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※更新が少し遅れていくかもしれません。
深夜。
夜空の頂点に月が差し掛かった頃、ミハエルは地下室の訓練所にいた。
訓練室……とは言うものの中は剣や槍、弓、矢、斧などの武器が置かれてあり、そこは武器庫も兼ねている。武器の手入れは屋敷の者がしているためか、そこには錆た武器など一つもなく、全てが新品同然のものだった。
奥の方には一定のスペースが存在しており、人間一人が大きく動き回るには充分すぎる程である。
そこにあったのは等身大の鎧。他の武具は全て傷一つないのに対し、その鎧だけは削れていたり、穴が空いてあったりと傷だらけであった。
その原因は。
「――――はぁっ!!」
一瞬の覇気と声。同時に放たれる鋭い突きが鎧に襲いかかる。鋭剣レイピアが鎧に新しい傷を作っていく様はまるで芸術そのものである。強すぎれば折れてしまい、弱すぎれば全く意味をなさない。適度な力加減と適度な速度。それを体に叩き込んでいるのだ。
何も考えず、頭の中を空にする。余計なことを一切合切を切り離すことで集中力を高めるのだ。いかなる状況、状態でも己の剣技を見失わないように。
しかしあまりに没頭しすぎたせいだろうか。
ある程度動いたところで剣を止めると、どこかからか拍手が起こった。その時にようやくミハエルは彼女の存在に気づいた。
「マリー殿……」
「素敵な剣術でした」
いつもと同じような笑みを浮かべてマリーは言う。
いつからそこにいたのだろうか……気配を消していた、というわけではないだろう。ミハエルがただ単に気づかなかっただけの話なのだろうか、それにしても見られていたと思うと少々こそばゆい。
「こんな夜更けにどうしました?」
「それはこちらの台詞ですわ。今朝方あのようなことがあったというのに剣の稽古とは……」
「呆れましたか?」
「正直なところ、呆れていますわ……けれど、剣を扱う者にとってみれば日々の鍛錬を欠かせない、という気持ちは理解できます」
その含みのある言葉に首を傾げるミハエルにマリーは続けて言う。
「あら、ご存知ありませんでした? 私、こう見えても騎士学校に行っていたんですよ」
「騎士学校に、ですか……?」
「ええ。とは言っても、今回の縁談で退学しましたけど」
苦笑するマリーの寂しげな表情をミハエルは直視できなかった。その言葉は彼に対して皮肉を言いたかったわけではなく、どちらかといえば自嘲のようなものが混じっていた。だとしても、その原因たるのはミハエルとの結婚だ。そこに罪悪感が無いのか、と問われればもちろんあるに決まっている。
そんなミハエルに気づいたのか、マリーは慌てて別の話題を振った。
「そ、それにしてもやはりこんな時間まで鍛錬をしているなんて、旦那様は剣術に熱心なのですね」
「熱心、というよりは没頭しているだけでしょう。私はこれしか能のない人間ですから。それに……どうしても、技の練習をしておきたくて」
「技……というのは、フリード様に最後に見せたあの……」
「ええ。『三華月』というんですが、どうにもまだ自分はあの技を完全には会得できていないので」
へ? とマリーにしては珍しい声が出た。それだけ彼女にとってみれば不思議なのことだったのだろうか。
「完全には会得できていないって……あれで、ですか?」
マリーは決闘の際、確かに『三華月』を見た。あの同時に放たれた三段突きは秘剣と言われても何らおかしくない代物。現にフリードに対し、絶大な効果を見せ、敗北へと追いやった。
しかし、ミハエルは首を横に振る。
「『三華月』という技がどういうものかは分かっていますか?」
「はい。何となくですが、同時に放つ三箇所の突き、でしょう?」
「ほぼ正解、と言ったところでしょうか。正確に言えばあれは超高速の突きを一瞬の内に三回行う、というものです」
「? 私が言った内容と何か違いがあるんでしょうか」
「ええ。細かな点ですが……同時に放つ、というところが違います。あの技は同時に放っているように見えていますが、しかしやはり人間の技。実際は一突き一突きに若干のズレがあります。どれだけ疾く放とうと、これだけはどうしても超えられません。だから我がブラッド家はこのズレを最小限にしているに過ぎない。そして……私の『三華月』はそのズレが歴代の当主に比べて大きい」
「……どういう、ことですか?」
マリーの問いにミハエルは自嘲しながら答える。
「簡単ですよ。私はこの体です。どう見ても素早い動きをするのには向いていない。一撃目と二撃目までは問題ないのですが、どうしても三撃目になると速度が落ちてしまい、一撃目を放っていからの差が大きくなってしまうんです」
言われてマリーは思い出す。そう言えば確かにフリードに放った三華月の三撃目は若干遅く感じた。それは彼に止めをささないためかと考えていたが、そういう秘密があったのか。
「だから、こんな遅くまで技の稽古を?」
「ええ……本当ならばフリード殿にも完璧な技を放てれば良かったのですが……情けない話です」
フリード・ディケンスは男の中の男だ。少なくともミハエルはそう考えている。そんな彼だからこそ、本来正真正銘の秘剣で挑むべきたったのだ。それができなかったことがミハエルにとっては悔しく、フリードに対して申し訳がない。
そんな気持ちを抱いている内に、いつの間にかここに来ていたのだ。
「情けなくなんてありません」
唐突にマリーはそんなことを言い出した。
「だってそうでしょう? あのような素早くて綺麗で鮮やかな技を使えるんですから。完璧ではないかもしれませんが、しかし秘剣を使えるという点に置いて誇りを持ってもいいはずではないでしょうか。それに旦那様は本気の本気でフリード様と対峙なさったのでしょう?」
「あ、ああ……それは確かだが……」
「ならいいのです。ええ、ええ、いいんですよ。旦那様は手を抜かなかった。その事実だけでもフリード様は満足していると思いますわ」
それは慰め、なのだろうか。
「……だったら、いいんだが」
マリーにフォローされながらもしかし未だミハエルの顔色は芳しくはなかった。
「はぁ……旦那様はあれですね。体は大きいのに、細かいところで気になりますのね。真面目というか何というか」
「む……真面目なことはいいことではないだろうか。不真面目な人間よりはマシだと思うが?」
「それにしても限度というものがあります。真面目も過ぎれば他人にとって不快なものになりうるのですわ。旦那様はその点、もう少し考えて行動して下さいませ」
「は、はぁ……」
気を押されながら空返事する。しかし、確かに彼女の言うとおりなのかもしれない。今朝のことだって、ミハエルの生真面目さが原因の一端を担っている。そのせいでマリーには迷惑をかけてしまったことは事実だ。それは反省するべき点であり、改善すべきだ。
しかし……なんだろうか、この空気は。
まるで彼女に精神的な操作を受けているような気がしてならないのは気のせいなのか。
(よもやあれか。これが世に言う尻に敷かれるというやつか)
などと考えていると。
「何か変なことを考えてはいませんか、旦那様?」
「いいや、何も」
即答である。
「そう言えば、結局遠出はできませんでしたね」
マリーの言葉にミハエルは、あっと呟く。
そう言えばそんなことを言った覚えがある。というか、自分から誘っておいて忘れていたとは。しかし、それだけに今日起こった出来事が予想外だったのだ。誰が朝から決闘を申し込まれるなどという未来を予見することができようか。
「仕方ない。遠出は後日改めて、ということで。時間はたっぷりあるわけですし」
「……そう、ですわね。時間はいくらでもありますものね……あの、旦那様」
「何か」
「一つお願いごとがあるのですけれど」
珍しい、とミハエルは心の中で呟く。ここに来てからというもの、マリーから何かを頼まれるということは一度も無かった。それどころか今日に至るまでこのような自然な会話すら全くなかったのだ。
だからこそ、だろうか。
何やら嫌な予感がしたのは。
「私と一度、手合わせをしてもらえませんか?」
予感、的中である。