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マリー・R・トワネットは結婚相手であるミハエル・B・ブラッドの元で暮らしている。
結婚前の男女がそうしなければならない習わしがあるわけではないが、しかしこの二人については別の話だ。彼らはまだ会って間もない間柄。お互いのことを何も知らない。趣味、趣向、好き嫌い、性格。はっきりって赤の他人そのものだ。通常のお見合いすらすっ飛ばしていきなり結婚ということが決まってしまったわけで、会話した回数すら片手で数える程。
ならばどうするか、その疑問に両者の親族は一緒に生活をさせるという結論に至った。いずれ一緒に暮らすのだから遅いか早いかの話、という理屈は一応は通ずる。そして一つ屋根の下で暮らしていれば否応がなしに会話が増える。それが良い方向へ転ずるか、あるいは現状を悪化させるかは別として。
どちらにしろ、共に生活すれば互いのことを知ることができると思われていた。
しかし。
「……、」
「……、」
このように結果は惨敗である。
朝。二人は食堂で朝食をとっていた。食堂、と言っても十人や二十人が座るほどのだだっ広い部屋ではない。いや、そういう食堂もあるが、ここはせいぜい七、八人くらが座る家族で食事を行うスペーズなのだ。とは言ってもブラッド家は当主のミハエルを除いて祖父が一人だけであり、その祖父は別の館で隠居生活を満喫している。
つまりは今現在、ここで食事をしているのはミハエルとマリーの二人だけである。
一緒にいればいつしかその異性を気になり始める……誰が言ったかは分からないがその言葉は確かだろう。しかし気になり始める事と会話が多くなることは別の話だ。
(まずい……)
朝食が、ではない。この場の雰囲気がよろしくないと流石のミハエルも自覚はしていた。
彼女が来てもう三日。彼女を顔を合わせるのはほぼ食事の時だけ。それ以外はミハエルも領主としての仕事をしているため彼女が生活している部屋に直接行くことはなく、また彼女もミハエルに会いに来ることはない。
仕事の合間にでも行けばいい、という意見はすでにアルヴィンから言われている。その通りなのだがやはり勇気がない。用事もないのに会いに行って嫌われてしまうことを恐れているのだ。
何とも情けない話。そしてそれは今日までだ。
「……マリー殿」
不意に呼ばれたせいか。それともミハエルを怖がっているのか。マリーはビクッと一瞬体を震わせた。しかしすぐにいつものような顔立ちで答えた。
「なんでしょう、旦那様」
「いや……貴女がここに来てもう三日が経ったわけですが、その……何か必要なものはありますか?」
「? いえ、特には。入用のものは既に実家から持ってきていますし」
「そうですか。では当家で何か困ったことはありませんか?」
「いいえありません。何不自由なく過ごさせて貰っていますから」
「それは良かった」
それだけ言うと二人は食事を再開した。
……って、違うだろ! とどこからか誰とも知らぬツッコミがミハエルの心の中に聞こえてきた。その通りである。確かに少しは喋ったことにちょっとした達成感を感じてしまっているが、結局のところそれだけであり、これでは今までと何も変わらない。
ミハエルは改めて口を開いた。
「ところで……今日のご予定は?」
「……特にありません。本でも読んで暇を潰そうかと」
「それではご提案があるのですが……」
「提案?」
小首を傾げるマリーに少し、ほんの少しドキッとしながらミハエルはいつものように平常心を保ったような顔付きでいう。
「よければ、散策に付き合っては貰えないだろうか」
*
その頃食堂のドアの隙間で彼らの様子を見ていた人物が二人いた。
「やっと言いやがった、あの鉄仮面」
「私の前で主様の悪口ですか。いい度胸ですね」
「んだよ、ちょっと口が滑ったっていうかこの程度のことであの人は文句は言わねぇよ。っつか、口の悪さに関しては言われたくないね。俺、オタクより年上なんですけど」
「だからどうと言うのですか。顔だけが取り柄の女の敵である貴方を尊敬しろと? 申し訳ありませんが流石に私も女なのでそれに従うことは承諾しかねます」
「誰が顔だけが取り柄だ。ったく、顔は良いのに性格がアレなのはやっぱ問題だわな」
「その言葉、そっくりそのままお返し致します」
などと言い合いながらも彼らは視線を逸らさない。
クロエもアルヴィンに対して好戦的ではあるが、実際のところ彼が言った言葉は彼女も感じていたことだった。ここ数日続いていた無言の食事。食事中に騒ぐのはマナー違反だが、だからと言って一言も喋らずに終わってしまうのもいただけない。ましてやそれが近日結婚する二人となっては尚更だ。
「主様が女性の扱いに手慣れていないことは重々理解していたつもりだったのですが……まさかここまでとは」
「あの人、見た目がああだから昔から女に近づかれることが極端に少なかったからな。免疫がないんだよ。ったく童貞丸出しもいいところだ」
「おいこらまじでコロスぞお前」
「口調変わってんぞ~……しっかし、相手が商人の女とか交渉する貴族の女だったらいつも通りに話せるんだろうがな」
そういう場合、ミハエルは相手を女性じゃなくて商人と貴族として見ていないのだろう。無論、女性ということを忘れているわけではないが、それよりも彼らがどのような立場にいるのかを最優先して考える。だからこそ何も問題無かったわけだが。
「今回に限って言えば相手を女としてみなきゃいけないからな。しかも惚れちまってるとなると奥手になるのも何となくは分かる。分かるが……」
「流石に時間をかけすぎている、と?」
「結婚するんだからそれくらいがちょうどいいのかもしれないがな。何せ俺、結婚を前提に付き合ったことねぇから」
「はぁ……やはり貴方はクズですね」
言うとクロエはドアの前から視線を逸らし、どこかへと足を運ばせる。
「ん? もう見飽きたか?」
「黙ってください。散策に行くとなれば準備が必要です。マリー様の着替え並びに馬車を用意しなければなりませんので」
そうかい、という彼の言葉を聞き流しながらクロエは早速準備に取り掛かろうとする。
するとそこへ一人の給仕が慌ただしくやってきた。
「どうしました?」
「いえ、それが……」
給仕の次の言葉にクロエは眉をひそめたのだった。
*
「失礼します」
散策について話を進めていた時、クロエが食堂へと入ってきた。
食事はまだ途中、話もまだ終わっていない。にも拘らず彼女がこうしてやってきたことでミハエルはすぐに急用だと理解した。
「どうかしたか」
「はい。それが……マリー様のお知り合いが来ておりまして。結婚のお祝いに来た、と」
知り合い、という言葉と同時に彼女の動きが一瞬止まった。心当たりがある、と見るべきだろうがしかしここは敢えて彼女には聞かずクロエに質問を続けた。
「知り合い、か。名前は聞いたのか?」
「はい。確かフリード・ディケンス様です」
その時、マリーが手に持っていたナイフとフォーフを床へと落としてしまった。今の今まで貴族としてもマナーを一切破ったことのない彼女が、だ。
見ると顔は少々青ざめており、体も何故か小刻みに震えている。先程の反応とは少し違ったように見えるのは気のせいではないだろう。思っていた人物ではなかったが、それ以上に来て欲しくなかった人物だった、ということなのだろうか。
「マリー殿? どうかなさいましたか?」
「え、あっ、い、いえ別に何でもありません。ええ、ええ、何でもありませんわ、旦那様。私はいつも通りで何の問題もありません。はい。大丈夫です。元気です。健康体ですよ、はい」
だらだらと何やら汗を流しながらそんなことを言われても何の説得力もない。
そしてさらに珍しいことに彼女はクロエに向かって頼みごとをし始めた。
「クロエさん、すみませんが今私たちは食事中ですし、このような格好です。フリード様にはまた後日改めてくるようにとお伝え……」
「そんなつれないことを言わないでくれ、我が姫君よ」
マリーの言葉を遮るかのように現れた第三者。
見るとそこには白いタキシードを着こなした金髪碧眼の男が花束を持って立っていた。その姿を見てマリーは「げっ」と言いたげな表情を浮かべている。
聞くまでもないことだが、ミハエルは家主として確認する義務があった。
「貴殿がフリード・ディケンス殿か?」
「左様。ディケンス家の次男、フリード・ディケンスと申します。お初にお目にかかります、ブラット家当主、ミハエル・B・ブラッド殿。まずは無断で敷内に入ったこと、お詫び申し上げる。私情ではありますが、我が姫君が結婚すると聞いたものですから、どうしても貴方に会いたかったのです」
「そうですか……失礼とは思いますが、フリード殿。貴方とマリー殿とのご関係は?」
先程からの「我が姫君」という言葉にどうにもただの友人とは思えなかったミハエル。
その質問に待ってましたかのようにフリードは真剣な眼差しで答える。
「ミハエル殿……実は私と彼女は何度も夜を一緒に過ごした仲なのです」
「っ!?」
その言葉に驚いたのミハエル。
しかし。
「ち、違、いきなり何を言っているんですか貴方はっ!! 確かにパーティーで何度かお会いになったことはありますけど、それだけじゃないですか!!」
何だ、そういうことか、と安堵する彼にしかしてフリードは追撃する。
「何を言うんだい、我が姫君。あんなにも一緒に愛について語り合ったじゃないか」
再び襲いかかる真実。
だが。
「それは一方的に貴方が喋ってきただけでしょう!? というか、貴方と話のは好きなものは何ですか、程度のことだったはずです!!」
「そう、好きなもの……つまりは二人が愛し合うものについて、だ!!」
「どういう理屈ですか!!」
「ハハハッ、私と君の間に理屈などという言葉は意味をなさない!!」
そしてその後も何やら二人は言い争いを続けていく。
……。
ここまで来てようやくミハエルは理解する。
目の前にいる人物が面倒な人種であることを。
こういう手合いの人物とはあまり関わった事がなかったが……なるほどマリーが起動不審になるのもわかる気がする。
そしてもう一つ理解したこと。それは彼がマリーのことを好いている、ということだ。本気だということは嫌でも伝わってくる。恐らくだが、マリーがミハエルと結婚するという話を聞いて駆けつけた、というのも本当だろう。好きな女性が結婚しようとしている。故にじたばたしていられない。それは分かる。理解できる。共感もしよう。
しかし、だ。ならばこそ、彼は何をしにここへとやってきた?
「フリード殿。先程貴方は私に会いに来た、と言っていたが、何か用件があるのだろうか」
「おっと、我が姫君との再会の嬉しさで忘れてしまうところだった」
「ちょ、まだ話は終わってません!!」
などというマリーの言葉は流されてしまう。
フリードはミハエルの前まで来ると手に持っていた花束を渡した。
「ご結婚、おめでとうございます、ミハエル殿」
「あ、ああ。ありがとう。しかしその言葉は些か早い気がするのだが」
言いながら花束をもらい受ける。
この時、ミハエルは一つ過ちを犯してしまった。
目の前にいる男はマリーのことを好いている。ならば、その彼女と結婚しようとしている男に対して好意的であるのだろうか。
答えは……。
「ところでミハエル殿。早速で悪いのですが……」
否である。
「私と決闘をしてもらえませんか?」