奪品に、奪い盗った金品を巡っての仲間割れの喧嘩もなかった。

 また、京都での荒稼ぎには、他に女漁りの楽しみもあった。京都の女は、田舎の女よりも器量が良い。特に公家や豪商の娘たちは、荒れ狂った盗賊たちにとって格好の獲物だった。

 むろん、忠吉がいる盗賊団の仲間たちも、銭や物を略奪するだけではなく、逆らう男たちは皆殺した上に、捕らえた女たちを凌辱して楽しんだ。

 だが、忠吉だけは、女の躰には見向きもせず、ひたすら黄金造りの飾り物や銭だけを掴み盗った。

「馬鹿な奴らじゃ」

 銭さえあれば、後から女はいくらでも抱ける。欲望を剥き出しにして、女たちを強姦している仲間たちを、忠吉は、鼻先で笑った。

 忠吉の目的は、この乱世に乗じて成り上がる事だ。そのためには手段は選ばない。

 こうした強い意志を持ったまま、合戦の度に盗賊を続けた結果、忠吉は、多額の隠し財産を貯め込む事が出来た。

 しかし、雑兵のままでは、下手に銭は使えない。大ぴらに振る舞えば、戦場での盗賊働きがばれてしまう。

「さて、弱ったもんじゃ」

 銭が貯まっても、使えなければ意味がない。

 堺へ行って商売でもやろうか、それとも他に良い考えがないものかと、日々悶々と過ごすしかなかった。

 そうした思案の最中、また合戦の陣触れが舞い込んで来た。

「また、稼ぐか」

 忠吉は、いつものように盗賊働きを考えた。

 ところが、今回の陣触れは、忠吉の運命を変える合戦となった。

 今まで何度も合戦に誘っても応じなかった佐助が、初めて忠吉の誘いに乗って、共に雑兵として合戦に参陣したのである。この佐助の参陣が、後に忠吉の運命を大きく好転させたのだ。

 それが、今から七年前の永正十七年五月、三好之長が細川高国に敗北した京都平等院の合戦だ。

 忠吉が、佐助を合戦に誘う目的は一ッ、合戦のどさくさに紛れて、佐助を殺すためだ。

 合戦は、宇治川を望む平等院の近くで火蓋が切られた。合戦の勝敗は、戦う前から決していた。高国勢五万に対して、三好勢は五千、これでは勝てる筈がない。

「佐助を殺ったのは儂ではないが、手柄だけは貰った」

 合戦は予想通り、合戦は一方的な高国勢の勝利で終った。だが、合戦の勝敗など、忠吉には関係なかった。

 合戦の最中、忠吉は、戦には参加せず、無頼漢の仲間たちと、市街戦のどさくさに紛れて、荒稼ぎを行っていた。

 それに対して佐助は、雑兵ながらも、五尺の樫の棍棒一本だけを武器に、敵の武者の首級を三ッも掻き取る活躍を見せたのである。

 しかし、いくら必死に戦っても、所詮、棍棒一本だけで戦う雑兵にしか過ぎない。佐助は、躰中に無数の斬り傷を受けて落命したのだった。

「それにしても、あの折り、運良く通り掛かったものよ」

 忠吉は、濁り酒をぐびりとあおると、宇治川の河原に転がっていた佐助の屍から、三ツの首級を奪い盗った日の事を思い出していた。

 その三ツの首級のお陰で、負け戦だったにも拘わらず、池田家の足軽頭となり、土倉の商売をも開けるようになったのである。

 そして、遊廓から若い娘を買い取ると妾として囲い、毎夜のように若い裸体を貪る事も出来るようにもなった。

「旦那様、連れて参りました」

 琴音が千沙を伴って、忠吉の部屋に現れた。

「琴音、お前はもうよい。下がっておれ」

 忠吉は、千沙だけを部屋に残して、琴音を下がらせた。

「千沙、今夜から儂の伽をいたせ」

 千沙の躰を舐め回すように、忠吉は、好色な笑いを浮かべた。

「……」

 千沙は、俯いたまま唇を噛んだ。

 忠吉から借金を繰り返した、両親を恨んだところで仕方がない。戦で田畑を踏み荒らされて、何一ツ収穫できなかったのだ。

 諦めるしかない。ただ、小平太と桔梗を虐め続けている、忠吉の妾になる事だけが口惜しかった。

「お前が儂の妾になった事は、何れ小平太の耳にも入るじゃろう。その時の小平太の悔しがる顔が眼に浮かぶわい」

 小平太と千沙が、互いに想い合っているのを知りながら、忠吉は、千沙を妾にしたのだ。


  3、

 伊丹家との戦が終結して、二ヶ月が過ぎた頃だ、河窪忠吉の屋敷に、主の池田信正の使者が訪れた。

「殿が明朝、浄善寺へ参拝なされると―」

 使者の口上は、領主の信正が浄善寺へ参内するから、供に参拝するようにとの指示だった。

 浄善寺は、池田家の菩提寺である。そこへ領主の信正が、先祖の墓参りに赴くのは当然の事だ。

 しかし何故、年が押し迫った今頃、何のために参内するのであろう。

 伊丹元扶との合戦は、領地の切り取りでは痛み分けに終ったが、戦果的には、敵兵の首級を多く掻き取った池田家が、優勢勝ちの形となった。

 むろん、三好勢の加勢が有って事だがー。

 この合戦で、池田家の名声は、再び摂津内に響き渡り、七年前の京都平等院の合戦で、討ち死にした父貞正の無念を雪いだのである。その報告を、つい先日、浄善寺へ赴いて墓前に伝えたばかりではないか。

 怪訝に思いながらも、忠吉は、使者に承諾したと伝えた。

 忠吉が命じられた役目は、領主と供に参拝する事と、浄善寺周囲の警固であった。

「信正様の気紛れにも弱ったものじゃ」

 予定外の急な役目だが、侍隊将になって、初めての大きな仕事だ。そう難しくない任務だが、失敗は許されない。油断は禁物だ。

「明朝、殿が浄善寺に参拝なされる。その警固を仰せ付かった。今から人数を整えておけくのじゃ」

 忠吉は、家来たちに配下の者を集めるようにと命じた。

「へい」

 家来たちは土倉(金貸し)の商売を遣り繰りする五人だけを残して、忠吉の部隊に配属されている者たちの許へと散って行った。

「これでよし」

 家来たちが走り去ると、忠吉は、食い損ねた昼飯を食べ直そうと居間へと戻った。

「また、合戦が始まるのでしょうか」

 忠吉が善の前に胡座を掻くと、家来たちが慌ただしく飛び出して行った事に不安を感じたのか、琴音と千沙が、心細ぜに顔を曇らせた。

「心配するな。合戦などではない。明朝、殿が浄善寺に参内されるから、その警固の準備じゃ」

 忠吉は、米と麦を混ぜた昼飯を口に掻き込んだ。

 その食い振りは、百人からの配下を持つ侍隊将に似つかわない品の悪さだった。

「……」

「……」

 琴音と千沙は、それを軽蔑の眼差し見ていた。

 こんな男に、毎夜抱かれていると思うと、二人は、ますます忠吉への嫌悪が込み上げて来るのだった。

 琴音は、幼い頃から遊廓で育った孤児だ。むろん、父母の想い出も無い。物心が付いた頃には、洗濯や掃除をする下女の手伝いをしていたが、年頃になると遊女として、遊廓の座敷に上がるようになり、そこで忠吉に見初められて身受けされたのだ。

 言わば、琴音にとって忠吉は、苦界から救い出して来れた恩人だが、盗賊働きで財を成した忠吉の正体を知ると、忠吉の顔を見るたびに虫酸が走るようになったのである。

 千沙にしても、借金の形として無理矢理、忠吉の妾にされたのだ。

 忠吉は、小平太の父親の佐助と同じ流れ者として村に住み着いたと、千沙は、家族からも村人からも聞かされていた。その忠吉が、領主の池田家の家来となり、村から去ったのが、千沙が幼かった頃である。

 働き者の佐助と違って、忠吉は、金や物になどに貪欲までにも汚く、人を騙して利用する事など涼しい顔でやってのけたり、他人の女房や村の娘たちに平気で悪さをする、村の鼻摘み者だったと言う。

 哀しいが、千沙は、そうしたゲス男の妾なのだ。

 この屋敷に連れ込まれて以来、千沙にとって、毎日が地獄の日々の繰り返しだ。琴音と二人、毎夜のように臭い息を吐く忠吉に凌辱されているのだ。

 また、琴音と千沙には、屋敷内に心を落ち着ける場所が無かった。忠吉に命じられているのであろう、使用人の老婆が、いつも二人を監視していたからだ。

 忠吉は、例え家来であろうとも、琴音と千沙が他の男と親しくするのを嫌う、嫉妬深い男なのだ。

 そうした忠吉の嫉妬深さを知りながらも、家来の中には、好色的な眼で、二人を見る者も少なくは無かった。

「おい、何しとるんじゃ。小平太の事でも考えているのか」

 上の空で、何事かを考えている千沙に、忠吉は、意味の無い嫉妬を剥き出しにした。

「いえ、弟の事を考えていたのです」

 忠吉の馬鹿らしい追求に、千沙は、咄嗟に嘘を付いて交わした。

「弟じゃと」

 忠吉は、疑いの眼差しで、千沙の顔を覗き込んだ。

 確かに、千沙には、十二歳になったばかりの弟がいる。

「まあ、よいわ」

 眼を逸らさない千沙の態度に納得したのか、忠吉は、根拠の無い嫉妬を収めた。

 そして、飯を食べ終った茶碗に、白湯を注ぎ込むと、それを一気に飲み干して立ち上がった。

 住居の母屋と繋がっている、もう一棟の建屋へと赴いたのだ。そこは、忠吉が土倉の商いを行っている店先であり、常に五人の手代が詰めていた。

「小平太さんは、今頃何処に……」

 忠吉が去ると、千沙は、小平太の身を案じた。

 土倉の商いを切り盛りしている手代から、二ヶ月程前に、借金の形として、桔梗と小平太の家を忠吉が奪い盗ったと聞かされていたのだ。

 千沙が小平太を心配するのは、家が近所だった事もあって、二人は幼い頃からよく遊んだ仲だった。また、千沙の両親と小平太の母桔梗とは仲が良く、いつも畑仕事を助け合っていたほどだ。

 だが、どうして忠吉は、小平太の父親と従兄弟同士なのに、こうまでにも桔梗と小平太を虐め抜くのだろうか、欲のためだけではなさそうだ。

 いくら考えて見ても、千沙には、その訳が解らなかった。

 千沙は、力なく溜め息を付くと、琴音と二人で、忠吉が食べ終った善を片付けた。

 それにしても、忠吉の食事は贅沢だ。

 戦の度に、田畑を荒らされる農民たちの生活は、貧困に喘ぐしかなかった。それでも秋の刈り入れが終わると、農民たちが苦労して収穫した米や野菜などは、領主に年貢として容赦なく徴収されるのだ。

 そのため農民たちが口にするのは、米の代わりに粟や稗などを主食とし、それもごく少量で、一日、朝夕の二食だけだった。他には木の実、山菜、茸、タケノコなどを湯がいた物しか食えなかった。

 当然、味噌や塩などの味付けなどない。

 ただ、半武半農の郷士たちは、正月や祭りのさいには米と麦を混ぜた飯が食えた。

 また、普段の食事にしても、粟や稗ばかりではなく、麦を混ぜた粟飯や稗飯を主食とし、川魚や野菜を加えた芋粥なども食膳に並べる事が出来たのである。

 米や麦を食べられない極貧の農民たちにして見れば、武士や郷士たちの生活は、まさに贅沢そのものもであった。

 こうした貧困苦から抜け出そうと、農民たちの中には、合戦が終った戦場から、屍から甲冑や太刀を剥ぎ盗る者、盗賊に変貌して商家や民家に押し込む者もいれば、戦に参加して、一旗上げて武士になるのを夢見る者から、土地を捨てて他国へ逃げる者も少なくはなかった。

 考えて見れば、忠吉もその一人であり、数少ない成功者なのかもしれない。

 村を捨てて、池田家の雑兵となり、証拠は無いが、人の手柄を横取りして、今では池田家の侍隊将までにも出世している。また、噂では合戦には参加せずに、盗賊働きで財を成しては、その時の稼ぎで土倉商人としても成功を納めていた。

 こうした成功の結果、昔の貧困苦だった頃の反動もあってか、忠吉の毎日の食事は、呆れ返るほど贅沢だった。朝昼晩と、毎食が米と麦を混ぜた飯で、惣菜にしても、野菜に魚貝類をふんだんに加えた味噌汁、川魚も食膳に欠かした事がない。また、昼間から濁り酒を添える日も多かった。

 しかも、琴音や千沙のような、若い娘二人を妾として囲っている。まさに忠吉の生活振りは、領主の池田信正と変わらぬものだった。

 忠吉にとって今が、絶頂期の春なのかもしれない。

 夕刻、騒がしかった一日も終わろうとしていた。明朝の浄善寺警固の手配りも整っている。

「さあ、日も落ちた事じゃ、客も来ないであろう」

 日も暮れれば、客足も途絶える。昼間でも油断をしていれば、野盗に襲われる世の中だ。夜になって、銭や小粒銀を借りに来る馬鹿はいない。

 それに、明日の浄善寺の警固も控えている。今夜は早く眠って、明日の役目に備えなければならない。忠吉は、手代たちに閉店を命じた。

「へい」

 手代たちは、銭や小粒銀が納めた銭箱を片付けたり、戸口に閂などをして戸締まりを始めた。

 手代と言っても、いざ合戦となれば、槍を握って戦場に赴く忠吉の家来だ。多くの修羅場を走り抜けて来た、荒くれ者たちである。

 むろん、この連中も、合戦のどさくさに紛れて、商家や民家に押し込む盗賊に変貌する無頼漢だ。つまり、忠吉が悪党ならば、その家来たちも、残酷非道を物としない同じ穴の狢と言うやつだ。

 こうした連中が、金貸しの商いを生業にしているのだ。まともに商売いをやる筈がない。忠吉の遣り方は、道理に合わない卑劣な商いだった。

 借り入れした時の利子は、他の土倉よりも安いが、少しでも返済が損なわれば、利子は一気に十倍にも膨れ上がり、忠吉たちの容赦の無い取り立てに、家や土地を失うばかりではなく、娘を遊廓に売る者さえも数多くいた。

 但し、池田家の家臣たちには、返済が多少遅れても、無茶な取り立ては行わなかった。むろん、利子も膨れ上がる事もなかった。

 また時には、多額の銭を借り入れした客を、その帰り道に襲って銭を奪う事もした。

 忠吉たちが、店内の片付けが終った頃、馬上姿の一人の武士が、忠吉の屋敷の門前に立ち止まった。


 4、

 納屋の隙間から吹き付ける冷たい風で、小平太は、藁の中から起き上がった。冷えるが、藁の中は温かく、身震いするほどの寒さではない。

 二ヶ月程前、小平太の家と田畑は、忠吉に借金の形として取られしまい、今は、千沙の家の納屋に仮住まいしていた。

 住む家と田畑を失った小平太親子を哀れと思い、千沙の両親が納屋を宛がってくれたのだ。その折り、母親の桔梗は、忠吉に全てを奪われた事に気力を失ったのか、千沙の家の納屋に住み着いて十日もしないうちに、病状が悪化して亡くなったのである。

 その時、千沙の両親から、千沙が借金のために、忠吉の妾になったと聞かされたのだ。

「この世に、神も仏も居ない」

 母親の死と、千沙を忠吉に奪われた事が、小平太を絶望へと陥れた。

 千沙とは幼馴染みだが、それ以上に、二人は互いに愛しく想い合っていた。いずれは夫婦となり、共に暮らすのが二人の望みだった。

 その夢を、忠吉の理不尽な恨みと欲望によって撃ち砕けられて、二人は引き離されたのである。

 忠吉に復讐したいが、小平太には、その力も能力もないのが現実だ。

 また、赤間権六の屍から盗み取った、野太刀と槍の穂先も、家を取られる前に、借金を返すために売ろうとしたが、知らぬ間に盗まれていて、今は手許には無い。

 今は、千沙の両親の田畑を耕すのを手伝いながら、無気力に暮らすだけだった。

 小平太が藁の中から抜け出ると、千沙の弟の甚助が納屋の中に駆け込んで来た。

「兄ちゃん、お侍だよ。お侍が兄ちゃんに会いに来てるよ」

 納屋に入るなり、甚助は、興奮した声で叫んだ。

「侍が」

 忠吉か。

 また戦に駆り出されるのか。小平太の胸に、不安が過った。

「河窪忠吉が来たのか」

 小平太は、不安を押し隠して甚助に聞いた。

「違うよ。大きな躰をしたお侍だよ」

 甚助の口振りからだと、やって来たのは忠吉では無さそうだ。

 では誰なのか。

 小平太は、納屋の外へと出た。

「あッ」

 小平太は、思わず息を飲んだ。

 母屋の戸口の側に、馬上姿の大柄な武者がいた。その戸口の前で、千沙の両親がおどおどした姿を見せていた。

「お前が小平太か」

 武者は、馬上から小平太を見据えた。

「は、はい」

 武者の顔に、小平太の足は竦み上がった。

 武者は、池田家の部将の一人、児島勘兵衛であった。

 勘兵衛は、〝槍の勘兵衛〟の異名を持っ槍の名手で、敵から恐れられている豪傑である。

「お前に聞きたい事がある」

「……」

 池田家の重臣が、家も田畑も無い貧乏人に何を聞きたいのか。

「小平太、おぬし、先の合戦で〝赤鬼ノ権六〟と渡り合ったであろう」

 馬から降りると、勘兵衛は、赤間権六との死闘を訪ねてきた。

「はい……」

 不安と戸惑いが混雑する中、小平太は頷いた。

 斬り合いをしたと言っても、赤間権六に一方的に攻め込まれ、小平太は、野太刀を振り回して防戦するしかなかった。もし、あの時に流れ矢が飛んで来なければ、小平太は、間違いなく死んでいたであろう。

「そうか」

 勘兵衛は、ニヤリと口許を緩めた。

「着いて参れ」

 有無も言わせない口振りで、小平太に命令すると、勘兵衛は、再び馬上に跨がった。

「はい……」

 逆らう訳にはいかない、小平太は、馬の轡を握らされた。

 その後ろ姿を、千沙の両親と弟の甚助が心配そうに見守ったっていた。

「朝飯じゃ」

 勘兵衛は、懐から笹に包まれた握り飯を取り出すと、小平太に与えた。

「あッ」

 小平太は驚いた。

 笹を開くと、米と麦の握り飯が二ッあった。

「食え、遠慮はいらぬ」

 驚きと戸惑いの眼で、自分を見上げる小平太に、勘兵衛は、眼を細めて促した。


 小平太が連れて行かれたのは、浄土真宗派の浄善寺だった。山門には、十数頭の馬が繋がれており、五六人の武者が山門を警固していた。

「何が……」

 摂津の豪族の多くが浄土真宗に帰依しており、勘兵衛が浄善寺を訪れても不思議ではない。

 だが、物々しい警固の様子に、訳が判らぬまま連れて来られた小平太は、戸惑いの色を隠さなかった。しかも、浄善寺に来る道すがら、何故か米と麦の握り飯を二ッも与えてくれたのだ。

「参るぞ」

 馬から降りると、勘兵衛は、小平太を伴って浄善寺の山門を潜った。

「あッ」

 勘兵衛に従って境内に入ると、小平太は、驚きの余り息を飲んだ。

 何と領主の池田信正が、床几に腰を降ろしていたのだ。しかもその側には、重臣たちと一緒に、河窪忠吉の姿もあった。

 忠吉もいる―、

 何故、自分が此処に連れて来られたのか。考える間もなく、小平太は、勘兵衛に促されて領主の前に控えた。

「殿、この者が赤間権六を討ち取った小平太にございます」

 勘兵衛の口から、驚く言葉が出ると、境内の中は騒めいた。

「なんじゃとッ」

 領主の信正は、驚きと同時に、疑心の眼を忠吉に向けた。

「まことか、勘兵衛ッ」

 宿老の荒木正村が、顔を赤らめて、勘兵衛に問い質した。

 忠吉は、正村配下の侍隊将である。手柄を横取りしていた事が事実なら、寄り親としての正村の面目は丸潰れとなる。

「まことにございまする。借金の肩代わりに、忠吉が強引にこの者から奪い取ったのです」

 勘兵衛は、軽蔑の眼で、忠吉を睨み据えた。

「児島様、何を根拠に申されます。赤間権六の首級は、儂が組み合って掻き取ったモノです」

 狼狽した様子で、忠吉は、誤解だと言わんばかりに、勘兵衛に食い下がった。

「ならば、これはどう説明いたす。おぬしの家来が、小平太の家から盗み取った、赤間権六の野太刀と槍じゃ」

 勘兵衛の家来が、野太刀と槍を勘兵衛に手渡した。

「それは……」

 家来の一人が、小平太から野太刀と槍の穂先を盗み取った事は知っていた。それが何故、勘兵衛の手元にあるのか。

「ほう、赤鬼ノ権六の野太刀か」

 赤間権六の愛用の野太刀と聞いて、信正が興味を示した。

「はい、この野太刀が、赤間権六が愛用しておりました〝不動鬼切り〟にございまする」

 小姓の手を通じて、野太刀が勘兵衛から信正に手渡された。

「なるほど、重いのう。さすがは〝赤鬼ノ権六〟が愛用の野太刀じゃ。刃も鋭い」

 信正は、鞘から野太刀を抜いた。

「如何にも、その野太刀を己れの思いのまま扱えるのは、赤間権六と互角に渡り合える豪の者しかおりませぬ」

 〝不動鬼切り〟の素晴らしさに魅了されている信正に、〝不動鬼切り〟は、誰でも扱える野太刀ではないと付け加えた。

「儂もそう思う」

 勘兵衛の説明に、信正は同調した。

「ならば、赤間権六を討ち取った者も、それなりの豪の者の筈ー」

 信正から野太刀を受け取ると、勘兵衛の眼が小平太に向けられた。

「小平太、儂と立ち合うのじゃ」

 勘兵衛は、野太刀を小平太に差し出した。

「は、はい…」

 訳が解らぬまま野太刀を受け取ると、小平太は、成り行きに任せて、野太刀を勘兵衛に向けて構えた。

「参れ」

 勘兵衛も、赤間権六が愛用していた槍を、小平太に向けて構えた。

「ヤァーッ」

 気合いと共に、小平太は、勘兵衛に挑み掛かった。

「よい、手応えじゃ」

 一振り二振りと、小平太が斬り込むと、勘兵衛は、槍を巧みに使っては、野太刀の刃を交わして見せた。

「もう良いであろう」

 五十回程打ち合ったであろうか、勘兵衛が槍を納めた。

「はい」

 肩で息を吐きながらも、小平太は、野太刀を鞘に納めた。

「河窪忠吉。次はおぬしの番じゃ。赤間権六を討ち取ったのが本当ならば、その腕前を、この〝不動鬼切り〟にて見せてはくれぬか」

 勘兵衛の眼が、忠吉に向けられた。

「承知しました」

 領主の前であり、寄り親の荒木正村も居る。断って浄善寺から逃げる訳にはいかない。

 背中に冷や汗を感じながらも、忠吉は、勘兵衛から野太刀を受け取った。

 重い……、

 初めて握る〝不動鬼切り〟の重さに、危うく躰のバランスを崩しかけた。

「参れ」

 勘兵衛が槍を構えた。

「トウーッ」

 気合いを入れて、忠吉は、勘兵衛に斬り込んだ。

「それ、どうした。気合いだけで、腰に一っ力が入っとらんぞ」

 勘兵衛は、鼻先で笑いながら、忠吉の振り上げる野太刀の切っ先を、槍の柄で軽く弾いた。

 誰が見ても、小平太と忠吉の腕の差は歴然としていた。

 幾人もの冷たい視線が、忠吉に注がれた。忠吉は今、自分がただらならぬ状況に追い込まれているのを、嫌でも感じずにはいられなかった。

 浄善寺の警固だけの筈だったのに、思わぬ成り行きに。忠吉は、息が乱れ、汗が吹き出した。

「もうよい」

 二十回程立ち合ったであろうか、忠吉の動きが乱れと、勘兵衛は、槍の穂先を下に向けた。

「はっ……」

 忠吉は、大きく肩で息を吐きながら、野太刀を勘兵衛に返した。

 その際、勘兵衛の家来の側で控えている小平太を睨んだ。

「殿、御覧頂いて、お判りになられた筈です。拙者と立ち合った二人のどちらが、赤間権六を討ち取ったのか、答えは明白にございまする」

 野太刀と槍を、己れの家来に渡すと、勘兵衛は、小平太と忠吉に眼をやり、信正に二人の腕の違いを進言した。

「また小平太は、病の母親の薬代を得るために、この河窪忠吉から幾許かの銭を借金しておりました」

 何時調べたのか、小平太が忠吉に借金していた事をも付け加えた。

「河窪ッ。この者の手柄を横取りしたのかッ」

 勘兵衛の話に、宿老の正村が眉間に皺を寄せた。

 領主の信正も、憤激した顔を忠吉に向けていた。

「い、いえ。〝赤鬼ノ権六〟の首級は、儂が組み合って討ち取ったモノにございます……」

 正村の追求に、忠吉は、言葉を震わせた。

「戯けがッ。此の期に及んで、まだそのような嘘を申すか。己れのような小心者に、赤間権六ほどの豪の者が討てると思うてかッ」

 忠吉の嘘を見抜いている勘兵衛の一喝が、境内に響いた。

「ヒーッ。御許しをー」

 勘兵衛の一喝に、忠吉は、その場にひれ伏した。


 5、

 小平太が池田信正の家来となって、三年が過ぎた。

 今は三ヵ村を預かる小豪族として、池田家の侍隊将に出世していた。小平太が所領とされた村々は、以前、河窪忠吉が領地だった場所であった。

 また、小平太は名を、松永平太久秀と改めて、児島勘兵衛の配下として伊丹領と接する原田砦にいた。

 原田砦は、小高い丘に築かれた空堀に土塁と柵を巡らしただけの砦だが、池田領を守る最前線の要所の一ッだ。むろん、この砦の城将は勘兵衛であり。この一帯の村々も、勘兵衛が支配する領地でもある。

 池田家の重臣だが、勘兵衛もまた、摂津の小豪族の一人なのだ。

「あれから三年か……」

 砦の物見櫓から、村の家々から昇る炊煙と、田畑の仕事に勤しむ農民たちの姿をのんびりと眺めながら、久秀は、腰の野太刀に手をやった。

 〝不動鬼切り〟である。

 人の運命など解らぬものだ。

 ほんの三年前まで、久秀は、借金に苦しむ貧困農民だった。それが今では、池田家から所領を預かる武士となっていた。

 まさに夢のようだ。

 これも勘兵衛が、領主の池田信正の面前で、忠吉が久秀の手柄を横取りした事を、巧みに暴いてくれたからだ。

 そのおかげで、久秀は、池田家の家臣となり、この〝不動鬼切り〟をも与えられたのだ。

 松永の姓を名乗ったのは、亡くなった父親の佐助が、四国の阿波ノ国の松永庄という山村の出身者だったからだ。名も小平太を改めて平太と改名したのは、極貧時代の名前を捨てて、武士として新た生まれ変わるためだ。

 そして、字を久秀と与えてくれたのは勘兵衛だった。久は、勘兵衛の字の正久の一字と、秀は、秀でた武士になるようにとの意味らしい。

 また、この三年間、久秀は、浄善寺の僧侶から読み書きを教わり、孫子、六韜、呉子、司馬法、三略などの兵法書も何度も読み返しては、それなりに学んだつもりだ。

 一方、出世と銭に貪欲だった忠吉は、領主の信正から謹慎を命じられたその夜に、金目の家財道具を荷車に積み込み、池田領から出没していた。

 以後、忠吉の消息は不明となった。

 盗賊に襲われて殺されたのか。それとも、まだ何処かで図太く生きているのか。

 忠吉の生死を考えたところで、今の久秀には関係ない事だが、千沙の消息だけは知りたかった。

 また、この三年間で世上も大きく変動していた。

 将軍足利義晴を担ぐ細川高国一派と、将軍義晴の実弟の足利義維を擁立して、和泉の堺港に本拠を置いた細川晴元と三好元長の四国勢。そして、柳本賢治が率いる丹波衆ー。

 機内は、この三ッの勢力が離合集散を繰り返しながら鼎立を保っていた。

 ところが、今年の享禄三年(一五三0)二月末、主君の細川晴元と仲違いをした三好元長が、己れの軍勢を率いて四国の阿波に戻ってしまった。この主従の対立は、劣勢に追い込まれ、伊勢の北畠晴具や越前の朝倉孝景、出雲の尼子経久などを頼って、各地を転々と流浪していた義晴と高国に勢力挽回の機会を与えた。

 晴元と元長の不和の報告を受けたた時、義晴と高国は、備前の浦上村宗の許に身を寄せていた。高国は、元長が阿波に戻ると、すぐさま将軍義晴の名で軍勢を糾合しては、播磨に出陣していた柳本賢治が率いる丹波衆に迫り、賢治に不満を持っ丹波衆の豪族の一人、中村助三朗に調略を使って唆し、賢治に対して叛旗を翻させて討たせたのである。

 その結果、首領格の賢治を失って戦意が萎えた丹波衆は、いとも簡単に離散してしまい、蜘蛛の子を散らすように丹波へと遁走してしまったのだ。

 こうして丹波衆を敗走させて、息を吹き返した義晴と高国は、京都に戻り、勢力を盛り返す事に成功したのである。

 むろん、この摂津に置いても、高国一派の豪族たちが再び頭を持ち上げ始めた。中には、昨日まで晴元の陣営だった者が、今日には高国の陣営に寝返る者も少なくはなかった。

 好条件の誘いで調略され、損得だけで昨日までの主を裏切っては、敵方の大名に乗り替えるのである。こうした武将の引き抜きは、戦国乱世を生き抜くため、どの大名も日常茶飯事に行っていた。

 現にその不埒な空気は、この池田領にも漂っていた。特に、池田家随一の豪傑とあってか、敵方の伊丹元扶の使者が、時折夜中に、勘兵衛の屋敷にも訪れていた。

「さて、勘兵衛様はどうなされるのであろうか」

 久秀は考えた。

 果して勘兵衛は、池田信正を身限って伊丹元扶の許へ走るのであろうかとー。

 もし勘兵衛が、信正に対して忠義を貫くならば、決して敵方の使者に会わない筈だ。伊丹側が提示する条件に心が動いたからこそ、危険だと承知しながらも、時折夜中に訪れて来る使者と会うのだ。

 久秀にも、そのぐらいの事はわかる。

 勘兵衛が池田家を離れようと心を動かす要因の一ッに、池田家の宿老の荒木正村との折り合いの悪さがあった。

 正村は、丹波の豪族の波多野一族と縁戚関係であり、日頃からその関係を口に出しては己れを誇示していた。特に丹波衆が京都を抑えていた頃には、池田家の宿老でありながら、領主の信正を蔑ろにする事さえもあった。

 日頃から、正村を嫌っていた勘兵衛とっても、池田家内での正村の台頭は、虫酸が走るほど堪らなかった。

「丹波衆が崩壊した今、暫くは管領殿の天下が続くであろう」

 三好元長が堺港に戻らない限り、細川晴元には、高国を倒せないからだ。

 だがもし、勘兵衛が池田家から離れて伊丹家に移れば、久秀もまた、己れの身の振り方を考えなければならない。

 今、こうして久秀がひとかどの武士で居られるのも、勘兵衛が見出だしてくれたからだ。その恩義を思えば、自分も勘兵衛に従って、伊丹家の筋道なのかも知れない。

「だが、それでいいのか」

 勘兵衛のためならば、何処までも従う気持ちに迷いは無いが、親父の佐助を討った高国方の武将の家来になるのには躊躇いがある。

「弱ったものじゃ」

 まだ勘兵衛が、伊丹家に移ると決まって無いのに、久秀は頭を悩ませた。

「松永殿、勘兵衛様がお呼です」

 物見櫓の下から、勘兵衛の家来の声がした。

「勘兵衛様が、今、参る」

 久秀は、二人の足軽の間を擦り抜けて物見櫓から降りた。

 久秀を呼びに来たのは、勘兵衛のお気に入りの、鹿真小次郎と言う名の若者だ。三年前、浄善寺でも勘兵衛の影ように側にいた家来である。

 小次郎と二人で、原田砦の大手門を潜ると、田園の中に柵に守られた勘兵衛の屋敷が見えた。

「はて、何用であろう」

 池田家に残るのか、それとも伊丹家に移るのか、勘兵衛は、決断したのであろうか。

 久秀は、屋敷へ急ぎながらも、勘兵衛の腹の中を思案した。

 だが、いくら勘兵衛の考えを思案したところで、勘兵衛が決めた事には従わなければならない。勘兵衛が伊丹家に移ると言えば、それに逆らう訳にはいかないのだ。

 その訳は、三年前の秋、浄善寺の境内で領主の信正がみまもる中、勘兵衛が鮮やかな手並みで、久秀の手柄を横取りした忠吉の横暴を暴いてくれた。そのおかげで久秀は、赤間権六を討ち取った猛者として、池田家に使える事が出来たからだ。

 久秀にとって、極貧農民から武士になれたのは、夢のようであり、大きな飛躍だった。だが、久秀自身が納得できる出世ではなかった。

 赤間権六に組み伏せられて、危うく討たれそうになった時、偶然にも、戦場からの流れ矢が権六の襟首を射抜いたのだった。だから忠吉に手柄を横取りされたとは言え、久秀が権六を討ち取ったものではないから、それが心に引っ掛かり、素直に喜べなかった。

 そこで久秀は、勘兵衛に正直に全てを話して、これからの身の振り方を問うたのである。当然、元の農民に戻る覚悟もしていた。

 ところが勘兵衛は、思わぬ言葉を口にした。

 赤間権六は、戦場の流れ矢で不運な最期を遂げたのではなく、勘兵衛が放った矢で死んだのだと。

 当然、久秀は驚いた。自分が討ち取った兜首を、何故、手柄として自ら首級を掻き取らずに、見す見す忠吉に掻き取らしたのか。しかも、その後、忠吉の手柄が嘘だと領主の前で暴いた上に、赤間権六を討ち取ったのは久秀だと、どうして手柄を久秀に譲ったのか。

 久秀は、勘兵衛の真意が飲み込めなかった。そこで自分を納得させるためにも、勘兵衛に手柄を譲ってくれた訳を訊いたのだ。

「考えても見よ。儂は敵から〝槍ノ勘兵衛〟と怖れられておる。その儂が弓矢を持って〝赤鬼ノ権六〟を討ったとなれば手柄にならぬ上、儂の名にも傷が付く。それに例え組み合って、権六の首級を掻き取ったところで、豪傑が豪傑を討ち取ったのじゃ。武名が上がっても大した手柄にはならぬ。そこで、権六と組み合っていたおぬしに、手柄を譲ろうと考えたのじゃ」

 久秀の質問に、勘兵衛は、笑って答えたて、久秀が神社の境内で権六に追い詰められながらも、野太刀を捨てて逃げ出さずに、最後まで闘い続けようとした姿が、昔の自分の面影を見たとも付け加えた。

 だからこそ勘兵衛は、久秀に手柄を譲ろうと考えたのだと、ところがその手柄を、忠吉が横取りしてしまった。

「儂はそれが許せなかった。日頃、銭にモノを言わせて多くの人々を泣かせている奴が、今度は戦場で他の者の手柄を横取りして出世した。虫の好かぬ遣り方じゃ。そこで儂は、殿の御前にて、河窪の悪行を暴き、将来のおぬしに期待して、殿に推挙して池田家に迎えたのじゃ」

 勘兵衛の話しに、久秀は、心を熱くさせた。今の乱世に、他人を思いやる武者がいたとは、以来、久秀は、勘兵衛を慕い、自分を武士にしてくれた恩義に報いるためにも、この三年間、兵法書を含む多くの書物を読み漁り、また刀槍や弓矢などの武芸にも励んだ。

 その努力の甲斐もあってか、今の久秀は、多くの知識を身に付けた上に、小柄だがその体躯はガッチリとしたモノになっていた。

 気付くと、さっきまで一緒に歩いていた小次郎の姿が見えない。

「おや」

 原田砦に戻ったのであろうか、怪訝に思いながらも、久秀は、それほど気にも止めず、勘兵衛の屋敷内に入った。

「あッ」

 屋敷の侍女に案内されて、勘兵衛の居間に入ると、久秀は驚いた。

 途中で姿が消えた鹿真小次郎が、勘兵衛の脇に控えていたのだ。

「どうした。小次郎の姿に驚いたか」

 勘兵衛は、愉快そうに口許を緩めた。

「小次郎は忍びじゃ。儂の眼であり、耳でもある」

「忍びの者」

 勘兵衛の話に、久秀は、改めて小次郎に眼をやった。

 小次郎は、無表情のまま俯いて控えているだけだった。

「ところで、御用と承りましたが」

 勘兵衛の前に控えると、久秀は、勘兵衛の表情を伺った。

 何を考えているのか、やはり池田家を見限り伊丹家に移るのか。

「うむ、明朝、堺へ参る。供をいたせ」

「和泉の堺港にございますか」

 池田家から離反の話ではなく、勘兵衛の用件とは、泉州堺への旅への同行だった。

「そうじゃ。夜明けと共に出立ついたすゆえ、旅仕度をしておけ」

「はっ」

 堺港への同行を久秀に命じると、勘兵衛は、襖を開けて居間の奥へと消えた。


 勘兵衛に従って、和泉の堺港に同行したのは、久秀と小次郎。そして久秀の義弟の松永長頼の三人だけであった。

 長頼は、千沙の弟の甚助である。三年前はまだ子供であったが、今は義弟として久秀の良き片腕となっていた。

 また、その体躯は十五歳の少年とは思えぬほど大柄で、勘兵衛にも劣らぬほどであった。

 一行が堺港に到着したのは、二日目の夕刻だった。

「これが堺の町かー」

 初めて訪れた堺港の賑わいに、久秀は、これが乱世に翻弄されている、同じ日本の中かと度肝を抜かれた。

 堺港は、表向きは足利将軍家の支配地だが、実際にはどの大名の庇護も受けておらず、如何なる大名の干渉も許さない独立した自由都市であった。

 その独立を守るために、堺港には独自の軍事力が組織されており、都市の周囲には、外敵を寄せ付けない頑丈な柵と深い堀に守られていた。

 また都市の内部は、数十軒の豪商の家並みを中心に繁栄と活気に溢れていた。

 軒先を繁れる商家の店先には、米、野菜、魚、酒、油、白粉、着物、瀬戸物、太刀などの売り物が豊富に並べられており、道行く人々も明るく、子供たちも道端で自由に遊びはしゃいでいた。

 京都や畿内では見られない平和な光景だ。

 また、埠頭に眼をやれば、見たこともない大きな船が何十艘も錨を沈めては、多くの人夫たちが船から荷を降ろしていた。

 特に驚かされたのは、まるで砦のような巨大な異国船と、赤鬼青鬼と思える南蛮人の姿であった。

「勘兵衛様は、何処へ行かれるつもりなのであろう」

 人目を避けての、四人だけの隠密行動だ。池田家の者に知られては不味い場所へ赴くのだろうか。

 今、堺の町には、細川晴元が足利義維を奉じて、堺顕本寺を本拠に堺幕府を唱えては、京都の幕府と対峙している。

 晴元の宿老の三好元長は、晴元との意見の対立から、現在は四国の阿波に帰参しており、代わりに晴元の側には、元長の従兄弟の三好政長と畠山義宣の宿老の木沢長政の二人がいて、堺幕府を支えていた。

 池田信正は、この細川晴元に属しており、勘兵衛を仕切りに誘引している伊丹元扶は、細川高国に属していた。もし勘兵衛が、元扶の家来になろうとするならば、堺はまさに敵地であった。

 果たして勘兵衛は、何の目的があって堺へ来たのか。久秀には、勘兵衛の考えが解らなかった。

「着いた。この店じゃ」

 勘兵衛が足を止めたのは、埠頭から少し離れた、『銭屋』と書かれた看板を掲げた土倉(金貸し)の商家の店先であった。

「二人はこの場で待て」

 勘兵衛は、長瀬と小次郎を店先に残して、久秀だけを従えて店の中へと入った。

 奉公人なのだろうか、一癖も二癖もありそうな男たちが数人いた。

「主はおるか」

 勘兵衛が、奉公人たちに、主人の在宅の有無を問うた

 。

 店内の棚には、金貸しらしく、十数個の銭箱が並べて置かれていた。

「これは鹿島様、お久しゅうございます。どうぞ奥へ、主人がお待ち申し上げております」

 勘兵衛の声に、店の奥から番頭らしい男が現れて、丁重な物腰で勘兵衛に頭を下げると、勘兵衛と久秀を店の奥へと案内した。

 二人は、中庭が望める渡り廊下を進み、客間らしい部屋に案内された。

 通された部屋には誰も居なく、部屋の広さは八畳程で、床の間に七福神の掛け軸と、木彫りの大黒天の置物があるだけの殺風景なものだった。

「暫くお待ち下さい」

 二人を残して、番頭は、屋敷の奥へと消えた。

「久秀、おぬしも膝を崩して楽にいたせ」

 番頭が立ち去ると、勘兵衛は、まるで自分の屋敷のように振舞い、上座へと腰を降ろした。

「勘兵衛様と銭屋の主人とは、どのような関係なのだろうか」

 番頭の口振りと、勘兵衛の態度から、どうやら勘兵衛は、金貸しの主人とは長い付き合いのようだ。

「失礼します」

 襖が開き、女中が茶を運んで来た。

「千沙、千沙ではないかッ」

 思わぬ再会に、久秀は驚かされた。

「小平太さん……」

 千沙もまた、久秀との再会に驚きの色を見せたが、その表情には戸惑いがあった。

「顔見知りか」

 二人の様子に、勘兵衛は、口許を緩めては久秀に眼をやった。

「はい、同じ村に住んでおりました幼馴染みにございます」

「さようであったか」

 久秀の話しに、勘兵衛は頷いた。

「だが千沙、どうしてそなたが堺にー」

 千沙が忠吉の妾になったと、千沙の両親から聞かされた時には、神仏を呪い、全てに絶望した久秀だったが、忠吉が失脚失踪したさいには、狂喜した反面、千沙の消息と身をずっと案じていた。

 その千沙が、今、久秀の目の前にいるのだ。

「……」

 久秀の問いに、千沙は、顔を強張らせて俯いた。

 そこへ、部屋の襖が開き、銭屋の主人が現れた。

「どうも、お待たせいたしました」

 銭屋の主人は、ニヤけた笑いを見せながら、二人の客に顔を見せた。

「うッ。お前はッ」

 見覚えのある忘れられない顔に、久秀は驚愕した。

「小平太、いや松永久秀殿。三年振りじゃのう」

 驚いている久秀に、忠吉は、不敵に口許を緩めた。

「勘兵衛様、これはいったいー」

 死んでいたと思っていた忠吉が生きていた。久秀は、平然と茶を飲んでいる勘兵衛に眼をやった。

「久秀、騒ぐではない」

 動揺している久秀を、勘兵衛は静かに制した。

「驚いたであろう。儂が堺で商人になっている事に、これも勘兵衛様のお計らいの御陰じゃ」

 忠吉は、勘兵衛に軽く頭を下げてから、三年前、勘兵衛の手引きによって、無事に池田領から逃げ出せたと久秀に話した。

「勘兵衛様が忠吉を助けた…」

 忠吉の悪どい手柄の横取りを、領主の前で暴いて、忠吉を追い詰めたのは勘兵衛ではないか。

 久秀には、訳の解らぬ事だらけだ。

「ところで久秀殿、久し振りに会った千沙は、良い女になったでござろう」

 不意に、舌を舐め回すような口振りで、忠吉は、久秀の神経を逆撫でするかのように娜ぶった。

「ー」

 小娘だった千沙を女にしたと自慢する忠吉に、久秀の感情は激しく憤った。

「千沙、儂の許に来ないか。そなたの弟の甚助も、名を松永長瀬と改めて、今は儂の許におるゆえに」

 忠吉への憎しみを堪えては、側に勘兵衛が居るのも忘れて、久秀は、千沙に自分の許へ来るようにと説得した。

 当然、久秀は、千沙が承諾するものだと思った。

 ところが、千沙は、顔を強張らせたまま俯いているだけだった。

「どうした千沙、何故黙っておる」

 何も喋らない千沙に、久秀は、強く迫った。

「小平太さん、許して……」

 久秀の気持ちは嬉しかったが、忠吉の妾に堕ちた自分が、今更、久秀の許に行ける筈がないではないか。

 千沙は、居たたまれなくなり、逃げるように部屋から立ち去ってしまった。

「千沙ッ」

 逃げ去って行く千沙の後ろ姿を、久秀は、追いかけようとした。

「もうよい久秀、止すのじゃッ」

 我を忘れている久秀に、勘兵衛の一喝が飛んだ。

「はっ……」

 勘兵衛に叱責されて、久秀は膝を落とした。

「久秀殿、おぬし、まだ千沙に惚れておるようじゃが、千沙は儂の女だという事を忘れぬように」

 好色的な笑みを見せながら、忠吉は、久秀の感情を逆撫でした。

「己れッ」

 久秀の激しい憤りが爆発した。忠吉への殺意が、躰中に噴き出した。

「久秀ッ。忠吉を斬る事は許さぬ。忠吉は、これからの儂にとって必要な男じゃ。その代わり女は、おぬしの好きなようにいたせッ」

 野太刀を抜こうとした久秀を、勘兵衛は制しては、忠吉が自分の配下だと話した。

「小平太、残念じゃが、千沙はお前にくれてやる。これからは共に、勘兵衛様のために働こうではないか」

 忠吉は真顔になり、共に勘兵衛の家来として働こうと、久秀を説得した。

「馬鹿な、何故、お前が勘兵衛様のために働くのじゃッ」

 久秀は、感情的に吠えながらも、勘兵衛と忠吉は、ある意味での主従関係だと気付いた。

「久秀、怒りに任せて物事を判断するではない。それではこの乱世を生き抜けぬぞ。儂はな、このまま池田信正の家老で終るつもりは無い。いつか近いうちに信正に取って代わり、伊丹元扶をも討ち滅ぼして、必ず摂津を切り取るつもりじゃ」

 忠吉に対する憎しみで、感情的になっている久秀を宥めながら、勘兵衛は、己れの野望を初めて口にした。

「勘兵衛様……」

 やはり、久秀が案じた通り、勘兵衛は、池田信正への謀叛を計画していた。

「丹波衆を撃ち破って以来、管領高国様の勢いは、以前に勝るほどのモノとなった。この機を逃してはならぬ。儂は高国様に味方する腹積もりじゃ」

 丹波衆を播磨で撃破して以来、畿内の勢力図は、再び高国の支配下となった。勘兵衛は、その機に乗じて謀叛を考えたのだ。

「そのためには銭もいる。久秀、おぬしのような武者も必要なのじゃ」

 己れの野望に勝算があるのか、勘兵衛は、無謀な計画だと考えていない。

「銭は、儂が商いで幾らでも稼ぎ、勘兵衛様を助ける。お前には、勘兵衛様の右腕として働いてもらいたい。既に儂の倉には、二千の兵を雇える銭と、その武具を買える銭が貯まっておる。どうじゃ、儂と共に勘兵衛様の夢に賭けて見ようではないか」

 銭があれば何でも叶うと信じている忠吉らしい、久秀の感情などまったく考えていない。しかも、勘兵衛の謀叛が成功すると信じている。

「どうじゃ、久秀、儂の片腕となって助けてはくれぬか。孫子と六韜などの兵法書を取得したおぬしが、儂の右腕になってくれたならば、これほど心強いモノはない」

 勝算の無い謀叛に酔いしれている勘兵衛は、熱に浮かれたように、久秀を口説いた。

「……」

 無謀な夢に狂った勘兵衛に、久秀には、返す言葉が見付からなかった。

 確かに、畿内は再び高国の勢力が台頭してるが、長続きはしないだろう。その要因の一ッは、高国に人望が無い事だ。そして次に、四国の阿波に帰参している三好元長が、再び畿内に進出してくれば、形勢が一気に細川晴元方に好転するからだ。

「さて、どうする」

 久秀は考えた。

 勘兵衛の謀叛の根っこは、池田家の宿老の荒木正村との確執からなのであろう。

 だからこそ三年前、正村の配下だった忠吉の悪行を暴いて、領主の前で正村の顔を潰した上に、いずれ役に立つと考えて久秀を池田家へ仕官させたのだ。その裏で、将来の謀叛に備えて、忠吉を堺へ逃がして財を築かせていたのだ。

「仕方があるまい」

 久秀は腹を決めた。

「承知しました。儂は勘兵衛様に恩義がある身。これからも勘兵衛様のために働きまする」

 久秀は、、深々と勘兵衛に平伏した。

「そうか、儂と共に摂津を斬り取ろうではないか」

 久秀の返答に、勘兵衛は、満足な表情で口許を緩めた。

「久秀殿、よく決心してくれた。昔の事は、お互いに水に流そうではないか。これからは共に、勘兵衛様に従って良い夢を見ようではないか」

 先程までの、自分への憎しみを剥き出しにしていた久秀の態度に不安を抱いていただけに、忠吉は、勘兵衛以上に喜んだ。

 だが、平伏している久秀の眼光は、不敵な笑みを浮かべていた。

「こいつらは、己れ等が伸し上がるために、儂を利用していただけではないか。ならばこれからは、儂がこの二人を利用して伸し上がってやる」

 久秀は、自身が下克上を斬り開き、己れが伸し上がる決心を固めたのだった。


 終り

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