十一・使い魔の正しい使いかた
《 十一・使い魔の正しい使いかた 》
今の自分にとって、武器になりそうなものは何か?
魔法ステッキではリーチが短すぎるし、振り回したところで、刃物ですぱっと切られて終わりそうなので、問題外。そういえば、家の押し入れにバドミントンのラケットがあったが…かなり古くて、すでにネットが破れていた気がするので、これも除外。
(……考えてみると、武器になりそうなものって、ありそうでないわよね…)
ハンガーとか、リビングにある孫の手とか。蕎麦枕にテレビのリモコン、投げられそうなもの、振り回せそうなものを思い浮かべてみるものの、どうにもピンとこない。
というか、常識的に考えて、武器があったからといってそれを使って攻撃できるかというと……無理、かもしれない。そもそも、平気で他人を傷つけられるほど、残忍にも冷酷にもなれそうにない。もちろん、馬鹿王子は例外だが――。そうなると、やはり、武器よりも魔法を使いたいところだ。何とかして、他の魔法を習得できないものだろうか。
その辺りを訊いてみると、即座にノーという言葉が返ってきた。
「使用できる魔法は、許可証にあるものだけです。もちろん、レベルに応じて増えていくでしょうが――アイカ様の場合、最弱の呪文がすでに消費MP五百以上の大技ですので、スズキ様のように小規模戦闘に適した魔法の習得は不可能でしょう」
「……うう、そっか。やっぱり、魔法はどうやっても無理なのね…」
肝心の魔法が使えない以上、やはり、自力で戦うしかないらしい。
(……でも、こんな小さな体で、おばちゃんを倒すなんて不可能よね…)
そう考えて、ふと、疑問がわいた。
暗殺者は、王子暗殺が目的で、王子を殺せばミッションは達成される。
ならば、愛華にとっての勝利条件は何なのだろうか。
王子と縁を切って魔法少女をやめるのが、もちろん一番の望みだが――それが叶わない場合…つまり、自分の身を守ることを最優先に考えたとき、無能な魔法少女である愛華が生き残る術は二つだけ。
つまり、暗殺者を再起不能にする、もしくは戦意を喪失させるしかないわけで。
「…ねえ、ハッシュくん。暗殺者は、倒されるまでずっと馬鹿王子を狙って襲撃してくるのよね?」
その問いに、彼はこくりと頷いた。
「はい。暗殺依頼の書状を所持している限り、暗殺という行為は、強制的に実行されます」
「――書状…ああ、おばちゃんの見せてくれた、あの赤い手紙ね?」
黒い封筒に入った、暗殺依頼の書かれた不吉な手紙を思い出す。
「……あれが原因で、おばちゃんが暗殺者になったんだとすると――…あの手紙を処分したら、おばちゃんは普通のおばちゃんに戻ったりして?」
思いつきで訊いてみると、ハッシュが再び頷きを返した。
「はい。暗殺者を倒すということは、その生命を奪うか、依頼書を破棄するかのどちらかですから…アイカ様の場合、クソ使えない魔法少女に変身した以上、後者しか身を守る術はないでしょうね」
「…クソ使えないとか言わないで。本人が一番わかってるから…」
魔法が使えない以上、今の自分は、ただのロリッ子コスプレ娘でしかないのだ。恥ずかしさを通り越して、虚しさとやるせなさに泣きたくなってくる。
額を押さえて呻く愛華に思うところがあったのか、ハッシュは無表情で助言してきた。
「まあ、アイカ様の場合、あれだけの数の使い魔がいますから、何とかやれそうな気はしますけど」
「…使い魔?」
言われて、ようやく思い出す。
天井一面にびっしりと張りついていた、不気味な黒い影。あまりにも不吉すぎる、コウモリの群れ。
ぬいぐるみのようにデフォルメされていれば、まだ可愛いというのに――リアルなコウモリは気持ち悪いの一言に尽きる。
「っていうか、あいつら、私が必死に逃げてるとき、全然助けてくれなかったんだけど。あれ、本当に私の味方なの?」
思えば、おばちゃんの召喚した刃の数々に切り刻まれそうになっていたとき、奴らは微動だにせず、天井にぶら下がっていた。アクセサリーでもあるまいし――思い出したら、無性に腹が立ってきた。
舌打ちしそうな愛華の様子に、ハッシュは小さく息を吐いた。
「使い魔は、主人の命令がなくては動きませんよ。まあ、そうでなくとも、コウモリは扱いにくいですからね。あんなのを使い魔にするとか、正直、正気を疑います」
「なっ、だから、好きであんな気持ち悪いの選んだわけじゃないって言ったでしょ!? 馬鹿王子のせいで、選択肢をミスっただけ! できるなら、可愛い小動物的なのとか、天使とか羽の生えた妖精とかの綺麗系がよかったわよ! それを、あんのクソ王子のせいで……ああ、本当にろくなことをしないわね、あのバカイドルは!」
バライドルをもじって罵ると、すかさずハッシュが同意してくる。
「まさに、バカイドルという名こそ相応しいとは思いますが――ところでアイカ様は、天使や妖精を隷属させたかったのですか?」
「え? いや、隷属っていうか……ほら、友達っていうか、パートナーっていうかね。せっかく魔法少女になるなら、せめて、相棒くらいは可愛いのをつけたいと思うじゃない?」
別に、魔法少女という立場を楽しんでいるわけでも喜んでいるわけでもないが、せっかくなら、傍にいて癒されるようなマスコットキャラクターがよかった。
現実的には、犬猫鳥、ハリネズミなんかも可愛いし、フェレットとかも憧れる。
非現実的には、天使みたいにきらきらした愛らしいイキモノとか、妖精、精霊とか。一般的に、綺麗だったり可愛い感じのものがいい。
とにかく、愛華の希望では、愛嬌があって可愛らしいイキモノがよかったのだ。もちろん、多少の欠点くらいは我慢してもよかったが――よりにもよって、何故、コウモリ? 愛華がハロウィンキャラだからといって、あまりにも安直すぎる気がする。まあ、カボチャのお化けとかゾンビとか、ホラー系よりはマシかもしれないが…。
「はあっ、コウモリなんてお呼びじゃないんだけどなあ。っていうか、コウモリって強いの?」
せめて、強力な魔法が使えるとか、そんな特典でもない限り、相手にもしたくない。
すると、その疑問そのものが理解できないとばかりにハッシュがまばたきをした。
「強い、というより、しつこいというべきでしょうね。こちらの世界ではどうかは知りませんが、我々の国では、特定指定害獣として討伐対象になっています。ですが、どんなに駆除しても、一向に数が減らなくて困っているのですよ」
「……が、害獣? コウモリって、有害動物なの?」
初耳だ。
わずかに身を乗り出す愛華から距離を取るようにして、ハッシュが説明する。
「はい。放っておくと人や動物を襲い、血を吸い尽くしていきますからね。しかも、吸血後のコウモリは一時的に魔力が高まり、それを身体に留めきれずにあちこちに放出していくのですが、放出されたそれは、ドラゴンの毒ブレス並みの威力がありまして。そのせいで町一つが数時間で滅ぼされたという記録がいくつも残っています」
「ど、毒吐くの? えっ、コウモリって、そんな危険な動物だったっけ??」
吸血行為は、何となくイメージに合うが――毒を吐き散らして町を壊滅させるとか、マジ、ありえない。
目を白黒させる愛華に、ハッシュは鉄面皮のまま説明を続ける。
「はい。少なくとも、私の知るコウモリというイキモノは、ただの害獣でしかありません。使い魔である以上、アイカ様の命令には従うとは思いますが――何せ、忠義心というものが存在しないうえ、仲間意識も皆無な連中ですからね。アイカ様が主人の器ではないと判断すれば、容赦なく牙を剥く可能性があります。扱う際は、気をつけたほうがよろしいでしょう」
「……気をつけろって、あんた。こちとら、魔法も何も使えないんですけど。襲われたとき、どう対処しろってのよ?」
深夜、眠っているときにいきなり襲撃されたら、ひとたまりもないではないか。
奴らは、愛華の行くところには音もなくついてくる習性でもあるのか、一階にいたはずなのに、今は、そこが自分の居場所とばかりに愛華の部屋に移動してきて、天井に黒い影の池をつくっている。
「…ね、ねえ、まさかとは思うけど……あいつら、こっちの言葉とか、理解してたりしないわよね?」
さっきから散々、コウモリは嫌だと言い続けている。よもや、知能の低い動物が、人間の言葉を理解して不快になったりしないとは思うが……そこは、魔法世界のイキモノ。愛華の願いは、儚く消えた。
「無論、理解できますよ。そうでなければ、命令しても動いてくれないでしょう?」
「…ひっ。じ、じゃあ、もしかして――私がコウモリを全否定してたのも、全部、聞いて…?」
「それはそうでしょう。ですが、まあ、安心してください。彼らは、アイカ様に感謝こそすれ、恨んだりはしていないでしょうから」
「え、な、何でよ?」
普通、自分の悪口を言われたら不快になって当然だ。しかも、相手が無能な魔法少女で、そんなのがご主人様だとか言われても、素直に受け入れられるはずがない。
だが、よく見ると、コウモリたちはたまに羽を動かしたりするくらいで、襲ってくる気配はない。まあ、真っ赤に光る眼が突き刺さるようにしてこちらに向けられてはいるものの、そこに殺意や敵意は感じない。
それでも、愛華はびくびくしながら、ハッシュのほうに救いを求めるように近づいた。誰かが傍にいないと不安で仕方がないのだ。
ハッシュは、当然ながら嫌そうな顔つきで愛華と距離を保ちつつ、口を開く。
「魔法少女が使命を全うしたとき――王子を一年間守り抜くことができたとき、彼らは闇の契約から解放されることになっています。コウモリは人気がありませんから、おそらく、封じられてから数百年…いえ、下手すると千年以上も闇のなかに封じられていた可能性がありますね。そんな自分を選んで表の世界に出してくれたアイカ様を恨むことは、まず、ありませんよ。それが、たとえ、どんな無能であったとしてもです」
「…最後の一文はいらないと思う」
文句を言ってから、愛華は訊いた。
「で、闇の契約って何なの? それから解放されるってことは、このコウモリたちも、私やハッシュくんみたいに、面倒な契約で縛られて強制労働させられてるってこと?」
「似て非なる状況、というべきでしょうね。使い魔にされるために闇に落とされた者どもは、すべて裁判において厳罰に処された連中なのです。処刑された者は別として、殺すには罪科が足りない…要するに、死罪にするほどではないが重罪を犯した連中が闇の牢獄へと放り込まれ、使い魔としての契約を交わすことになるのです。いわば、罪滅ぼしのための強制労働、もしくは、改心のための奉仕活動の一環ですね」
「――……そ、それって、このコウモリたちは、犯罪者ってこと? いや、人じゃないから、犯罪コウモリっていうべきかもしれないけど…」
若干、引き気味に問う。否定してくれればいいなあと思ったが、ハッシュは相変わらず切れ味鋭い言葉で一刀両断してきた。
「はい。ですから、アイカ様が天使だの妖精だのを使い魔にしたくとも、彼らのなかに犯罪者はいませんから、最初から無理な要望だったわけです」
「……いや、だとしても、わざわざ犯罪者から使い魔を選ぶ必要はないよね? いいじゃない、一般的な愛玩動物を使い魔にしても」
「そうは申しましても、王族に伝わる規則ですから、従者である私にはどうしようもありません。まあ、私に言わせれば、自分が生き残り、王子が死んでくれればそれで構いませんので、使い魔が凶暴な殺戮者だったとしても問題はありませんよ」
「いや、あるわよ! あるじゃない、こっちまで毒ブレスの巻き添えで死んじゃうかもしんないのよっ!? 駄目でしょう、そんな凶悪な使い魔! 馬鹿王子はともかく、気まぐれに私まで攻撃されちゃ、たまんないわ!」
心の叫びが小声になってしまうのは、コウモリたちに聞かれたくないからだ。しかし、そんなささやかな気遣いは無用に終わった。
『安心するがよい、娘よ。そなたを攻撃する気はこちらにはない』
愛華とハッシュの頭上から、やけにおじさんくさい声が降って来た。かなりの低音ボイス。ちょっとジェントルな感じの声音に、愛華とハッシュが揃って天井を見上げた。
「え、今の声って、もしかして…」
「はい。人語を操るコウモリは、かなり希少なのですが……どうやら、思った以上に力のある高位モンスターのようですね」
モンスターという言葉を耳にした途端、いきなりコウモリたちが反応した。威嚇するかのように一斉に羽を広げ、
『モンスターとは、低俗な輩の総称に過ぎぬ! 改めよ、小さきヒトの子よっ!』
不快げな声と共にコウモリたちが、キイキイと騒ぎ始める。その黒い羽がバサバサと動くたびに黒い靄のようなものが生まれ、あっという間に視界を黒く染めていく。
その不気味で不穏な様子に、嫌な言葉を思い出した。
「ま、まさか、毒ブレスッッ!?」
ハッシュが言っていたではないか。コウモリは、ドラゴン並みの毒ブレスを吐くのだ、と。
「ハ、ハッシュくんんんっっ! し、死んじゃうううっっ!」
恐怖のあまり、思わずハッシュに抱きつくと、彼は動じるどころか眉間にしわをつくって溜息をついた。
「はあっ。馬鹿王子の次は、無能な魔法少女。最後には、気位の高い犯罪モンスターですか。まったく、私の人生には、ろくな出会いがありませんね」
『! モ、モンスターと呼ぶなと言っておろうが! 貴様、自分の立場というものがわかっておらぬのか、愚か者めが!』
怒り狂った声が、刃のような突風となって頬を殴る。
しかし、ハッシュは慌てた様子もなく、冷静に対応する。
「何もわかっていないのは、そちらではないのですか? 知能が高いといっても、所詮は獣。人間には遠く及びませんね」
『き、貴様ああああっっ!!』
これは、マズイ。
吹き荒れる怒気に、今にも飛ばされそうだ。ハッシュは、防御魔法によって守られているので微動だにしないが、愛華はそうはいかない。必死にハッシュにしがみついて耐えるしかない。
「ひ、ひええええっっ! た、助けてえええっっっ!」
情けない声を上げつつしがみついてくる愛華を迷惑そうに見やり、ハッシュは不毛な戦いに終止符を打つべく動いた。
「まったく、自分の立場を理解していないようですね? たかがモンスターの分際で、この私に命令しようなどと身の程知らず以外の何モノでもありません」
『な、何だと! 若輩者めが、虚勢を張りおって!』
今にも襲いかかろうとするコウモリの群れに対し、ハッシュはどこまでも冷静だった。眠たげな眼を天井に向け、
「これが見えないのですか? モンスター野郎ども」
言ったハッシュの手には、いつの間にやらひと振りのナイフがあった。
しかも、その切っ先は、どういうわけか愛華の首筋に当てられている。
「あ、あんた、何考えてんのよっっ!? ひ、ひいっ! 何か、ちょっと当たったんだけど! ちくっとしたんだけどっっ!」
愛華の悲鳴に、コウモリは慌てて羽ばたくのをやめた。
『っっ、や、やめろ! 貴様、何をするつもりだっ!?』
何故か、愛華以上に焦り、怒気を弱めるコウモリたち。それと同時に、ふっと風がやんで部屋に充満していた黒い霧が消えた。
一方、急に浮力を失った愛華は、その場に崩れ落ちるようにしてドスンと尻もちをついた。
ハッシュはというと、そんな愛華の首にナイフの刃を近づけたまま、頭上へ向けて冷淡な声を放った。
「主人である魔法少女――つまりは、アイカ様が死ねば、使い魔はその責任をとり、煉獄へと送られるそうではありませんか。聞いたところによりますと、煉獄は、死さえ揺りかごでのまどろみに思えるほど過酷な世界だそうですね。その高貴ぶった言葉を吐く口から悲鳴が吐き出される瞬間を、ぜひとも見てみたいものですね」
口で笑み、目は本気のハッシュに怯えたのは、コウモリだけではない。愛華も、すっかり迫力に呑まれて硬直してしまう。
(…は、ハッシュくん、ヤバすぎっっ!)
今後、彼を怒らせるようなことはしないようにしようと心に決めた愛華は、死刑台にのぼるような心地で事態を見守った。ここで余計な動きをすれば、殺されかねないような剣呑な空気を感じ取ったのだ。
愛華同様に怯えたコウモリたちは、すっかりおとなしくなり、心なしか身体が一回り小さくなったようだった。
しかし、そんなコウモリたちを見据えるハッシュは、怒りを鎮めるどころか、愛華の首にさらに刃を近づけて、冷やかに告げた。
「――謝罪はないのですか?」
その言葉に、愛華もコウモリもクエスチョンマークを頭に浮かべた。
『? 何に対しての謝罪だ?』
声にくっきりと怯えの影を落として、コウモリが問う。
ハッシュは、そんなこともわからないのかとばかりに目をすがめてみせた。
「もちろん、私を侮辱したことに対する謝罪ですよ」
『侮辱? 何のことだ?』
コウモリの問いに、愛華も同じ疑問を抱いた。
どう考えても、ハッシュのほうがよっぽど相手を侮蔑していたではないか。
しかし、彼は、やや不愉快そうに眉を寄せ、
「忘れたとは言わせませんよ。言ったでしょう、この私を小さきヒトの子と」
『あ、ああ、言ったが……別に侮辱する意図はなかったぞ』
「侮辱ですよ! 小さいとか栄養が足りてないとか言われて不快にならない男はいません! 前言撤回したうえで、謝罪してください」
栄養が足りてないとまでは言っていないが――身長の低いハッシュには、そういうふうに聞こえたのだろう。コンプレックスは、人を卑屈にしてしまうものらしい。
「…えっと、別にそういう意味で言ったわけじゃないんじゃないかな?」
悪意のあるセリフには思えなかったので、つい愛華がコウモリをフォローすると、ハッシュは勢いよく否定した。
「いいえ、そんなことはありません! 悪意もないのに、男相手に小さいだなんて言いませんよ! よりにもよって、人が一番気にしてる点をあえてついてくるなど、卑怯すぎます!」
「…女の首にナイフ突きつけてる人が言うセリフじゃないよね、それ」
つい、ぽつりと本音を漏らす愛華に、ハッシュは涼しい顔で答えた。
「何を言っているのですか。私のプライドの前では、他者の生命など路傍に転がる小石同然なのです。アイカ様のちっぽけな魂で私のプライドが守れるというのであれば、それはそれで素晴らしいことではありませんか」
「――…いっそ清々しいくらいの外道よね、あんたって」
愛華の非難に、彼は悪意も良心もない無表情でまばたきを返した。
「過酷な人生を生き抜くのに、外道も何もありませんよ。何をしようと、生き残った者こそが勝者であり、正義なのです」
さらりと告げられた言葉に、ハッシュのねじ曲がった人生観を感じる。これはもう、何を言っても無理だ。彼に良心や倫理観を求めること自体が、間違っているのだ。
愛華は、ふうっと息を吐き、天井を見上げて言った。
「あのー、コウモリのみなさん。お願いなので、前言撤回して謝ってもらえません? そうすれば、事態が収まるので」
その言葉に、コウモリたちが小さくざわついてから、威厳もクソもないしょぼしょぼした声音で謝罪した。
『ぜ、前言撤回しようではないか、ヒトの子よ。すまぬ、許してくれ。この通り、心から謝ろう。であるからして、そこの娘を解放してはくれまいか』
「………ふん。まあ、いいでしょう」
可哀想なくらい困り果てた声のコウモリを二秒ほど睨み、ハッシュは、ようやくナイフを引いた。
思わず、愛華とコウモリたちの口から、ほうっと安堵の息が漏れる。
愛華は、よろよろしながらベッドに座り直すと、かすかに切れた首の辺りを手でさすってみた。すると、ぴりっと痛みが喉に走り、指先に赤い液体がついた。
思った以上にナイフは皮膚を傷つけていたらしい。致命傷とはならないが、生温かい血液の筋が鎖骨の辺りまで垂れていくのがわかった。
「わ、わわっ」
慌てて手近にあったタオルを首に巻きつけて、応急処置をする。昨日、濡れた髪に巻いていたやつで、あまり清潔とはいえないが、贅沢は言えない。母親が家から出たら、一階にある救急箱を取りに行って消毒することにしよう。とりあえず、加害者であるハッシュには、一言言っておかないと気がすまない。
「…ちょっと、ハッシュくん。首、思いきり、切れてるんだけど。謝罪はないわけ?」
睨みながらの愛華の文句に、ハッシュはけろっとした顔で、
「思いきり切れていたのなら、すでに即死しているでしょう。ちょっと怪我したくらいで、大げさに騒がないでくださいませんか。子供でもあるまいし」
と、のたまった。
この言い分にイラッとして口を開こうとしたら、勢いよく部屋のドアが開いた。
「き、貴様らっっ! この僕を一人にしてどういうつもりだっ!?」
半泣きで部屋に飛び込んできたのは、いわずもがな、金髪美形の馬鹿王子だった。